これ以上ないほど沈んだ気分で、私と祐介はタクシーを降り、蓮さんのテラスハウスの前に立った。
家の中は静まり返り、人の気配はない。
私はドアを開けて室内に入り、祐介のためにドアを押さえた。でも、彼はポーチに立ったまま動こうとはしなかった。
「祐介?」
声をかけると、彼は俯いて微かに呟いた。
「……俺、ここに泊まる資格ないよ」
その顔には、行き場のない罪悪感が滲んでいる。
クリスマスディナーを作れなくなったことは、すでに蓮さんにメッセージで伝えてあった。返ってきたのは「わかりました」の一言だけ。
もともと蓮さんは、必要最小限のメッセージしか送らない人だ。それでも今回ばかりは──知里さんから、私たちがスパイかもしれないと聞かされたせいで、余計に素っ気なくなったのではないか。そんなふうに考えてしまう。
誤解はすぐに解けると思っていたのに……知里さんが想像していた最悪の展開が、現実になってしまった。
せめて、須賀さんのことだけでも本人の口から説明してもらおうと、私は出版社を出てすぐに須賀さんの番号を押した。
──やあ、電話をくれて光栄だ。あいにく僕は今、原稿と静かに語らっている最中でね。物語を紡ぐことは、自分自身を探る旅でもある。もう少しだけ、この
何度かけても、
仕方なく、須賀さんの番号に「至急、連絡をください」とメッセージを送った。
「祐介、中に入ってお茶でも飲もう」
玄関先で立ち尽くす祐介の肩に、そっと手を置く。彼は一瞬ためらったが、ゆっくりと頷いた。
室内に入り、リビングのソファに彼を座らせ、私はお茶を淹れるためキッチンへ向かう。シンクの横には、ジャガイモやトマト、葉野菜が、洗われるのを待つように並んでいた。
祐介は大雑把なようでいて、意外と几帳面だ。ソファベッドは毎朝きちんと畳むし、料理のあとはシンクの内側まで拭き上げ、水滴すら残さない。
そんな彼が、すべてを放り出して根尾頁出版へ向かったのだと思うと、なんだか胸が締めつけられた。
冷蔵庫の扉を開けると、大皿に盛られ、きっちりラップで包まれた山盛りのいなり寿司が目に入った。クリスマスのメニューを決めるとき、私が「蓮さん、明日香ちゃんのお稲荷さん、好きみたいだったよ」とレシピを渡したことを思い出す。
「姉ちゃん、リクエストばっかりだな! でも、俺も明日香ちゃんのお稲荷さんは絶品だと思うし、蓮さんが喜んでくれるなら……これも作るか」
あのとき、祐介は笑いながらそう言っていた。
──今回のことで、蓮さんと祐介、そして蓮さんと私の関係は変わってしまうのだろうか。
不安が胸をよぎる。けれど同時に、私がどれだけ考えても答えは出ないこともわかっていた。ダークレイス社とねこつぐらの件を知って、私たちとの関係をどうするのかを決めるのは、蓮さんなのだから。
私は小鍋で簡単なほうじ茶ラテを作り、祐介の分にはたっぷりの砂糖を溶かした。マグカップを持ってリビングに戻ると、祐介の姿はなかった。
ふと見ると、私が使っている主寝室のドアが閉まっている。ノックをしてそっと中に入ると、電気もつけず、ベッドの上で膝を抱えている祐介の姿があった。
「ほうじ茶ラテ、甘くしておいたよ」
カップを差し出すと、彼は小さく「ありがとう」と言って受け取った。私はその隣に腰を下ろす。
「……ごめん、勝手に姉ちゃんの部屋に入って」
「いいよ。蓮さんも私も普段からドアを開けたままにしてるのは、用があれば入ってという意味だから」
その信頼が、もう壊れてしまったかもしれないことについては、あえて触れなかった。祐介だって、言わなくてもきっとわかっているはずだ。
私たちはしばらく無言で座り、時折ほうじ茶ラテを口に運んだ。沈黙は不思議と重くはなく、私たちの心をそっと包み込んでくれるようだった。
湯気とともに広がる芳ばしい香りが、静かな空気に溶けていく。私はそれを、ぼんやり眺めていた。
やがて、祐介がぽつりと口を開いた。
「姉ちゃん、俺、今、立ち上がる気力がなくて……。リビングにある俺のボストンバッグ、取ってきてくれる?」
