祐介をソファに座らせてから、譲原さんは内線で飲み物を注文した。ほどなくして、先ほど受付にいたスタッフが、静かにトレーを運んできた。
私はカップを両手で包み、ゆっくりとコーヒーの香りを吸い込む。
祐介の前には、仕事の打ち合わせでいつも飲んでいるミルクティーが置かれていた。しかし、彼はそれに手を伸ばすことなく、膝に肘をついたまま深くうなだれている。
譲原さんは、彼のティーカップの横にグラニュー糖のスティックを添え、穏やかな声で言った。
「春木先生、いつもおっしゃっていますよね。『書けないときは甘いものが助けてくれる』と。今も同じです。まずはお茶を飲んで、少し落ち着きましょう」
祐介はゆっくりと顔を上げた。その顔は気の毒になるほど憔悴していたが、譲原さんの言葉に促されるように、カップを手に取った。
「……譲原さん、姉ちゃん、すみませんでした。まさか、こんなことになっていたなんて……」
「祐介」
私が声をかけると、彼は力なくこちらを見る。
「私も、祐介がダークレイス社に映像化を持ちかけたとは思っていないよ。でも、何か事情があるのなら話してほしい」
祐介は小さく頷き、両手で顔を覆った。そして、深く息を吐き出しながら、ぽつりと話し始めた。
「……さっき、譲原さんから連絡をもらったとき、本当に寝耳に水だった。ダークレイス社とは『笑いの芸品館』のオーディションで関わっただけで、制作チームとは名刺交換すらしたことがなかったから」
やっぱり──と私は思った。
以前、祐介が「ダークレイス社は商業主義がエグすぎる」と言っていたのを思い出す。しかも、祐介がエルネストEP社の映像化オファーを受ける決心を固めたこの段階で、わざわざダークレイス社に取引を持ちかけるはずがなかった。
「それじゃ、ダークレイス社は嘘をついてるの?」
私が尋ねると、祐介はティーカップを置き、再び膝に肘をついて背中を丸めた。息を深く吸いゆっくり吐いてから、譲原さんの方を向いて口を開いた。
「譲原さん、気づきましたか。さっき転送してもらった、ダークレイス社から送られてきた原稿……あれ、
「確かにそうでした」と、譲原さんが小さく頷く。
「どういうこと?」
話が見えず、私は尋ねた。
「俺、初稿を譲原さんに送ったあと、第一章のタイトルを変えたんだ。一回目のメールでは『彼女の希望』だったけど、『第一の嘘』の方がしっくりっくると思って、訂正して再送した。最初のメールを送った三十分後くらいに」
「正確に言うと、三十八分後に、二回目のメールを頂いています」
譲原さんが、静かな口調で補足する。
「そして、ダークレイス社から送られてきた第一章のタイトルは、修正を入れる前の『彼女の希望』でした」
「それじゃ、二回目の修正原稿を送るまでの間に、誰かがデータを盗んだってことしか分からないよね。どこで原稿が流出したのか、絞り込むのは難しいってこと?」
私の言葉に、祐介は微かに首を振った。
「違うんだ。俺、ずっと第一章のタイトルを空白のままにしていた。それを、譲原さんにメールする直前に『彼女の希望』と入力して、それから約三十分後に『第一の嘘』に変えた。つまり、『彼女の希望』という章タイトルが付いた原稿は、せいぜい四十五分くらいしか存在していなかったんだ」
私は息を呑んだ。
「四十五分……それは、いつのこと?」
祐介は顔を上げ、私を見つめた。安心させるためか、祐介は少しだけ笑おうとしたが、その表情は痛々しいほど悲しげだった。
「姉ちゃん、覚えてる? 俺が蓮さんちに転がり込んだ二日後、カフェで姉ちゃんに『フラフィークリーム&ベリーショコラ』を奢ってもらった日」
私は頷いた。確かあの日、祐介は「カフェでお笑いのネタを作りたい」と言って、パソコンを持参していた。
「俺、あのカフェで、章のタイトルを『彼女の希望』に決めたんだ」
心臓を掴まれるような感覚がした。あのとき、私と祐介のほかに、そこにいたのは──。
