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第83話

 伊吹くんの部屋は、八畳ほどのワンルームだった。


 家具といえば、ベッドとこたつ、テレビ、本棚付きのテレビ台だけ。こたつの上には、世界のお菓子に関する本が積み上げられ、何冊ものノートが開かれたままになっている。壁際にはダンボールが並び、中にはお菓子の空き箱やパッケージがぎっしり詰め込まれていた。


 祐介は無造作にノートを一冊手に取り、ぱらぱらとページをめくる。


「相変わらず、お菓子研究ノート書いてるんだな」


 伊吹くんは下を向いたまま小さく頷き、力なく床に座り込んだ。私たちも、こたつを挟んだ向かいに座った。


「姉ちゃん、伊吹さ、高校の頃からずっと、食べたお菓子を記録してるんだよ。いつか自分で商品開発をしたいって言って」


 祐介がそう言いながら、壁際のダンボールに視線を向ける。


「シルベストレ製菓に就職してからは、お菓子の箱や袋まで集めるようになったんだ。いつか自分のアイデアが商品になるときには、パッケージデザインにもこだわりたいんだって。な、伊吹」


 声をかけられたが、伊吹くんは黙ったままだ。


「そうなんだ」と、私は呟いた。いつも穏やかに笑っているような伊吹くんの内側に、こんな情熱が秘められていたのか──。


 祐介は伊吹くんを見つめ、静かに口を開いた。


「ダークレイス社の三浦さんに聞いたよ。俺の原稿と引き換えに、オーディション通過させてもらったんだってな」


 伊吹くんの肩が、かすかに揺れる。


「……ごめん」


 擦り切れたような声で、伊吹くんが呟いた。


「カフェで……祐介、お笑いのネタでも書いてるのかと思って、パソコンを開けたら……」


 途切れ途切れに言葉をつなぎながら、彼は続けた。


「……春木賢一朗の名前で、出版社の人にメールを書いてるのを見て……」


 祐介が小さくため息をついた。


「祐介が春木賢一朗だなんて……最初は冗談かと思った。それこそ、お笑いのネタにでもするんだろうって。でも、エアドロップで送って読んだら……本物っぽくて」


 泣き腫らした顔を上げて、伊吹くんは祐介を見た。


「半年くらい前にも、『笑いの芸品館』のオーディションに出たじゃん。あのとき、ダークレイスの社員が話してるのを聞いたんだ。『春木作品でドラマを作れたら、スポンサーが入れ食い状態で付く。なんとか連絡とれないかな』って……」


「それで、オーディションに合格させたら春木作品を映像化させてやるって、持ちかけたのか」


 祐介の声は低く、抑えた怒りが滲んでいた。伊吹くんは肩を震わせ、訴えるように言葉を絞り出す。


「だって、祐介は作家として成功してるじゃん! 俺ばっかり、何やってもうまくいかなくて……ずるいよ!」


「俺がどんな気持ちで、小説を書いていると思ってるんだ!」


 祐介の怒声が、部屋の空気を裂いた。私は思わず息を呑み、伊吹くんは怯えたように肩を縮める。


「俺は……俺の物語が、誰かの人生に届くって、本気で信じてるんだ。だから、一文字ずつ、自分の気持ちを削るようにして書いてきた。楽しいとか、そんなんじゃない……俺の全部を込めて書いてるんだよ!」


 膝の上で握りしめた拳が、小刻みに震えている。


「俺だけじゃない、譲原さんだって……。あの人がどれだけの信念を貫いて本を作っているのか、お前にわかるのか!?」


 怒り、悔しさ、そして深い悲しみ──そのすべてが彼の中で渦巻いているのが、痛いほど伝わってきた。


「映像化だって、どこの制作会社でもいいわけじゃない。作品を大切にしてくれる会社を、ずっと探してきたんだ。……それなのに、よりによって……なんでダークレイス社なんかに……!」


