──気がつけば、涙は止まっていた。
頬に触れるシャツ越しに伝わる、穏やかな鼓動と少し高い体温。その温もりとは対照的な床の冷たささえ、なんだか心地よく感じられた。
ゆっくりと瞬きをして、私はようやく、自分がどんな状況にいるのかを思い出した。
──私はいつの間にか床に座り込んでいて……蓮さんに抱きしめられていた。
彼の腕は、まだしっかりと私を包み込んでいた。大きな手は、私を落ち着かせるようにゆっくりと背中を撫でている。そのたびに、安心感が全身へと溶け込んでいくような気がして、私は静かにまぶたを閉じた。
そっと息をついてから顔を上げると、長いまつ毛に縁取られた瞳が、静かに私を見つめていた。
「……落ち着いた?」
いつもより低い、優しく気遣うような声。私は小さく頷いた。
「ごめん。蓮さん……疲れているのに」
体を起こそうとした瞬間、背中に回された腕の力がわずかに強まり、そっと胸へと引き戻される。
「もう少し……このままでいたい」
切なさを滲ませた、蓮さんの囁きが耳に触れた。私は何も言わず、そっと目を閉じて、彼の胸に身を委ねた。
「……蓮さんが帰ってきたとき、目をそらされたから……嫌われたのかと思った」
蓮さんは微かに息をつき、迷うように一瞬視線を落とす。
「ごめん、正直に言うと」
それから私の耳に唇を寄せて、秘密を打ち明けるようにそっと囁いた。
「祐介くんが主寝室で寝たって聞いて……もしかしたら、薫と朝まで一緒にいられるかもって、期待した」
その言葉に、一瞬、呼吸を忘れて顔を上げる。蓮さんは、まっすぐ私を見つめていた。
「それが顔に出ないように……取り繕ってた。ごめん」
「そうなの?」
彼は少し照れくさそうに目を伏せる。
「普段通りでいようとしたんだけど……たまに、薫のことを意識しすぎて、どうすればいいのかわからなくなる」
私はそっと手を伸ばし、蓮さんの頬に触れた。指先から伝わってくる彼の体温が、心にまで染み込んでいくようだった。
緩やかなカーブを描く短いくせ毛を見つけ、指先でそっとつまんで遊ばせてみる。くすぐったそうに目を細めた彼が、小さく笑った。
──ああ、この人のすべてが、たまらなく愛おしい。
「蓮さん、キスしたい」
頭で考えるよりも先に、言葉がこぼれていた。蓮さんは一瞬、困ったように目を伏せ、それからゆっくりと顔を近づける。
唇が優しく触れて、すぐに離れた。
──あの長野へ行く新幹線の中で、キスできるだけでいいと思っていたのに。今は違う。小さなキスだけでは、全然足りない。
切なさが胸を締めつける。私は彼を見上げ、微かに震える声で「もっと、欲しい」と囁いた。
蓮さんは小さく息を吐いて、そっと私の頬に触れる。そしてもう一度、ゆっくりと顔を近づけてきた。
あと少しで唇が重なる──そう思った瞬間、彼はふっとため息をつき、わずかに顔をそらした。
「……そんな顔でお願いされたら、困る」
かすれた声がして、指先が私の頬をなぞった。でも、それ以上は何もしてくれない。
「蓮さん……?」
焦れて名前を呼ぶと、彼は閉じられた主寝室のドアを親指で指した。
「この状況なので、薫は今日、僕の部屋で寝てもらいます。そして、隣の部屋に祐介くんがいる状態で……薫は絶対に手を出させてくれないだろうから」
端正な顔に、一瞬、微かな影が落ちた。それを隠すように、蓮さんはそっと私を抱き寄せる。
「これ以上したら……本当に止まらなくなる」
胸の奥が甘く疼く。熱を帯びたその声に、心が捕まえられたような気がした。
「もし蓮さんが眠れなくなりそうなら、私はカウチでも大丈夫だから」
瞬間、抱きしめる腕が、また少し強くなった。
「だめ。今日は一緒に寝る」
その一言に、胸がいっぱいになった。言葉にできない想いがこみ上げて、視界が滲む。私はそっと蓮さんの背に腕を回し、体を預けた。
「蓮さん……もう少ししたら、今回のこと、ちゃんと説明するから」
