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第47話

 蓮さんのテラスハウスの、リビングへつながるガラス戸を開けた瞬間、私は息をのんで立ちすくんだ。


「……こ、これは」


 さっき、蓮さんは「とても、非常に、荒らされている」と言っていたけれど……私の想像をはるかに超えていた。


 普段はシンプルできれいに整えられていた空間が……まるですべてを塗り替えようとするかのように、理央さんの痕跡で埋め尽くされていた。


 カウチはベッドとして広げられ、シーツとブランケットはおそらく理央さんが朝起きたままの状態で、横に跳ねけられている。羽毛布団も床に落ちてくしゃくしゃになり、さらにその上には、女性ものの服が無造作に積み上げられていた。一人がけのソファにも分厚い洋書が山のように置かれていて、蓮さんが寛げる場所は、リビングにはなさそうだった。


 小型スーツケースがキッチンへの動線を塞ぐように開いたまま置かれ、その上には、カナダへ持ち帰るつもりなのだろう、緑茶や調味料、お菓子といった日本の食材が山積みになっている。スーツケースには到底収まりそうもないけれど、どうするんだろう……。


「理央が来てから、ずっとこんな状態だよ。僕が片付けても3倍の速さで散らかすから、もう諦めた」


 蓮さんはため息をつきながらキッチンに入り、いつものカーキ色のエプロンを身に付けた。


「薫、お腹すいてる? 理央がベーグルを持ち帰りたいと言うから、低温で発酵させている生地があるんだ。これでピザを作ろうと思って」


 それから彼は、少し申し訳無さそうに続ける。


「誕生日なのに、簡単な料理でごめん」


 でも、そんなことはなかった。久しぶりの連さんの料理は、私にとって何よりのごちそうだ。


「美味しそう。ぜひそれでお願いします」


 連さんは笑顔で頷き、続けて理央さんにも声をかける。


「理央、明日の便で帰るのなら、今日こそきっちり片付けてくれよ。前回みたいにそのままにして、『後で送って』はもうなしだから。送ってもいいけれど、箱に詰めるところまでは自分でやってくれ」


「兄さん、ほんと心が狭いんだから」理央さんはカウチの上であぐらをかきながら、不満そうに言う。「あ、メープルシロップと厚切りベーコンのピザも焼いてね」


「薫が食べたければ作るけど」


 私はすぐさま理央さんの提案に乗った。「食べたことないけれど、絶対に会う組み合わせ! ぜひお願いします」


 理央さんは、満足そうに微笑んで、「薫さんはわかってらっしゃる」と言った。


 その後、私も手伝ったことで理央さんのパッキングは順調に進んだ。最初のピザが焼き上がる頃には、理央さんが占領していたダイニングテーブルの上もすっかり片付き、いつもの清々すがすがしい空間に戻っていた。


 蓮さんが「簡単に作った」と言いながら、ガーデントスサラダとミネストローネを並べる。けれど、この二品を私が作るなら、半日はかかるだろう……相変わらずの手際の良さに、私は感動すら覚えた。


「理央、そろそろ食事にするよ」


 スーツケースに収まるはずのない量の食品を無理やり詰め込む理央さんに、蓮さんが少し呆れたように声をかけた。


 蓮さん以外の人が食卓にいるのは初めてのことで、私はなんだか嬉しい気持ちになる。


「食事の前に」と言いながら、蓮さんはシンプルなラッピングペーパーに包まれた平たい包みを取り出した。「誕生日おめでとう。薫へ、プレゼントです」


 思いがけない言葉に気持ちが弾む。私はそれを両手で大切に受け取った。


「ありがとう……開けてもいい?」


 彼が頷くのを見て、白地に銀の細いストライプが入った包装紙をそっと解く。中身を覆っていた紙をめくると、息を呑むほど美しい絶景が表紙に印刷された、洋書の写真集が現れた。


「この写真……」


「覚えてる? 前に行ったレストランの入口に飾られていて、薫が気に入ってた」


 もちろん覚えている。それは、自然そのものの息遣いを感じさせるような、圧倒的なコントラストが印象的な写真だった。奥行あるフレーミングで、まるで風景が迫ってくるかのような力強さと、繊細な光が交差する一瞬を切り取ったモノクロ写真――。


 けれど……私がその写真の前で立ち止まったことを、蓮さんが覚えていてくれたことが、何よりも嬉しかった。


「蓮さん、あのときも教えてくれたよね。確か……アンセル・アダムス?」


 彼は目を細めて、微笑みながら頷いた。「アクセサリーとかも考えたんだけど、薫はこっちのほうが喜びそうな気がしたから」


 その言葉に、私は静かな感動に包まれた。この本が私にとって特別なものになると思ってくれたことに、心が温かくなる。気がつけば、蓮さんの瞳から目が離せなくなっていた。


 突然、理央さんが両手を大きく振りながら、私たちの間に割り込んでくる。


「ちょっと、ちょっと! 同じテーブルに妹がいるんですけど。そういうのは明日にしてくれませんか?」


 私たちは照れ笑いし、下を向いて視線を外した。それを見て、理央さんはやりきれないと言わんばかりに首を振った。


「ああ、片付けが終わってたら、今日は羽田のホテルに泊まってたのに。こんなに片付けができないことを後悔したことはないですね!」


 そう言いながら、今度は彼女が膝に持っていた紙袋を私に差し出す。


「これは私からのプレゼント。薫さん、開けてみて」


 明らかに日本製とは違う手触りの袋を開けると、円形のフレームに細やかな糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされた飾りが現れた。円の中に張り巡らされた糸には、青緑色と、赤とオレンジが混ざったような色の石が、散りばめられるように編み込まれている。ドリームキャッチャーだ。


「きれい……」私は思わず呟いた。


「兄さんから薫さんの誕生日を聞いてたから、知り合いの先住民のおばあちゃんに頼んで作ってもらったの」


 理央さんは身を乗り出して石を指差し、続ける。


「北米の先住民族にとって、石は特別な意味を持っているの。この青い石は、薫さんの誕生石のターコイズで、幸運を呼び寄せるもの。このあか珊瑚コーラルで、自然のエネルギーと生命力を象徴しているんだって」


 指先でそっと石に触れてみる。何だか温もりが宿っているような気がした。


「寝るときに、枕元に吊り下げてみて。この網が悪い夢を絡め取って、良い夢だけを薫さんに届けてくれるから」


「……ありがとう。本当に、嬉しい」


 私は写真集とドリームキャッチャーを、そっと胸に抱きしめた。蓮さんと理央さんの温かな笑顔がゆっくりと心を満たし、涙がこぼれそうになる。


 ああ、この先もずっと……こんなに素敵な誕生日を、私は一生忘れることはないだろう。

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