最後の出社日だった。
私はスタジオ・マンサニージャのエントランスの前に立つ。大学を卒業してこの会社に就職してから、もう6年──。長いようで、振り返ればあっという間だった。
徹夜が続いたり、理不尽な指示に振り回されたり、締切を急に早められたり……。辛いことは山ほどあったはずなのに、今思い出されるのは、楽しかった瞬間や達成感を味わった記憶ばかりだ。
エントランスのステップを上がり、まずは先生のコーナーオフィスへ挨拶に向かう。
倉本先生は、その日の機嫌次第で態度が180度変わるタイプの人だ。予測不可能なので、ドアをノックする前はいつも少し緊張する。そして今日の倉本先生はといえば──気味が悪いほど、機嫌が良かった。
「あらぁ、椿井ちゃん。今日が最後だったのねぇ」
持参した老舗菓子店の
「先生、今まで大変お世話になりました」
「いいのよ、椿井ちゃん。あなたがいなくても、会社は安泰だから」
……まあ、そうかもしれないけれど、もう少し言い方ってものがあるのではないだろうか……。
だけど、この遠慮のない物言いも今日で最後だと思うと、少しだけ寂しくなるから不思議だ。私は改めて、心から感謝を込めて言った。
「本当にありがとうございました。ここで学んたこと、きっとこれからも活かしていきます」
「でもねぇ、椿井ちゃん、あなた運が悪いわよ。これから会社が面白くなっていくところだったのに、退職だなんて」
先生はそこで一度言葉を切り、こちらの顔をじっと見る。
「本当に、これから面白くなるところだっていうのに。ああ、残念だわぁ」
……これは絶対、聞いてほしいやつだ。私はゲームはやらないけれど、「なかまに してほしそうに こちらをみている」って、たぶんこんな感じだろう。
「面白い案件が入ったんですね」
退職する身としては、会社の今後の案件を耳に入れるべきではない。でも、先生が話したくて仕方ないのは明らかだったので、会話の流れを先生に委ねられるような聞き方をしてみた。
先生は待ってましたと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべた。
「そうなのよ、すごい案件が入ってきたの! まだ内緒だけどね、これを聞いたら、椿井ちゃん、退職を撤回したくなるんじゃないかしら」
私はにっこり笑った。これは長くなりそうだ。話を聞かずに撤退するのが正解かも。
「それは素晴らしいですね。では、私はこれで──」
言い終わる前に、倉本先生が言葉を被せてきた。
「春木賢一朗の次回作よ」
その瞬間、体が凍りついた。一瞬耳を疑ったけれど、間違いなく先生はその名前を口にしていた。
「……発注元は?」
「ふふっ、ほら、早速後悔してるんじゃない? 今ならまだ──」
「発注元はダークレイス社ですか⁉︎」
思わず声が強くなった。先生は一瞬驚いたように目を見開き、それから満足げに頷いた。
「その通りよ。この案件は安斎くんに任せるわ。最近、彼も随分と力をつけてきたの。あなたのことなんて、すぐに追い越せるでしょうね」
倉本先生は口元を緩め、楽しそうに笑った。
「椿井ちゃん、あなた確か、ダークレイス社の作品は好きじゃなかったわよね。オーディエンスに想像の余地を与えないって、前に言ってたじゃない?」
言葉の端々に、勝ち誇ったような響きが滲んでいる。
「でもね、細部にこだわって芸術性を追求するエルネストEP社より、誰にでもわかりやすいエンターテインメントを作るダークレイス社のほうが、ビジネスとしては正解なの。あなたにも、そのうちわかるわ」
呆然としたままオフィスを出ると、十五人ほどの社員たちがドアの前で待っていた。中央には、友記子と航が立っている。
「薫、独立おめでとう」
航はそう言って、手に持った花束を差し出した。
その瞬間、ようやく実感が込み上げてきた。私は今日、この職場を去る。もう、この仲間たちと肩を並べて仕事をすることはないのだ──そう思った途端、鼻の奥がツンと痛くなった。
友記子が、クラフトの紙袋を手渡してきた。
「これ、みんなからのプレゼント。開けてみて」
花束を友記子に預け、袋を覗き込むと、2種類のコーヒー豆とマグカップが入っていた。豆の袋には「余白」と「余韻」と手書きされたラベルが貼ってある。
「うちの姉夫婦がカフェを経営していて、脚本家の友達に贈りたいって話したら、特別にブレンドしてくれたの。『余白』は物語が始まる前の静けさ、『余韻』はドラマを観終わったあとに心に残るビターな味わい。そんなイメージだって」
友記子の声は涙で震えていた。目元に溜まった涙が、今にもこぼれ落ちそうだ。
最後に、袋の底からマグカップを取り出す。そこにはシンプルなフォントで、こう書かれていた。
"Write your story, one sip at a time."