今にも泣き出しそうな顔で、それでも無理に笑おうとしながら、祐介は続けた。
「姉ちゃんが帰ろうとしたとき、俺も一緒に席を立ったよね。エルネストEPの社風について探っているのを、蓮さんたちに言わないでくれって頼みに行くために。あのとき、俺、譲原さんへの最初のメールを打っている途中だった。春木賢一朗の名義で」
胸がざわつくのを感じながら、私は黙って祐介を見つめた。
「席を立つとき、俺、パソコンの画面を半分しか閉じてなかった。開けば、そのまま操作できる状態だった。……たぶん伊吹はメールを見て、俺が春木であることに気づいたんだと思う。それで、エアドロップか何かを使って、原稿のデータを自分のスマホに……送ったんじゃないかな」
祐介は唇を強く噛み、テーブルの上で握りしめた拳に力を込めた。
「──俺が、ちゃんと管理していれば……全部、俺の責任だ」
その瞬間、古美多で覚えた違和感が鮮明によみがえった。そうだ──祐介が「噛みまくっていたのに、なぜかオーディションに通った」と話したとき、伊吹くんは急に青ざめ、理由を聞かれても口を閉ざしたままだった。
春木賢一朗ほどの人気作家の作品が、いまだに映像化されていないことは、以前からネットニュースでもたびたび取り上げられていた。各社がオファーを競い合っているという噂も絶えなかった。……もしかすると伊吹くんは、「あわよくば」という気持ちで、原稿を自分に送信してしまったのかもしれない。
「……伊吹くんには、電話したの?」
私が尋ねると、祐介は小さく頷いた。
「伊吹の昼休み時間だったから、タクシーの中でかけてみた。……しばらく呼び出し音が鳴ったあと、電源が切られて、それっきり」
祐介の言葉に、譲原さんは背広の胸ポケットからスマホを取り出して、落ち着いた声で提案する。
「ここまで状況が明らかになっているのなら、ダークレイス社の三浦さんに直接確認してみてはいかがでしょう。春木先生さえよろしければ、今すぐお繋ぎできます」
祐介は息を呑み、譲原さんのスマホを見つめた。まるで、この電話をかけた途端にダークレイス社の見えない糸に絡め取られ、もう二度と抜け出せなくなることを恐れているかのように。
長い沈黙のあと、彼は小さく息を吐き、覚悟を決めたように「お願いします」と言った。
譲原さんがまず電話をし、その後、祐介にスマホを手渡す。
「はじめまして。作家の春木と申します」
先ほどまでとは打って変わった、落ち着いた声。その響きに、三年前の洗練されたビジネスパーソンだった頃の祐介が重なった。
「そうですか……小林伊吹が、私の原稿と引き換えに取引を持ちかけたと……。いえ、私はその件については一切聞いておりませんでした」
祐介の声がわずかに低くなる。小さな変化だったが、彼の落胆はすぐにわかった。
──やっぱり、伊吹くんだったのか。
「……事情は理解しました。しかし、私自身はそのような取引を持ちかけた覚えはありませんし、オーディション合格についても、即時取り消しをお願いしたいと思っています」
それからしばらく、祐介は取引の無効を主張し続けた。しかし、ダークレイス社もまた、「春木賢一朗作品初の映像化」という話題性を、そう簡単に手放すつもりはなさそうだった。
「……また、ご連絡いたします」
祐介がそう言って通話を切る。その顔を見れば、結果は聞かなくてもわかった。契約を白紙に戻す交渉は、完全に決裂していた。
私は俯いた。知里さんの言ったとおりだった。──祐介は知らなかったとはいえ、伊吹くんが「ねこつぐら」のオーディション合格と引き換えに、春木賢一朗の次回作をダークレイス社に売ってしまっていたのだ。
祐介の、そして知里さんのやりきれない気持ちを思うと、私は何も言えなかった。
窓からは、やわらかな午後の陽が差し込んでいる。あの日、私の肩にそっと置かれた知里さんの手のような、静かで優しい温もり。
だけど今、その光は、手を伸ばしても届かないほど遠くに感じられた。