彼は私の肩に触れ、ほんのわずかに体を引いた。そして、腕の中に私を抱いたまま、まっすぐな目で見つめる。
「どんなことがあっても、君たちを信頼している。だから、君も、祐介くんも……」
そして彼は、ゆっくりと力強く微笑んだ。
「困ったことがあったら、僕を頼ってほしい」
泣き疲れると、お腹が減る。そんな当たり前のことを、久しぶりに実感した。
「いつものだけど」と言いながら、蓮さんがサラダの準備を始める。私は、祐介が持ってきたおばあちゃんの味噌を使い、具沢山のお味噌汁を作ることにした。お玉でそっと溶かすと、湯気の向こうに懐かしい香りが広がっていく。
メインはもちろん、祐介が作り置いてくれた、明日香ちゃんレシピのお稲荷さんだ。
キッチンに並んで立ちながら、ふと蓮さんの横顔を盗み見る。そういえば、こうして一緒に料理をするのは、いつぶりだろう。
彼の手元には、オールドパイレックスの小ぶりなミキシングボウル。その中で、はちみつやビネガー、オリーブオイル、粒マスタードが混ざり合い、黄金色のドレッシングに変わっていく。
今日は、砕いたアーモンドとカシューナッツを加えた鶏ハムのサラダに、このハニーマスタード・ドレッシングを合わせるみたいだ。
「前に食べたとき、『このドレッシングなら、毎日レタスだけでもいい』って言ったの、覚えてる?」
私が尋ねると、蓮さんはビーターを持つ手を止めて、ふっと微笑んだ。
「もちろん。薫、あのとき『このドレッシングなら飲める』って言ってたよね。さすがに驚いたよ」
「そんなこと……言ったっけ?」
「言ったよ。あのときの君はかなり本気だった」
蓮さんはくすっと笑い、また手元に視線を戻した。
こうして一緒にキッチンに立つこと。ささやかな会話で笑うこと。そして、彼が私の好きなものを覚えていてくれること……。──その一つひとつが、心に小さな灯りをともしていくようだった。
食事ができると、私は祐介を起こそうか少し迷った。でも、もしかしたら彼なりに考えを整理してから蓮さんに会いたいのかもしれない。
夜中に起きたときに食べられるよう、お稲荷さんとサラダを少し多めに用意してラップをかけ、冷蔵庫の一番手前に置いた。そして、「お稲荷さんありがとう。サラダとお味噌汁もあるよ」と書いたメモを冷蔵庫の扉に貼る。
蓮さんはお稲荷さんをひと口食べ、柔らかく微笑んだ。
「すごい、明日香ちゃんのと同じ味だ」
自分で作ったわけでもないのに、私は「そうでしょ」と得意げに頷く。
「祐介はああ見えて意外と几帳面だから、調味料は全部、計量スプーンできっちり測るの。だから、毎回同じ味を再現できるみたい」
「そういえば、ポタージュのレシピを教えたときも、分量を細かく書き出していた。姉弟なのに、そのあたりは随分違うんだね」
食事は穏やかに進んでいった。けれど、私たちの笑顔には、どこかぎこちなさが残る。
その理由は──きっと、私も蓮さんも、同じだった。
久しぶりに一緒に過ごす夜。ただ隣で眠るだけなのに……どうしてこんなにも、胸が高鳴るのだろう。
その夜、私は蓮さんのベッドで眠った。
宣言通り、彼は私に触れなかった。
それでも、彼がただ隣にいるだけで、張り詰めていた心が静かにほどけていくのを感じた。泣いたあとの心地よい疲労感と、蓮さんがそばにいる安心感に包まれて、私はすぐに深い眠りへと落ちていく。
どれくらい眠っただろう、ふと意識が浮かび上がった。
夢の淵で、手の甲にそっと、ぬくもりが触れる。熱を帯びた指先がゆっくりと絡まり、私を確かめるように、親指が優しく撫でた。
まどろみの境界で、その仕草に宿る想いが、指先から静かに伝わってくる。意識がふわりと溶けていくのを感じながら、私はその流れに身を委ねた。
──そのとき、かすかに蓮さんの声が聞こえた気がした。
「愛してる」
それが夢だったのか、現実だったのか──。朝、目が覚めて思い出してからも、確かめる勇気は、私にはなかった。