ゆっくりと意識が浮かび上がる。
目を開けると、窓の外では群青の空が淡く溶けるように色を変え、静かに朝へと向かう気配がした。街はまだ眠りの中にいて、その澄んだ静けさが、そっと部屋へと流れ込んでいるようだった。
伸びをしようとした瞬間、右手が温かい指に優しく絡め取られていることに気づいた。横を向くと、すぐそばで蓮さんが穏やかに眠っている。
窓から差し込む微かな光が彼の髪を柔らかく照らし、くせ毛のカーブを緩やかに浮かび上がらせる。伏せられた長いまつ毛と、わずかに開いた形のいい唇。その無防備な寝顔を見ていると、胸の奥にそっと灯りがともるような、温かい気持ちが広がっていった。
彼を起こさないようにそっと指を解き、人差し指でくせ毛をなぞる。小さく「私のマッドサイエンティストさん」と呼びかけたけれど、規則正しい寝息は変わらない。
──恋人だから……いいよね。
私は小さく息を吸い、そっと蓮さんに顔を近づけた。
ほんの一瞬、触れるだけのキス。それなのに、唇が重なった瞬間、全身が熱を帯びるのがわかった。
もう一度……してもいいかな。というか、したい。
そんな思いが胸をよぎった次の瞬間──枕元のアラームが遠慮なしに鳴り響いて、私は思わず飛び跳ねそうになった。
蓮さんがゆっくりと手を伸ばし、スイッチを止める。
頬の熱が引かないまま、私は小さく息をついた。……こっそりキスしている最中じゃなくてよかった。そう思うべきなんだけど、できればもう一回、したかった……。
彼は軽く伸びをしながら、まだ眠たげな目で私を捉えると、私の背中にそっと腕を回して、自分の方へと引き寄せた。
「薫だ……夢じゃなかった」
かすれた声が耳に触れ、彼の温もりに包み込まれる。その体温が心地よくて、私は思わず目を閉じた。
「おはよう、蓮さん。よく眠れた?」
尋ねると、彼は眠そうに目を細めながら「うん」と小さく頷いた。
「薫はすぐに寝落ちして、それからずっと起きなかったね」
私は思わず笑う。
「それを知っているってことは……よく眠れたって、嘘でしょ?」
彼は小さくあくびをして、少し照れくさそうに目を伏せる。
「……さあ、どうかな」
その仕草があまりにも愛しくて、胸が甘く締め付けられた。
こんなに素敵な人のこんな姿を独り占めできるなんて、私は前世でどれだけの徳を積んだんだろう──そう思わずにはいられない。
「コーヒー、淹れてくるね」
そう言ってベッドから抜け出そうとした瞬間、蓮さんの手が私の手首をそっと捕らえた。
「薫……今日も一緒に寝てくれる?」
低く優しい声が、そっと耳をくすぐる。
その表情は、まるで大好きな飼い主に甘える大型犬のようで、なんだかくすぐったい気持ちになる。私は冗談めかして答えた。
「また、ただ寝るだけになっちゃうけど……いいの?」
蓮さんは目を細めて微笑んだ。
「もちろん。朝になって抱きしめさせてくれれば、それでいい」
その言葉に、切なさにも似た愛おしさが胸に満ちていく。この人は、どうしてこんなに──優しくて、温かくて、どこまでも誠実なのだろう。
──この人が望むことなら、何でもしてあげたい。
私は、外側に跳ねた蓮さんのくせ毛をそっと指先に絡めた。
「蓮さん」
名前を呼ぶと、彼は穏やかな笑顔で「うん?」と答えた。
「……美味しいコーヒー、淹れてきてあげるね」
そう言いながら、私は彼の柔らかな髪を撫でた。……ほんの少しでも離れるのが名残惜しくて、どうしてもこの温もりを手放せない。
本当のことを言うと、私は今すぐにでも──彼に、抱かれたかった。
蓮さんの部屋からリビングへ出て、主寝室に目をやる。ドアは閉じられたままだった。
キッチンへ向かうと、冷蔵庫の扉に貼った祐介へのメモが目に入る。もちろん、中の夕食も手つかずのままだ。
──何やってるんだろう、私。
急に現実に引き戻されて、私は小さく息をついた。さっきまで何も考えずに浮かれていた自分が、急に恥ずかしくなる。一番大変なのは祐介だとわかっていたはずなのに、彼のことを後回しにして、自分だけ幸せを噛みしめていた……。
コーヒーミルに豆を計り入れて、ゆっくりとハンドルを回す。豆が砕かれる低い音が心地よく響き、立ち上る濃厚な香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせた。──コーヒーの香りは、いつでも私を助けてくれる。
