「ただいま」
スーツのジャケットを脱ぎながら、蓮さんが言った。
「祐介くんは?」
「疲れちゃったみたいで……主寝室で寝てる」
そう答えると、蓮さんの視線が閉じられたドアに向けられ、次に私をとらえた。短い沈黙のあと、彼は静かに「そう」とだけ言って、私から視線をそらす。
その仕草に、胸が締め付けられた。蓮さんは──怒っているのだろう。私の顔をまともに見たくないほどに。
それがわかっても、逃げるわけにはいかなかった。私は両手をぎゅっと握りしめ、思いきって口を開く。
「蓮さん、ダークレイス社と春木賢一朗、それからねこつぐらの件……知里さんから聞いた?」
蓮さんはゆっくりとソファに腰を下ろし、「うん」と短く答えながらネクタイを緩めた。……まだ、視線を合わせてはくれない。
「広瀬さんも随分と塞ぎ込んでいたから、半休を取って、午後は家で休んでもらったよ」
私の手を払い除けたときの知里さんの表情が、脳裏をよぎる。深く傷ついた彼女の目を思い出し、胸が痛んだ。
「……こんなことになって、ごめんなさい」
膝に肘をついて小さく息を整えると、蓮さんはようやく私の顔を見た。
「何があったのか……話してもらえる?」
その問いに、私は目を閉じる。
すべて話したい。真実を伝えて、私たちと蓮さんとの間に立ちはだかる隠し事をなくしてしまいたかった。
だけど──タクシーの中での祐介の言葉が頭をよぎる。
──姉ちゃんには本当に悪いと思ってる。でも、まずは伊吹と話をさせてほしいんだ。ダークレイス社との取引のことも、俺が春木だってことも、もうしばらく蓮さんたちには黙っていてもらえないか
今回のことで一番傷ついているのは、幼馴染で相方でもある伊吹くんに裏切られ、原稿を取引の材料にされた祐介のはずだ。だから私は、祐介が最善の解決方法を模索できるようにしたかった。
姿勢を正し、蓮さんをまっすぐ見て、私は深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
ソファがわずかに軋む音がした。次の瞬間、私の肩に手が触れる。
「薫、こっちを向いて」
低く静かな声が響く。ゆっくり頭を上げると、すぐそばに蓮さんが立っていた。吸い込まれそうなほど深い色をした瞳は、今にも泣き出しそうな私を映し出している。
「それは……僕には何も話せないってこと?」
その通りだった。だけど、そのまま肯定するのがつらくて、私はもう一度「ごめんなさい」とだけ繰り返した。
「広瀬さんが言うように、須賀さんが春木賢一朗ってこと? ビストロでのやり取りを話したら、彼女は『そうやって人をミスリードするのが春木賢一朗という人』って言っていたけれど」
「私には……答えられません」
「それじゃ、ねこつぐらのオーディション合格については?」
私は唇を噛み、視線を伏せた。何も言わなくても、沈黙がそのまま答えになってしまっていた。
「蓮さんに、一つだけ言えるのは……」
絞り出すような声で、私は言う。
「私も祐介も、ダークレイス社のスパイではないということだけです」
信じてもらえる根拠も、証拠もない。それでも、これだけは蓮さんにわかってほしかった。
短い沈黙のあと、蓮さんは小さく息をつき、静かに言った。
「薫……そろそろ、僕の気持ちを軽く考えないでもらえるかな」
その言葉は、冷たい雨粒のように私の胸に落ちた。
蓮さんの気持ちを軽く捉えたことなんて一度だってないと、誓って言える。だけど──私と祐介がこれだけ秘密を抱えていたら、蓮さんが怒るのも当然なのかもしれない。
私は唇を噛み、こみ上げる涙を必死に押しとどめた。
「そうだよね、何も話せないのに信じてなんて、都合が良すぎるよね」
笑わなきゃ──そう思って笑顔を作る。だけど、ちゃんと笑えているかなんて、自分でもわからなかった。
「……明日、祐介にマンスリーマンションを契約させるね。私もしばらく、そっちに滞在するよ。それから……時間を作って、ちゃんと説明するから」
言い終えた瞬間、涙が溢れそうになった。これ以上、蓮さんを直視できなくて、私は目をそらし、主寝室へ行こうと踵を返した。
「待って」
突然、後ろから腕を掴まれる。驚いて振り返ると、蓮さんの真剣な眼差しが、まっすぐに私を捉えていた。