「一口ずつ、物語を紡いでいこう──」
その言葉を口にした瞬間、感情が溢れて、堪えていた涙が頬を伝った。友記子と航、そしてこういう場面で必ず張り切る青木くんが、私をぎゅっと抱きしめてくれる。周囲からは温かい拍手が沸き起こった。
「みんな、本当にありがとうございました」
声を震わせながら、私は社員一人ひとりに感謝を伝え、事前に用意していたメッセージ付きのほうじ茶フィナンシェを配った。倉本先生の分は友記子に託し、ついでに先生のオフィスに置いてある最中を回収して、みんなに配ってもらうようお願いした。
早速フィナンシェを頬張る青木くんを横目に、友記子と航はエントランスまで私を見送りに来てくれる。
「薫、実は私も聞いてほしいことがあるの。1月に入ったら、一緒にご飯行こう」
「もちろん。友記子にはずっと助けられてきたし、私にできることがあれば何でも言ってね」
その隣で、航が珍しく真面目な顔で姿勢を正し、私をまっすぐ見つめた。
「薫……。脚本のこと、いろいろ教えてくれてありがとう。最近、先生にも褒められるし、自分でも少しずつ手応えを感じられるようになってきた」
そう言ってから、彼は深々と頭を下げる。
「『田舎の生活』のこと、本当に悪かったと思ってる……すみませんでした」
私は小さく息をついた。──ちょうど今朝、そのことについて考えていたのだ。
「……あの作品ね、もし私が持ち続けていたら、きっと今でもドラマ化されてなかったと思う」
航は驚いたように顔を上げた。
「私は、ずっと脚本家として成功したいって思ってた。でも、それ以上に、絶対に失いたくない存在ができたの。──そのきっかけになったのが、『田舎の生活』のドラマだったんだ」
今朝、蓮さんの寝顔を見つめながら、ぼんやり考えていた。
もし『田舎の生活』がドラマ化されていなかったら──。
あの割烹で私が「好きな映画、もしくはドラマは?」と尋ねたとき、蓮さんが『田舎の生活』と答えることは絶対になかった。そうしたら、私たちは食事を終えてそのまま別れ、再び会うことはなかったはずだ。そして……私たちはお互いを思い出すこともなく、まったく別の人生を歩んでいただろう。
その可能性を想像しただけで、息が詰まりそうになる。──背筋が凍りつくほどの、怖さだった。
もし蓮さんと一緒に暮らさなければ、私の心をこんなにも温めてくれる感情を知ることはなかったし、こんなに大切だと思える人に、一生出会えなかったかもしれない。
私は微笑みながら、航の顔を見た。
「ありがとうって言うのは、ちょっと違うかもしれない。でも……あの悔しさの延長線上で、最愛の人に出会えたなら、それも悪くないなって、今なら思えるの」
航は少し唇を噛み、ゆっくりと頷く。そして再び、頭を深く下げた。
「それじゃ、また近々会おうね!」
私は深呼吸をしてから、一歩、外へと踏み出した。
ふと空を見上げると、透き通るような青が広がっていて──自然と、蓮さんのことを思い出していた。