コーヒーをドリップしていると、背後から足音が聞こえた。振り返ると、シャワーを終えた蓮さんが立っていた。私と同じように主寝室のドアを見つめ、心配そうな表情を浮かべている。
「蓮さん、祐介とはあとで話すから、心配しないで」
そう伝えると、彼は小さく頷いた。
「……わかった。でも、全部一人で抱え込まないで」
やがて出勤の時間になり、私は玄関で蓮さんを見送る。ドアの前で立ち止まった彼は、まっすぐ私を見つめた。
「昨日も言ったけど、僕は祐介くんを疑っていない。だから、何かあったら相談してほしい」
その言葉は、心をじんわりと満たしていく。私は静かに頷いて、「ありがとう」と言った。
蓮さんはそっと手を伸ばし、私の指を包み込むように握る。
「なるべく早く帰るから」
「うん」
名残惜しそうに、彼の指がゆっくりと私の手から離れていった。
蓮さんを見送ってリビングに戻ると、ダイニングテーブルに祐介が座っていた。
「……おはよう、姉ちゃん」
「おはよう。よく眠れた?」
あえて何事もなかったかのように尋ねると、祐介は小さく頷いた。
「うん。……一時間くらい前に起きたんだけどさ、蓮さんと、どんな顔で会えばいいのかわからなくて」
私は頷きながら冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターをグラスに注いで彼に差し出した。
「お稲荷さん、ありがとう。絶品だったよ。祐介の分、冷蔵庫に入ってるけど、今食べる?」
頷くのと同時に、祐介のお腹が鳴る。彼はちょっと照れ笑いを浮かべた。
「昨日さ、プラネタリウム見ながら寝落ちして、そのまま朝までノンストップで寝ちゃったんだよ。おかげで、だいぶ回復して、その分、腹も減った」
「何があっても寝つきがいいのが、私たち姉弟の特技だもんね」
私はお椀にたっぷりとお味噌汁をよそい、テーブルに置いた。祐介は両手を合わせて「いただきます」と言ってから、ゆっくりと味わうように一口飲み、小さく息をついた。
「『スープは、ボウルに注がれた
「それ、すごくいいね。誰の言葉?」
「
そう言いながら、祐介は蓮さんが作ったサラダに手を伸ばす。
「心に染みる
「そうだね。温かいスープを飲んで、誰かのぬくもりを思い出す人がたくさんいるって思うと、なんか素敵だね」
そう言いながら、私は少し安心した。いつもの祐介に戻りつつあるみたいだ。
祐介は鶏ハムと野菜を一緒に頬張って、一瞬、動きを止めた。
「姉ちゃん、このドレッシング……何か余計なことした?」
私は少しムッとしながらも、胸を張る。
「蓮さんが、『少しクリスマスっぽくしよう』って言って、鶏ハムにジンジャーとタイムを巻き込んでいたから、私も合わせてハニーマスタード・ドレッシングにオールスパイスを入れたの。どう、クリスマスっぽいでしょ?」
祐介はもう一口食べ、なんとも言えない顔をした。
「うーん、方向性はいいんだけどさ、入れすぎなんだよな。……蓮さん、微妙な顔してなかった?」
私は昨日の蓮さんの顔を思い出し、ちょっと言葉に詰まる。
「美味しそうに食べてた、と思うよ? ……たぶん」
祐介は苦笑しながら「蓮さん、本当にいい人だな」と言って、お稲荷さんを口に運んだ。
「姉ちゃんて、料理をアレンジするとき、ちょっとやりすぎるんだよね。特にスパイス系は危険。姉ちゃんに持たせちゃダメだ。ほら、俺がカレー嫌いになったのだってさ……」
「はいはい、その話はしなくていいから」
私は慌てて彼の言葉を遮る。祐介はニヤリと笑いながら、それでも箸を動かし続け、気づけば皿の上にはもう何も残っていなかった。
朝食を終え、祐介が二杯目の緑茶を飲みながら口を開く。
「姉ちゃん、今日は会社?」
「うん、今日が最終日。午後から挨拶に行くだけだから、すぐ終わると思う」
湯呑みの縁を指でなぞりながら、祐介は少し考えるような仕草を見せた。
「俺さ、これから伊吹の会社に行ってこようと思う。夕方、どこかで会わない?」
私は「そうしよう」と頷いた。そして、昨日からずっと伝えたかったことを口にする。
「祐介……蓮さんから伝言です。『祐介のことは疑っていないから、困ったことがあったら相談してほしい』って」
祐介は静かにお茶を飲み干した。空になった湯呑みを手の中で転がしながら、しばらく沈黙が続く。
やがて彼は、何かを決意したように、小さく首を振った。
「姉ちゃん。すごくありがたいけど、これは……俺の問題だから」