『風が消える庭』の書籍化が進む中、祐介は並行して他の出版社と次作の打ち合わせを重ねているようだった。
祐介からたまに届くメッセージには、譲原さんへの不満が滲んでいる。
「譲原さん、本当に細かいところまでチェックしてくる。ここまでやる必要あんのかな」
「譲原さんの言う誠実さって、手間かかりすぎ。タイパ悪すぎるよ」
「早く他の出版社をメインにしたい」
──読者に誠実であれ。
譲原さんの言葉が、ふと脳裏をよぎる。私は祐介のメッセージに対して、「そうなんだ」とだけ返信した。
それから数週間後、祐介から再び電話がかかってきた。受賞の知らせのときとは打って変わって、彼の声は沈んでいた。
「姉ちゃん……前に話した、過去作を切り売りする話だけどさ」
その日はスタジオ・マンサニージャでの徹夜が続いた直後で、私は疲れ切っていた。ベッドに横になったまま、「うん」と相槌を打つ。
「他の出版社にプロットとサンプル原稿を出したんだけど……俺がこだわってた部分が全部なくなって、なんか……魂が抜けたみたいな小説になった。でも、その編集者さんは絶賛するんだ。これは絶対に売れるから、できるだけ早く書き上げてくださいって」
「そうなんだ」
「出版すれば、春木の二作目、三作目として売れるのはわかってる。でも……最初にこの小説を何度も書き直してたときのことを思い出すと、なんかモヤモヤするんだ。……このまま進めていいのかなって」
私はぼんやりと天井を見つめた。普段なら、彼が傷つかないように言葉を選んだだろう。だけどその夜、私は疲れ切っていて、正直な言葉が口をついて出た。
「祐介さ、よく考えてみなよ。あんたが本にしようとしてるのって、コンテストに落ちた作品だよね?」
電話の向こうで、小さく「うん」と答える声が聞こえた。
「『まだ出版レベルじゃありませんよ』って突き返された作品を、さらに二つに分けて出版しようとしているんだよ。……それでいいのかどうかは、私じゃなくて、それを書いた高校時代のあんたに聞いてみなよ」
しばらく沈黙が続き、やがて小さな声が聞こえた。
「でもさ、初版でそれぞれ2万部刷ってくれるって言われたんだ。新人にしては、すごい数字なんだよ」
「……祐介、その数字に、あんたが求めていた価値はあるの?」
祐介が息を飲む気配がした。私はベッドに横になったまま、静かに目を閉じる。
「ずっと書き続けて、何度も書き直して、納得いくまで向き合って……そうやって生まれた物語こそが、あんたの小説の価値だったんじゃないの?」
スマホ越しに伝わる静寂の中、彼の呼吸がかすかに乱れた。
「私は、祐介が書く物語の一番のファンだよ。でも……そんな小説なら、私は読みたくない」
しばらくの沈黙。そして、スマホの向こう側から小さく震えるような音が聞こえてきた。
──あのとき、祐介は泣いていたのだろうか。
後日聞いた話では、契約締結寸前で、祐介は他の出版社との話をすべて断ったそうだ。
「改めまして、姉ちゃん、受賞祝いの夕食奢ってください!」
祐介が深々と頭を下げてそう言うので、私は「特別だよ?」ともったいつけながら、彼をお気に入りのメキシコ料理レストランに連れて行ってあげた。
私のおすすめは「鶏肉と野菜のファヒータ」で、祐介は迷わずそれを注文した。スパイスの香ばしさが食欲をそそり、横にはたっぷりの
祐介はトルティーヤで具材を包み、熱々のまま頬張ると、「なんだこれ、初めて食べた。うまいな!」と目を輝かせた。さらに、キリッと冷えたライム入のテカテビールをひと口飲んで、満足げに天井を仰ぐ。
「『良き仲間とともに、良きワインを傾け、良き食事を味わう。それは人生における、最も洗練された悦びのひとつだ』ってマイケル・ブロードベントは言ったけど、それ、ビールとメキシコ料理と姉ちゃんにも当てはまるな」
何を食べてもおいしい日だった。私は気を良くして、祐介のために、アボカドが濃厚なグワカモレとチーズがたっぷり載ったエンチラーダも追加で注文した。
デザートのトレス・レチェスが運ばれてくると、祐介が不意に口を開いた。
「姉ちゃん、アガサ・クリスティっているじゃん。晩年は毎年、クリスマスが近づく頃に新刊を出してたらしいんだ。『
「へえ、そうなんだ」
パイナップルのエンパナーダを切り分けながら、私は頷く。
「彼女の本を楽しみにしながら、クリスマスを待つ人がたくさんいて、クリスティの新刊とともに迎えるホリデーは、彼らにとって特別な時間だったんだろうなって思うよ。──俺たちも、そんな本を作れたらいいねって、譲原さんと話してたんだ」
私は思わず笑顔になる。
「そうだね。そんなふうに誰かが心待ちにしてくれるなんて、作家にとってこれ以上の幸せはないよね」
「はい、半分こ」と言って祐介は、小皿に載せたトレス・レチェスを私の前に置く。私もエンパナーダを半分、祐介に差し出した。
祐介は、エンパナーダにトレス・レチェスを載せ、一口頬張った。……邪道ではあるけれど、なんだかとても美味しそうに見える。
私も、真似て食べてみる。甘酸っぱいパイナップル・フィリング入のサクサク生地に、トレス・レチェスの濃厚な甘みがじんわり染み込んで……何度も食べたことがある
「いつかさ、小説をドラマ化とか映画化もしたいんだ。でもね、焦るのはやめた。この会社に映像化を任せたい、この人たちと一緒に作品を作りたいって思えるところが見つかるまで、じっくり待つよ」
「それがいいね。映像業界にも、譲原さんみたいな人が、きっとどこかにいるはずだよ」
「今度はおじいちゃんじゃなくて、美人なお姉さん希望だけどな」
私はくすっと笑い、祐介の言葉をからかう。
「子どもの頃は『俺、将来ばあちゃんと結婚するんだ!』って言ってた祐介が……言うようになったねぇ」
祐介は「懐かしいこと覚えてるな」と照れ笑いし、それからふと真剣な表情で私を見た。
「姉ちゃん」
「なに?」
「制作会社がどこになってもさ……俺」
そう言って、祐介は右手でグーを作り、私の前に突き出した。
「姉ちゃんに脚本書いてもらいたい」
胸の奥が熱くなった。嬉しくて、視界が少しだけ滲む。それをごまかすように、私もグーを作って、祐介の拳に軽く当てて言った。
「もちろん。スケジュールはばっちり空けておきますからね、春木賢一朗先生」
「なぜ、こんなことになったのか……お話しいただけますね、春木賢一朗先生」
譲原さんの穏やかな声が、打ち合わせ室に静かに響いた。
祐介は一瞬、すがるように顔を上げた。けれど、その視線はすぐに揺らぎ──彼は唇を噛みながら、うなだれるように深々と頭を下げた。
「……申し訳ありません。すべて──俺の責任です」