その目を見た瞬間……張り詰めていた糸が切れるように、堪えきれなくなった涙がいくつも頬を伝った。
蓮さんはつらそうに眉をひそめ、ゆっくりと首を横に振る。
「違うんだ、そういう意味で言ったんじゃない。僕は、薫と祐介くんを疑ったことなんて一度もない」
思いがけない言葉に、思考が一瞬止まる。涙に滲んだ視界の向こうで、蓮さんが小さく微笑んだ。
「僕の気持ちを軽く考えないでと言ったのは──そろそろわかってくれていると思っていたんだけど、薫はまだ、わかっていなさそうだったから」
次の瞬間、私の体は強く引き寄せられ、温かな腕に包まれていた。胸に押し付けられる鼓動が、私のものと重なる。
「……僕が君のことを、どれだけ大切に思っているか」
驚きと戸惑いで、私は動くことができなかった。
「薫……」
長い指が、そっと私の髪に触れた。衝動を抑えるような慎重な手つきで髪をひと束すくい上げ、そのまま唇を寄せる。
それから蓮さんは私の髪に頬を埋め、まるで私の存在そのものを確かめるように、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。そっと吐き出された温かな息が首筋をくすぐり、その甘さに……私は微かに震えた。
「ずっと、こうしたかった……」
かすれた声が、熱を帯びた吐息とともに耳元で溶けていく。胸の奥にまで染み渡るような愛おしさが押し寄せ、私の全身を優しく包み込んだ。
「薫を見るたびに、ずっと抱きしめたかった。今日はクリスマスを理由にして、祐介くんがいても、絶対に抱きしめようと思ってた」
背中に回された腕の力が強くなる。その温もりが、夢ではなく現実なのだと理解できた瞬間……抑えていた涙が止まらなくなった。
蓮さんは私の額にそっと唇を落とし、小さく笑った。
「もちろん、クリスマスを理由にするからには、祐介くんのことも抱きしめるつもりだったよ」
祐介が困惑しながら蓮さんに抱きしめられる姿を想像して、私は思わず泣き笑いした。
「それって……私と祐介の抱き合わせ販売みたい」
こぼれた冗談に、蓮さんは微笑む。そして、そっと私のまぶたに唇を押し当てた。
「そうだね。薫と、薫が大切にしているものはすべて、僕も大切にしたい」
その言葉が、私の心をゆっくりと
「でも、ダークレイス社のこと……もし、その一部でも本当だったら?」
蓮さんの唇がまぶたから頬に移動して、小さく微笑む気配がした。
「薫くん、僕を見くびらないでください」
唇が頬から離れ、代わりに蓮さんの手がそっと添えられる。親指が、ゆっくりと私の唇に触れた。
「どんな事情があるにせよ、君と祐介くんが大切な人を裏切るはずがないって、僕はちゃんとわかっている」
蓮さんの指先がそっと唇をなぞると、そこから甘く穏やかな温もりが広がっていった。
「そして、君たち二人が、僕や広瀬さんを大切に思ってくれていることも……知ってるから」
もう、耐えられなかった。喉から嗚咽がこぼれ、肩が震えた。そんな私を、蓮さんはもう一度、しっかりと抱きしめる。
「好きなだけ、泣いていいよ」
それまでためらっていた両腕で、私は、彼の背中を抱きしめた。手のひらに蓮さんの体温を感じた瞬間、それまでどうやって立っていたのかわからないほどの安心感に包まれる。
「……蓮さんに寄りかかったら、自分の足で立てなくなりそうで、怖かった……」
「薫くん、それは僕の恋人のことも見くびりすぎです」
低く優しい声に、私はゆっくりと顔を上げた。蓮さんの瞳が、まっすぐに私を見つめ返す。
「僕の恋人は、泣いた分だけ強くなれる人だよ。たとえ誰かに寄りかかったとしても、また自分の力で歩き出せる。だから、君が疲れたときは僕が思い切り甘やかしたい。……それは、恋人である僕にしかできないことだから」
蓮さんの唇がそっと耳に触れ、甘く囁いた。
「だから……たまには祐介くんじゃなくて、僕を頼って」
その言葉は、蜂蜜を溶かしたミルクティーのように、私の胸に甘く染み込んでいった。冷えた指先で温かいカップを包んだときのようなぬくもりが、心のすみずみまで満ちていく。
声にならない嗚咽が漏れて……抑えようとしても、涙があとからあとから溢れてくる。私は震える手で彼の背にしがみついた。
蓮さんの腕は、さらに強く私を抱きしめてくれた。