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第81話

 最後の出社日だった。


 私はスタジオ・マンサニージャのエントランスの前に立つ。大学を卒業してこの会社に就職してから、もう6年──。長いようで、振り返ればあっという間だった。


 徹夜が続いたり、理不尽な指示に振り回されたり、締切を急に早められたり……。辛いことは山ほどあったはずなのに、今思い出されるのは、楽しかった瞬間や達成感を味わった記憶ばかりだ。


 エントランスのステップを上がり、まずは先生のコーナーオフィスへ挨拶に向かう。


 倉本先生は、その日の機嫌次第で態度が180度変わるタイプの人だ。予測不可能なので、ドアをノックする前はいつも少し緊張する。そして今日の倉本先生はといえば──気味が悪いほど、機嫌が良かった。


「あらぁ、椿井ちゃん。今日が最後だったのねぇ」


 持参した老舗菓子店の最中もなかを差し出し、私は深々と頭を下げる。


「先生、今まで大変お世話になりました」


「いいのよ、椿井ちゃん。あなたがいなくても、会社は安泰だから」


 ……まあ、そうかもしれないけれど、もう少し言い方ってものがあるのではないだろうか……。


 だけど、この遠慮のない物言いも今日で最後だと思うと、少しだけ寂しくなるから不思議だ。私は改めて、心から感謝を込めて言った。


「本当にありがとうございました。ここで学んたこと、きっとこれからも活かしていきます」


「でもねぇ、椿井ちゃん、あなた運が悪いわよ。これから会社が面白くなっていくところだったのに、退職だなんて」


 先生はそこで一度言葉を切り、こちらの顔をじっと見る。


「本当に、これから面白くなるところだっていうのに。ああ、残念だわぁ」


 ……これは絶対、聞いてほしいやつだ。私はゲームはやらないけれど、「なかまに してほしそうに こちらをみている」って、たぶんこんな感じだろう。


「面白い案件が入ったんですね」


 退職する身としては、会社の今後の案件を耳に入れるべきではない。でも、先生が話したくて仕方ないのは明らかだったので、会話の流れを先生に委ねられるような聞き方をしてみた。


 先生は待ってましたと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべた。


「そうなのよ、すごい案件が入ってきたの! まだ内緒だけどね、これを聞いたら、椿井ちゃん、退職を撤回したくなるんじゃないかしら」


 私はにっこり笑った。これは長くなりそうだ。話を聞かずに撤退するのが正解かも。


「それは素晴らしいですね。では、私はこれで──」


 言い終わる前に、倉本先生が言葉を被せてきた。


「春木賢一朗の次回作よ」


 その瞬間、体が凍りついた。一瞬耳を疑ったけれど、間違いなく先生はその名前を口にしていた。


「……発注元は?」


「ふふっ、ほら、早速後悔してるんじゃない? 今ならまだ──」


「発注元はダークレイス社ですか⁉︎」


 思わず声が強くなった。先生は一瞬驚いたように目を見開き、それから満足げに頷いた。


「その通りよ。この案件は安斎くんに任せるわ。最近、彼も随分と力をつけてきたの。あなたのことなんて、すぐに追い越せるでしょうね」


 倉本先生は口元を緩め、楽しそうに笑った。


「椿井ちゃん、あなた確か、ダークレイス社の作品は好きじゃなかったわよね。オーディエンスに想像の余地を与えないって、前に言ってたじゃない?」


 言葉の端々に、勝ち誇ったような響きが滲んでいる。


「でもね、細部にこだわって芸術性を追求するエルネストEP社より、誰にでもわかりやすいエンターテインメントを作るダークレイス社のほうが、ビジネスとしては正解なの。あなたにも、そのうちわかるわ」




 呆然としたままオフィスを出ると、十五人ほどの社員たちがドアの前で待っていた。中央には、友記子と航が立っている。


「薫、独立おめでとう」


 航はそう言って、手に持った花束を差し出した。


 その瞬間、ようやく実感が込み上げてきた。私は今日、この職場を去る。もう、この仲間たちと肩を並べて仕事をすることはないのだ──そう思った途端、鼻の奥がツンと痛くなった。


