蓮さんのテラスハウスの、リビングへつながるガラス戸を開けた瞬間、私は息をのんで立ちすくんだ。
「……こ、これは」
さっき、蓮さんは「とても、非常に、荒らされている」と言っていたけれど……私の想像をはるかに超えていた。
普段はシンプルできれいに整えられていた空間が……まるですべてを塗り替えようとするかのように、理央さんの痕跡で埋め尽くされていた。
カウチはベッドとして広げられ、シーツとブランケットはおそらく理央さんが朝起きたままの状態で、横に跳ね
小型スーツケースがキッチンへの動線を塞ぐように開いたまま置かれ、その上には、カナダへ持ち帰るつもりなのだろう、緑茶や調味料、お菓子といった日本の食材が山積みになっている。スーツケースには到底収まりそうもないけれど、どうするんだろう……。
「理央が来てから、ずっとこんな状態だよ。僕が片付けても3倍の速さで散らかすから、もう諦めた」
蓮さんはため息をつきながらキッチンに入り、いつものカーキ色のエプロンを身に付けた。
「薫、お腹すいてる? 理央がベーグルを持ち帰りたいと言うから、低温で発酵させている生地があるんだ。これでピザを作ろうと思って」
それから彼は、少し申し訳無さそうに続ける。
「誕生日なのに、簡単な料理でごめん」
でも、そんなことはなかった。久しぶりの連さんの料理は、私にとって何よりのごちそうだ。
「美味しそう。ぜひそれでお願いします」
連さんは笑顔で頷き、続けて理央さんにも声をかける。
「理央、明日の便で帰るのなら、今日こそきっちり片付けてくれよ。前回みたいにそのままにして、『後で送って』はもうなしだから。送ってもいいけれど、箱に詰めるところまでは自分でやってくれ」
「兄さん、ほんと心が狭いんだから」理央さんはカウチの上であぐらをかきながら、不満そうに言う。「あ、メープルシロップと厚切りベーコンのピザも焼いてね」
「薫が食べたければ作るけど」
私はすぐさま理央さんの提案に乗った。「食べたことないけれど、絶対に会う組み合わせ! ぜひお願いします」
理央さんは、満足そうに微笑んで、「薫さんはわかってらっしゃる」と言った。
その後、私も手伝ったことで理央さんのパッキングは順調に進んだ。最初のピザが焼き上がる頃には、理央さんが占領していたダイニングテーブルの上もすっかり片付き、いつもの
蓮さんが「簡単に作った」と言いながら、ガーデントスサラダとミネストローネを並べる。けれど、この二品を私が作るなら、半日はかかるだろう……相変わらずの手際の良さに、私は感動すら覚えた。
「理央、そろそろ食事にするよ」
スーツケースに収まるはずのない量の食品を無理やり詰め込む理央さんに、蓮さんが少し呆れたように声をかけた。
蓮さん以外の人が食卓にいるのは初めてのことで、私はなんだか嬉しい気持ちになる。
「食事の前に」と言いながら、蓮さんはシンプルなラッピングペーパーに包まれた平たい包みを取り出した。「誕生日おめでとう。薫へ、プレゼントです」
思いがけない言葉に気持ちが弾む。私はそれを両手で大切に受け取った。
「ありがとう……開けてもいい?」
彼が頷くのを見て、白地に銀の細いストライプが入った包装紙をそっと解く。中身を覆っていた紙をめくると、息を呑むほど美しい絶景が表紙に印刷された、洋書の写真集が現れた。
「この写真……」
「覚えてる? 前に行ったレストランの入口に飾られていて、薫が気に入ってた」
もちろん覚えている。それは、自然そのものの息遣いを感じさせるような、圧倒的なコントラストが印象的な写真だった。奥行あるフレーミングで、まるで風景が迫ってくるかのような力強さと、繊細な光が交差する一瞬を切り取ったモノクロ写真――。
けれど……私がその写真の前で立ち止まったことを、蓮さんが覚えていてくれたことが、何よりも嬉しかった。
「蓮さん、あのときも教えてくれたよね。確か……アンセル・アダムス?」
彼は目を細めて、微笑みながら頷いた。「アクセサリーとかも考えたんだけど、薫はこっちのほうが喜びそうな気がしたから」
その言葉に、私は静かな感動に包まれた。この本が私にとって特別なものになると思ってくれたことに、心が温かくなる。気がつけば、蓮さんの瞳から目が離せなくなっていた。
突然、理央さんが両手を大きく振りながら、私たちの間に割り込んでくる。
「ちょっと、ちょっと! 同じテーブルに妹がいるんですけど。そういうのは明日にしてくれませんか?」
私たちは照れ笑いし、下を向いて視線を外した。それを見て、理央さんはやりきれないと言わんばかりに首を振った。
「ああ、片付けが終わってたら、今日は羽田のホテルに泊まってたのに。こんなに片付けができないことを後悔したことはないですね!」
そう言いながら、今度は彼女が膝に持っていた紙袋を私に差し出す。
「これは私からのプレゼント。薫さん、開けてみて」
明らかに日本製とは違う手触りの袋を開けると、円形のフレームに細やかな糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされた飾りが現れた。円の中に張り巡らされた糸には、青緑色と、赤とオレンジが混ざったような色の石が、散りばめられるように編み込まれている。ドリームキャッチャーだ。
「きれい……」私は思わず呟いた。
「兄さんから薫さんの誕生日を聞いてたから、知り合いの先住民のおばあちゃんに頼んで作ってもらったの」
理央さんは身を乗り出して石を指差し、続ける。
「北米の先住民族にとって、石は特別な意味を持っているの。この青い石は、薫さんの誕生石のターコイズで、幸運を呼び寄せるもの。この
指先でそっと石に触れてみる。何だか温もりが宿っているような気がした。
「寝るときに、枕元に吊り下げてみて。この網が悪い夢を絡め取って、良い夢だけを薫さんに届けてくれるから」
「……ありがとう。本当に、嬉しい」
私は写真集とドリームキャッチャーを、そっと胸に抱きしめた。蓮さんと理央さんの温かな笑顔がゆっくりと心を満たし、涙がこぼれそうになる。
ああ、この先もずっと……こんなに素敵な誕生日を、私は一生忘れることはないだろう。