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第74話

 譲原喜八きはちさんに初めて会ったのは、祐介の授賞式でのことだった。


 授賞式は、格式あるホテルで執り行われた。広々とした宴会場には100人を超える関係者が集まり、華やかな熱気に包まれている。


 その中央で、他の受賞者たちと談笑している祐介が見えた。この日のために新調したというハイブランドのスーツが、遠目にもよく映えていた。


 式が始まると、私は壁際に立ち、役員たちのスピーチを聞くともなく聞いていた。賑やかな場所は、あまり得意な方ではないのだ。


 祐介の番になった。少し緊張した様子で壇上に立った彼は、軽いユーモアを交えながら感謝の言葉を述べ、作家としての決意を語る。会場に拍手が響いたとき、不意に隣から声がした。


「春木賢一朗先生の『風が消える庭』、素晴らしいミステリでした」


 横を見ると、丸メガネをかけた小柄な男性が、壇上の祐介を静かに見つめていた。古いが丁寧に手入れされた背広──スーツではなく──のポケットからは、繰り返し読まれて角が丸くなった文庫本がのぞいている。


「春木先生のお姉さんですよね。わたくし、編集者の譲原と申します」


 初老の紳士は、私の方を向いて穏やかに微笑んだ。柔らかな物腰ながら、どこか静かな威厳を漂わせている。私も思わず背筋を伸ばしながら「はじめまして、椿井薫と申します」と名乗った。


「レジェンドと呼ばれている編集者さんに担当してもらえることになったと、弟から聞きました」


 譲原さんは礼儀正しい笑みを浮かべ、静かに目礼した。


「お姉さんは、昔から春木先生の一番のファンだそうですね」


「そうですね。でも、少しニュアンスが違うかもしれません」


「と、いいますと?」


 壇上に向けていた視線を、譲原さんがちらりとこちらへ向ける。


「完成した作品はもちろん好きですが、その途中の段階で何度も読ませてもらっていたんです。彼が何度も書き直して、メインとサブのストーリーがどんどん絡み合い、魅力を増していく過程を見守れるのが楽しくて」


「なるほど、わかります。それは編集者の醍醐味の一つでもありますからね」


「でも……彼の書き方は、変わりつつあるのかもしれません」


 言葉にした瞬間、これは担当編集者に話すべきことではなかったかもしれないと、少し後悔した。けれど、譲原さんは何も言わなかった。


 わずかな沈黙のあと、譲原さんは口を開いた。


「春木先生は、会社を辞められたそうですね」


 私はため息を付き、頷く。


「一応、反対はしたんですけどね。祐介には二つ夢があって、作家として収入を得ながら、もう一つの夢も叶えたいそうです」


「もう一つの夢ですか」


「幼馴染と組んで、お笑い芸人を目指したいそうです。芸人デビューしたときに『実は俺、春木賢一朗なんです』って言って、みんなを驚かせたいらしくて。だから作家になったことは、コンビの相方にも内緒なんですって」


 譲原さんは、口元に微かな笑みを浮かべた。


「そういえば、デビューしたことは恋人にも教えないとおっしゃっていましたね。宝石をねだられそうだからと」


 その言葉に私は思わず笑い、「そうみたいですね」と答えた。


 私たちの間に、また沈黙が落ちた。でも、それは決して居心地の悪いものではなかった。この静けさに、私はふと既視感を覚える。そうだ──祐介と、同じ部屋でそれぞれ本を読みふけっていたときの空気に、どこか似ている。


 受賞者のスピーチが終わり、私たちは拍手をした。それが止むと、譲原さんは壇上を見つめたまま静かに言った。


「椿井さん、ここからは年寄りの独り言だと思って、聞き流していただけますか」


「はい」


「春木先生は……デビュー作が最高傑作となって、消えてしまうかもしれません」


 私は驚いて、譲原さんの横顔を見た。


「それは、どうしてですか……?」


 尋ねはしたものの、私自身もその理由に心当たりがあった。


「他の出版社からのオファーで、過去作を切り売りしようとしている話は、私の耳にも入っています」


 私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。譲原さんは、名刺交換をする祐介の姿を眺めながら、静かに続ける。


「今回受賞した『風が消える庭』は、確かに話題作となるでしょう。しかし、作家にとって本当に大切なのは、その先です。もし、次の作品が時間対効果を優先し、練り込みが足りないまま形になったものだとしたら、読者はどう感じるでしょうか」


「……デビュー作を好きになってくれた読者の期待を、裏切ることになりますね」


 私は視線を落とした。譲原さんは、そんな私を優しい目で見つめ、穏やかに微笑んだ。


「でもね、椿井さん。春木先生はまだ若い。だからこそ、今は思うままに進めばいいんです。私が間違いだと思う選択をしても、それが功を奏することもあるでしょうし、たとえつまずいたとしても、それを糧にできるだけの力を、春木先生は持っているはずです」


 譲原さんの表情には、幾多の作家と作品を見守ってきた編集者だけが持つ、深い洞察と愛情が滲んでいた。


「何のために書くのか。それは本当に自分が追い求めたいものなのか。ときに見失うこともあるでしょう。けれど大切なのは、一度離れてもまた戻ってこられるかどうかです」


 誰かが冗談でも言ったのか、祐介とその周囲の人が、大きな笑い声を上げる。譲原さんは、その様子を静かに見守りながら、揺るぎない声で言った。


「私は、その日が来るのを楽しみにしています。春木先生が、読者に誠実であろうとする日が──必ず来ると、信じていますから」

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