 友記子が、クラフトの紙袋を手渡してきた。


「これ、みんなからのプレゼント。開けてみて」


 花束を友記子に預け、袋を覗き込むと、2種類のコーヒー豆とマグカップが入っていた。豆の袋には「余白」と「余韻」と手書きされたラベルが貼ってある。


「うちの姉夫婦がカフェを経営していて、脚本家の友達に贈りたいって話したら、特別にブレンドしてくれたの。『余白』は物語が始まる前の静けさ、『余韻』はドラマを観終わったあとに心に残るビターな味わい。そんなイメージだって」


 友記子の声は涙で震えていた。目元に溜まった涙が、今にもこぼれ落ちそうだ。


 最後に、袋の底からマグカップを取り出す。そこにはシンプルなフォントで、こう書かれていた。


 "Write your story, one sip at a time."


「一口ずつ、物語を紡いでいこう──」


 その言葉を口にした瞬間、感情が溢れて、堪えていた涙が頬を伝った。友記子と航、そしてこういう場面で必ず張り切る青木くんが、私をぎゅっと抱きしめてくれる。周囲からは温かい拍手が沸き起こった。


「みんな、本当にありがとうございました」


 声を震わせながら、私は社員一人ひとりに感謝を伝え、事前に用意していたメッセージ付きのほうじ茶フィナンシェを配った。倉本先生の分は友記子に託し、ついでに先生のオフィスに置いてある最中を回収して、みんなに配ってもらうようお願いした。


 早速フィナンシェを頬張る青木くんを横目に、友記子と航はエントランスまで私を見送りに来てくれる。


「薫、実は私も聞いてほしいことがあるの。1月に入ったら、一緒にご飯行こう」


「もちろん。友記子にはずっと助けられてきたし、私にできることがあれば何でも言ってね」


 その隣で、航が珍しく真面目な顔で姿勢を正し、私をまっすぐ見つめた。


「薫……。脚本のこと、いろいろ教えてくれてありがとう。最近、先生にも褒められるし、自分でも少しずつ手応えを感じられるようになってきた」


 そう言ってから、彼は深々と頭を下げる。


「『田舎の生活』のこと、本当に悪かったと思ってる……すみませんでした」


 私は小さく息をついた。──ちょうど今朝、そのことについて考えていたのだ。


「……あの作品ね、もし私が持ち続けていたら、きっと今でもドラマ化されてなかったと思う」


 航は驚いたように顔を上げた。


「私は、ずっと脚本家として成功したいって思ってた。でも、それ以上に、絶対に失いたくない存在ができたの。──そのきっかけになったのが、『田舎の生活』のドラマだったんだ」


 今朝、蓮さんの寝顔を見つめながら、ぼんやり考えていた。


 もし『田舎の生活』がドラマ化されていなかったら──。


 あの割烹で私が「好きな映画、もしくはドラマは?」と尋ねたとき、蓮さんが『田舎の生活』と答えることは絶対になかった。そうしたら、私たちは食事を終えてそのまま別れ、再び会うことはなかったはずだ。そして……私たちはお互いを思い出すこともなく、まったく別の人生を歩んでいただろう。


 その可能性を想像しただけで、息が詰まりそうになる。──背筋が凍りつくほどの、怖さだった。


 もし蓮さんと一緒に暮らさなければ、私の心をこんなにも温めてくれる感情を知ることはなかったし、こんなに大切だと思える人に、一生出会えなかったかもしれない。


 私は微笑みながら、航の顔を見た。


「ありがとうって言うのは、ちょっと違うかもしれない。でも……あの悔しさの延長線上で、最愛の人に出会えたなら、それも悪くないなって、今なら思えるの」


 航は少し唇を噛み、ゆっくりと頷く。そして再び、頭を深く下げた。


「それじゃ、また近々会おうね!」


 私は深呼吸をしてから、一歩、外へと踏み出した。


 ふと空を見上げると、透き通るような青が広がっていて──自然と、蓮さんのことを思い出していた。

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