3年前、祐介から新人賞受賞の連絡を受けたときのことを、今でもはっきりと覚えている。
普段はメッセージアプリでやり取りしていた彼が、突然電話をかけてきたのだ。珍しいなと思いながら通話ボタンを押すと、弾むような明るい声が耳に飛び込んできた。
「姉ちゃん、俺やった! 新人賞を取ったよ!」
祐介は中学生の頃から小説を書いていたけれど、社会人になっても書き続けていたとは知らなかった。私は弟の受賞を心から嬉しく思い、次の週末、久しぶりに一緒に食事をする約束をした。
祐介が待ち合わせに指定したのは、一目でハイエンドな店だと分かるコーヒーショップだった。高い天井から吊るされたガラスのシャンデリアが、柔らかな光を噴水のように拡散させ、店全体を華やかで洗練された空間に演出している。中央には大型の焙煎機が鎮座し、コーヒーを煎る香りが店内に心地よく漂っていた。
入口に掲げられたメニューを見て、私は思わず目を見張った。一杯二千円近いコーヒーなんて、私には未知の世界だ。本当にここが待ち合わせ場所なのかと戸惑っていると、後ろから「姉ちゃん」と声をかけられる。
私が振り向くと、そこにはブランドのスーツを着こなした祐介が立っていた。──幼い頃、一緒に山を駆け回り、「姉ちゃん、おはぎ作ったよ」と言いながら泥団子を差し出してきた弟は、少し見ないうちに、都会的で洗練された青年に変わっていた。
「祐介、なんか……いろんな意味でシュッとしたね」
祐介は片方の口角を上げて「ありがとう」と笑った。彼のそんな表情は見たことがなく、私は少し戸惑いを覚えた。
「待ち合わせ、ここでよかった?」
私の問いに祐介は笑顔で頷き、慣れた様子で店内に入っていった。私を窓際の席に座らせて、自分はオーダーカウンターへと向かう。しばらく店内を見回してから再びカウンターに目をやると、顔なじみのバリスタと笑顔で話している祐介の姿が見えた。
──小学校で「給食でカレーを食べたくない」とカレー禁止の署名活動を始めたものの、カレー大好きなクラス全員に即却下されて泣いていた男児が、あの自信満々なビジネスパーソンと同一人物だなんて……。信じられない思いで、私は彼の後ろ姿を見つめた。
やがて祐介は、私のスペシャルティコーヒーと、自分用のデザートドリンク「ミッドナイト・フラフィーココア」を持って席に戻ってきた。私は礼を言いながらコーヒーを受け取り、「今日はお祝いだから、祐介の分も全部払いたい。いくら?」と聞いた。
「俺のほうが高給取りだから、これくらい奢らせてよ。それよりさ、俺の小説、ついに世に出るんだよ!」
祐介は、昔と変わらない無邪気な笑顔を見せてくれた。私はほっとしながら、祐介の肩に手をかけた。
「おめでとう! いつか認められるって信じてたよ」
「姉ちゃん、昔から俺の小説の一番のファンだったもんな」
祐介は、少し照れくさそうに笑った。
「根尾頁出版の新人賞を獲ったんだ。もちろん書籍化も決まったよ。担当編集の譲原さんて人、もう定年が近いんだけど、ヒット作を次々と出すから『
「それはすごいね。本が出たらサインをもらわなくっちゃ。えっと、椿じゃなくて、春木……。あれ、下の名前なんだっけ?」
「賢一朗」
「ああそうだ。春木賢一朗先生、サインください!」
祐介は笑いながら頷いた。だけど、その後の話は思いもよらないものだった。
「実はさ、受賞者が発表されてから、他の出版社からも出版のオファーが来てるんだよね。これまで応募したことがある出版社とかね」
「そうなんだ。やっぱり動きが早いんだね。でも祐介は、今まで通りじっくり執筆するんでしょ?」
私の言葉に、祐介は口元を少し歪めた。本人は笑ったつもりなのだろうが、その表情にはどこか狡猾さが感じられた。
「前に応募したとき落ちた作品を二冊に分けるって話をもらったんだ。二つの要素が絡み合う話だから、それぞれ独立させてもストーリーは成り立つし、なんてったって二冊出せば印税も倍だし」
祐介の言葉に驚いて、私はコーヒーが入ったダブルウォールグラスを握りしめた。
「……一つの作品を二冊にするって、そんな簡単に原稿を増やせるものなの?」
祐介はきょとんとした顔をして、ドリンクに載ったチョコレートクリームをスプーンですくいながら言った。
「もちろん全部リライトするよ。でも、その出版社の人がさ、『デビュー作が話題になっている間に次の本を出せば、確実に売れる』って言ってたんだ。だからまあ、スピード重視だよね。タイパを意識しながら、普通に頑張ればいいんじゃない?」
「タイパ……」
私は信じられない思いで祐介を見た。プロットとサブプロットの絡み合いにこだわり、自分が納得するまで何度でも書き直していた祐介の口から、タイムパフォーマンスなんて言葉が出るなんて……。
「じゃ、姉ちゃん。そろそろ食事行くか。予約してあるんだ」
祐介は、スプーンですくった最後のクリームを口に運びながら、軽い調子で言った。私も気を取り直し、残ったコーヒーを飲み干した。
「コーヒーは奢ってもらっちゃったけど、今日はあんたのお祝いだから、食事は私が奢るからね」
私がそう言うと、祐介は、まるで子どもでも見るような目をして言った。
「姉ちゃん、今日予約したのはさ、このビルの最上階にある鉄板焼なんだ。料理の予算は一人三万以上で、俺、ワインも値段を気にせず好きなやつを飲みたい派なんだよね。だからさ、ここは俺に任せておいてよ」
その言葉は……どうしてだろう、私を悲しい気持ちにさせた。
事前に「お祝いだから、祐介の行きたい店で奢ってあげる」と言ったのは私だった。たとえ祐介が「前から一度入ってみたかったんだ!」と言って高級店を選んだとしても、私は祐介に何でも食べさせてあげようと心に決めていた。
外資系の大企業で働く祐介には遠く及ばないけれど、私だって働いてて……大切な人の特別な出来事を、ちゃんと祝いたかったのに。
結局、その夜、鉄板焼きを祐介の奢りで食べた。けれど、最上級のコース料理がどんな味だったのか、一つも思い出せない。
アパートに戻ったとき、胸に残っていたのは──祐介の特別な日を祝いたかった思いと、それが彼に届かなかったという虚しさだけだった。