 祐介の声が掠れる。伊吹くんは視線を逸らし、唇を噛んだ。


「伊吹だって、わかってただろ? あの会社じゃ、全部薄っぺらくされて、……俺の想いなんて全部削ぎ落とされて、ただの娯楽商品に作り変えられてしまうって」


 祐介の怒りの奥には、深い絶望が滲んでいた。


「ごめん……ごめん」


 伊吹くんは肩を震わせながら、かすれた声で繰り返した。


「一昨日……俺の商品企画が、初めて通ったんだ。何度もダメ出しされて、やっと……」


 言葉に詰まり、震える手で床に置かれたティッシュを引き寄せた。


「すごく嬉しかった……。そのとき、はっきり思ったんだ。俺がやりたいのは……お笑いじゃなくて、お菓子だって」


「うん」と、祐介が短く答える。


「祐介も、お笑いは潮時だって言ってたのに、勝手に取引を持ちかけて……俺、なんてことをしたんだろうって……」


 伊吹くんは涙に濡れた目で、祐介を見た。


「昨日、早退して……三浦さんに電話して、取引はなかったことにしてほしいって頼んだんだ。でも……取り合ってもらえなかった」


 そうだろうなと、私は思った。簡単に手放せる案件ではないだろう。


「口約束だから、なんとかなると思ってた。でも……ダークレイス社の法務部が出てきて、『君のせいで会社が混乱している。法的措置も考えている』って言われて……」


 そう言うと、伊吹くんはこたつのテーブルに伏せるようにして、また泣き出した。


「ごめん、祐介……ごめん」


 かすれた声が部屋に響く。肩を震わせながら、床に視線を落としたまま、伊吹くんは繰り返し謝った。


 祐介はゆっくりと視線を落とし、ふっと息をついた。先ほどまでの怒りとは違う感情が、その瞳に滲んでいる。


 ──本当は、許したいのだろう。


 長年の友情を考えれば、突き放せるわけがなかった。伊吹くんがどうしようもなく追い詰められ、衝動的に取引を持ちかけたことも、祐介はきっとわかっている。


「祐介、譲原さんの方で、なんとかならないかな」


 根尾頁出版ほどの大企業なら、法務部のサポートが受けられるのではないかと思って、私は尋ねた。


「それがさ……」


 祐介はゆっくりと首を振った。


「譲原さんは、昔から上司に迎合しないし、本作りに妥協しない人だから……社内に敵が多いんだ。この件が表沙汰になれば、彼を引き摺り下ろそうとする連中が動くかもしれない」


 ──読者に誠実に。


 私をまっすぐ見つめて、そう言った譲原さんの顔が脳裏に浮かぶ。彼の信念を知るからこそ、彼を快く思わない勢力がいることも、十分に理解できる。


 だとしたら、他に打つ手は──。


「ねえ祐介、蓮さんに頼ってみたら?」


 そう提案すると、祐介は唇を噛み、ゆっくりと天井を仰いだ。


「……姉ちゃんが知らないことが、一つだけある」


「私が知らないこと?」


「俺──春木は、譲原さんを通じて、すでにエルネスト社に話を持ちかけてたんだ。映像化について、前向きに交渉したいって」


 私は驚いて祐介を見た。


「……どういうこと?」


 祐介は、自分の浅はかさを恥じるように強く目を閉じた。


「広瀬さんが、俺のこと怪しんでるって、姉ちゃん言ってたじゃん。それで、ダブルデートのあと、譲原さんに頼んでエルネストに連絡を入れてもらったんだ。春木賢一朗の交渉の場に俺が現れたら、みんな驚くだろうなって……」


 膝の上で、両手がぎゅっと強く握られた。


「……でも、その直後に、俺の作品がダークレイスに渡ってた。お笑いのオーディションに受かるために、エルネストとの約束を反故にして、ライバル会社に売ったなんて知られたら──広瀬さんも蓮さんも、きっと俺に失望する」


 祐介の声は静かだったが、その奥にある苦悩が痛いほど伝わってきた。


「春木賢一朗の作品を、最高の形で映像化したいって、本気で考えてくれてた人たちを……俺は、こんな形で裏切ったんだ」


 自分の知らないところで伊吹がやった──そう言えればいいのかもしれない。でも、私にはわかっていた。全ての責任を伊吹くんだけに被せることなんて、祐介には絶対にできないはずだ。


「……ごめん、姉ちゃん。蓮さんには頼れない」


 そう言って、祐介は私を見て小さく笑おうとした。けれどその笑顔は──ひどく痛々しくて、今にも泣き出しそうだった。


「これは……俺がなんとかしなきゃいけないことなんだ」

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