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第82話

 スタジオ・マンサニージャを出て、私はポケットからスマートフォンを取り出した。マナーモードにしていたせいで気づかなかったが、ロック画面には数分前のメッセージと不在着信の通知が並んでいる。


 着信履歴から発信ボタンをタップすると、数コールもしないうちに祐介が出た。彼の声には焦りが滲んでいる。


「姉ちゃん、今どこ?」


「今、会社を出たばかり。祐介は、伊吹くんに会えた?」


「ちょっと待って」


 一瞬の沈黙のあと、通話越しにバタンと扉が閉まる音が響く。続いて、祐介が誰かに住所を告げる声。どうやらタクシーに乗ったらしい。衣擦れの音がして、祐介の声がクリアになった。


「それが、伊吹のやつ……昨日急に早退して、そのまま無断欠勤しているらしいんだ」


「──え?」


 思わず足が止まる。伊吹くんが、無断欠勤なんて……。


「今から伊吹の部屋に行こうと思ってるんだけど、姉ちゃんも来る?」


「もちろん。同行させて」


 私は即答した。知里さんに正確な状況を説明するためにも、すべてを把握しておきたい。


「わかった。駅まで迎えに行くから、そこで待ってて」


 およそ10分後、祐介を乗せたタクシーが私の目の前に停まった。ドアを開けて乗り込むと、祐介がわずかに肩の力を抜くように息をついた。


「それで、伊吹くんの会社には行ったのね?」


 彼は小さく頷いた。その目には、拭いきれない不安の色が滲んでいる。


「伊吹には連絡せずに、直接会社に行ったんだ。受付で呼んでもらおうとしたら、今日は来ていないって言われて」


 膝の上で握りしめた祐介の両手は、緊張のせいで白くなるほど強ばっている。


「たまたま横にいた人が伊吹の部署の先輩で……『長野の幼馴染で、お笑いの相方です』って説明したら、ロビーの端に連れていかれて、いろいろ話してくれた」


 祐介は言葉を切り、額に手を当てて眉間を揉んだ。


「伊吹、昨日の午後イチ──たぶん、俺が電話した直後に、体調を崩して帰宅したらしい。でも今朝は連絡もなしに休んで、メッセージは既読にならないし、電話にも出ない。こんなこと初めてだからって、先輩も心配しててさ、家を知ってるなら様子を見に行ってくれないかって頼まれたんだ」


「……あの真面目な伊吹くんが、無断欠勤なんて」


 自分の声がわずかに震えたのを感じた。祐介が顔を上げ、焦りと不安が入り混じった目で私を見る。その表情に、小学生のころ、同級生と喧嘩して帰ってきたときの祐介が重なった。


 そうだ、確かあのときも……。


「伊吹さ」


 祐介の低い声が、私の思考を引き戻した。


「一昨日、お菓子の企画がやっと通ったばかりだったんだって。何度もボツになって、その都度練り直して、やっとのことで通ったやつ。それで部署のみんなも応援ムードだったらしいんだけど……こんな状況じゃ、信用を失いかねない」


「そう……」


 それ以上、かける言葉が見つからなかった。祐介は両手で顔を覆い、絞り出すように呟く。


「姉ちゃん、俺……伊吹のこと、責めらんねーよ」


 その声には、伊吹くんへの怒りよりも、自分への苛立ちが色濃く滲んでいた。


「伊吹には、いつかデビューしようなって言ってたくせに、俺は……譲原さんと本を作るのに、夢中になってた。伊吹が仕事で稽古できなくても、『しょうがねーな』なんて言いながら、むしろ執筆できる時間が増えてラッキーくらいに考えてたんだ。芸人は……いつの間にか、俺の中では終わった夢になってた」


 祐介の声が、少しずつかすれていく。見てみぬふりをしていたことへの罪悪感が、胸の奥から溢れ出てきているかのようだった。


「伊吹も、本当は……お菓子の商品開発がやりたいんだろうなって、分かってたんだ。小学生のころからずっと言ってたし、珍しいお菓子を見つけると、他社の製品でも嬉しそうに買っててさ。『こんなお菓子作りたい』って話してるときの伊吹は、本当に楽しそうだった。でも……企画はなかなか通らなくて……」


 祐介の拳が、膝の上でわずかに震えた。


「多分、芸人の夢は、伊吹にとっては逃げ場所だったんだと思う。仕事でうまくいかない自分を保つための……最後の支えみたいな。だから、どうしてもオーディションに受かりたくて、こんな……」


 きっと大丈夫だよ──そう言ってあげたい。でも、祐介の心にどれだけ響くだろうか。祐介と伊吹くんが築いてきた長い友情を考えると、軽はずみな言葉は言いたくなかった。


 私は唇を噛んで、「うん」とだけ答えた。


 タクシーが五階建ての単身者向けマンションの前で停車する。重い空気を抱えたまま、私たちは祐介の案内で四階の角部屋へ向かった。


 一度チャイムを押したけれど、返事はない。


「伊吹、おい、いないのか?」


 祐介がドア越しに呼びかけたが、室内は沈黙を保ったままだ。彼は小さく息をついてから、スマホを取り出して操作した。数秒後、室内から着信音が微かに聞こえてきた。


「伊吹、いるんだろ、開けてくれ!」


 その声が、廊下に響く。これで出てこなかったら、どうすれば──そう考えたとき、ドアの内側からカチリと鍵の外れる音がして、ゆっくりとドアが開いた。


 現れたのは、ジャージ姿の伊吹くんだった。顔は青ざめ、目元と鼻は真っ赤に腫れている。長い間、泣き続けていたようだった。


「……祐介、ごめん」


 かすれた声でそう言うと、伊吹くんは視線を落とし、肩を震わせる。実年齢よりも幼く見える顔立ちが、今は無防備なまでに脆く見えた。


「伊吹、とりあえず中に入れてくれ。姉ちゃんも関係者だから、入ってもいいか?」


 祐介の静かな言葉に、伊吹くんは小さくうなずく。そして一歩下がり、私たちを招き入れるように、ドアを開いた。

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