私は「うん」と言って立ち上がり、彼が高校時代から使い続けているバッグを持ってきた。
祐介は「ありがとう」と言って、ゆっくりとファスナーを開ける。そして、中からクリスマス柄の包装紙に包まれた箱を取り出した。
「これ、姉ちゃんと蓮さんにプレゼントしようと思って用意したんだ。開けてみて」
「ありがとう。でも、蓮さんと一緒のときのほうが……」
そう言いかけると、祐介は微かに笑った。その笑みはどこか力なく、諦めにも似ていた。
「今のこの状況で、蓮さん、俺からのプレゼントなんて受け取ってくれると思う?」
私は言葉を失った。
「まあ、蓮さんはいい人だから、受け取ってはくれるかもな。でもさ……今、俺が使いたいんだ、それ」
私は頷いて、包装紙をそっと解く。現れたのは、『スター・ウォーズ』にでも登場しそうな近未来的なフォルムの物体──プラネタリウム投影機だ。
祐介は
次の瞬間、闇に包まれた部屋いっぱいに無数の星が瞬いた。果てしなく広がる光の粒が、私たちの上に静かに降り注ぐ。夜空に溶け込んでしまうような感覚に包まれて、私は思わず息を呑んだ。
「わ、すごい……」
祐介は小さく微笑んで、ベッドに倒れ込んで天井に映る星を見上げた。私も同じように、その隣に寝転がる。
しばらくの間、二人でただ星を眺めていた。光は微かに揺らめきながら輝き、静寂をより際立たせる。
──そういえば、遠い昔にも、こんな夜があった。
「……子どもの頃さ」
天井を見上げたまま、祐介がぽつりと呟く。
「庭にキャンプマットを敷いて、二人で星を眺めたの、姉ちゃん覚えてる?」
祐介も同じことを思い出していたのかと、私は少し笑った。
「覚えてるよ。真冬だったから、雪の上に段ボールを敷いて、その上にマットを並べたよね。めちゃくちゃ厚着したけど、顔だけ寒かった」
私たちがまだ小学生の頃のことだった。あの夜、部屋の窓から見た星空があまりに美しくて、「外に出て寝転んでみよう」と私が祐介を誘ったのだ。
「母ちゃんは『風邪引くからやめなさい』って止めたけど、ばあちゃんが『いい思い出になるから』って、服を何枚も着せてくれたんだよな」
しっかりと着ぶくれた私たちは、マットの上に寝転んで夜空を仰いだ。本を読んでいるとき以外は、いつでも喋っているような姉弟だったのに、壮大な天体を前に、言葉は何一つ浮かんでこなかった。瞬く星々に吸い込まれるように、私たちはただ──果てしない夜空を見つめていた。
一瞬、あの夜の澄んだ冷たい空気が頬に触れた気がして、私はそっと目を閉じる。……幼い頃を思い出すと、どうしてこんなにも切ない気持ちになるんだろう。
「姉ちゃんさ、あのときすごい発見したの、覚えてる?」
私は少し笑った。あれから二十年近く経つのに、今でも鮮明に覚えていた。
「覚えてるよ。寝転がって星を見て、目を閉じて、もう一度目を開けると……星の遠さも、宇宙の広さも、怖いくらいにはっきりと感じるんだよね。まるで、宇宙に放り出されたみたいに」
「そうそう。姉ちゃんに言われてやってみたら、本当に星が遠くに見えてさ。あのとき、初めて宇宙の広さを思い知ったよ。……今でもたまに、そうやって星を見てる」
そう言いながら、祐介は天井の星に向けて右手を伸ばし、ぽつりと呟いた。
「……東京は、星が少ないけどな」
「そうだね」
私も静かに同意する。
「だけど、おばあちゃんの言った通りだったね。あの夜が宝物みたいな思い出になって、大切な場所にしまわれてる。祐介もそうでしょ?」
返事はなかった。しばらくして、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
私はそっと起き上がり、彼に予備の布団をかけ、それから投影機のスイッチをオフにする。
祐介を起こさないよう、静かに部屋を出たちょうどそのとき、玄関の鍵が開く音が響いた。
半透明のガラス戸の向こうに見える長身のシルエットが近づき、リビングのドアがゆっくりと開く。
「……蓮さん」
視線が合った。でも、続く言葉はどこにも見つからない。
──この人に説明できる言葉を、私はまだ、何も持っていなかった。