「薫……僕からも、謝りたい」
黙ったまま立ち尽くしている私に、蓮さんがそっと声をかけてきた。
「理央はいつも羽田に到着した後、急に帰国の事後連絡をしてくるんだ。今回も突然連絡があって……。理央を君に紹介したかったんだけど、脚本の邪魔をしたくなくて」
私は蓮さんを見上げた。彼の瞳には不安と切なさがにじんで、少しだけ揺れていた。
「それでも、事情だけでも話しておけばよかった。ごめん」
少しずつ、実感が湧いてきた。同時に疑問も浮かんでくる。
「あっちで寝ると言ったのは……蓮さんの部屋じゃ、なくて?」
理央さんは首を横に振った。
「兄さんがね、薫さんがいつ帰ってきてもいいように、主寝室は使うなって言うんだもん。『絶対、薫は遠慮して、また友達のところに泊まるとか言い出すから』って。だからリビングのカウチベッドを使ってと言われてたの。ひどいよね」
横から蓮さんが口を挟む。
「理央は昔から片付けができなくて、どうやったら短期間であんなに主寝室を荒らせるのか、不思議なくらいなんだ。今回はリビングが、とても、非常に、荒らされているけどね」
「来る前に、連絡してって言ったのは……?」
蓮さんを遮り、理央さんがいたずらっぽく笑って言う。
「アップルフリッターって知ってる? りんごのドーナツみたいなものなんだけど、私のアパートメントの近くにすごく美味しいお店があって、兄さんもお気に入りなの。それを薫さんにも食べてもらいたいから、帰国する時は必ず買ってこいって言われてたの」
蓮さんの方を見ると、少し照れくさそうに目をそらした。
「だから空港へ向かう直前に揚げてもらって、ちゃんと持ってきたの。兄さんは家に着いたらそれをすぐに冷凍して、薫さんから連絡があったら解凍するってウキウキしてた」
蓮さんは慌てて理央さんを遮る。
「その話、もう本当にしなくていいから」
理央さんは、少し意地悪そうに「でも、あんなに嬉しそうにしてたじゃん。まるで子どもみたいだったよ」と笑った。
「薫さんが来た時、兄さんはこのフリッターに合う、グァテマラの中深煎りコーヒーを買いに行くって出かけてたの。『薫はきっと、このペアリングが好きだから』とか言って。それを見て私、なんだか兄さんがいじましく思えて、涙がでそうになっちゃった」
そう言いながらも、理央さんは楽しそうに笑った。蓮さんは片手で顔を隠しながら固まっている。よく見ると、彼の耳は真っ赤に染まっていた。
理央さんはふと表情を和らげ、私を見て言った。
「兄さんとはいつもメールでやり取りしてるんだけど、ここ数ヶ月、ずっと『薫とここに行った』『薫はこれが好きみたい』『薫が美味しいって言ってくれた』って話ばかりで、それ以外に話題がないのかよって思ってた。好きなんでしょって言っても、いや、そんなんじゃないとか言うし。鈍いなあって、ずっと思ってた」
蓮さんを見ると、彼はまだ顔を手で隠したまま、何も聞こえないふりをして立っていた。蓮さんは……私との時間をそんなにも大切にしてくれていたと、うぬぼれてもいいのだろうか。
「だからね、薫さん。私、ずっと薫さんに会いたかったの」
「……会えて嬉しかった」理央さんが輝くような笑顔で言う。その瞬間、ああ、似ていると思った。目を細めた優しい笑顔が、まるで蓮さんそのものだった。
嬉しさが胸に広がると同時に、恥ずかしさもじわじわと込み上げてきた。
「私、そうとは知らず、一人で大騒ぎして……」
すると後ろから、知里さんの声が響いた。
「そのおかげで、あのシナリオを書けたんだからいいじゃない」
私は驚いて、知里さんを振り返る。
「まさか知里さん、知ってたんですか……?」
知里さんは腕を組み、椅子の背もたれに寄りかかって言った。
「ちょっと、誤解しないでよ。私もそこまでひどくはないわ。私が知ったのは、あなたがドラフトの感想を聞きに会社に来た翌日よ。出雲くんが、薫は何か誤解をしてないかって聞いてきて、それで知ったの」
そして、ちょっと皮肉げな笑みを浮かべ、蓮さんに向かって言った。
「その節は、浮気男とか二股男とか、責め立てちゃってごめんなさいね。でも、出雲くんが恋人とイチャイチャしながら歩いてたって、会社中の噂になってたくらいだから、薫が誤解するのも無理ないわ」
蓮さんは手を上げて、すまないというようなジェスチャーをした。どうやらビジネスモードのクールさを取り戻そうとしているみたいだったけど、照れているせいでどこかぎこちなく、微笑ましいくらい完全に失敗していた。
「でも……知里さん、どうして知った時点で教えてくれなかったんですか?」
彼女は顔の前で手を合わせ、少し申し訳なさそうに言った。
「それは謝る、ごめんなさい。でも、一番辛い時間は乗り越えていたし、あの時のあなたは、ものすごく研ぎ澄まされていた。だから、そのままの強さでシナリオを終わらせてほしかったの」
友記子と航も事前に知っていたようで、私と目が合うと、申し訳ないという仕草を見せた。
怒るべきなのか、喜ぶべきなのか……。私の感情は入り混じり、何が正しいのか分からなくなっていた。思わず両手で顔を覆い、深いため息をついた。
「薫」
いつの間にか、蓮さんが私の前に立っていた。ああ、そうか。蓮さんは何ひとつ悪くなかったのに、私は……。
「ごめんなさい、私……蓮さんに、ひどいことを言ってしまった」
蓮さんは安心したように、いつもの温かい笑顔を見せてくれた。――私が大好きな、穏やかで優しい、陽だまりのような笑顔。
彼は、スーツのインサイドポケットから1枚の紙を取り出し、それを広げた。この間の婚姻届けだ。
「こんなことを、君に提案するべきじゃなかった」
少し間をおいて、彼はそれを真ん中から引き裂いた。その乾いた音が響いた瞬間、私たちはもう契約の関係ではないのだと感じて、思わず笑顔がこぼれた。
「全部、最初からやり直したい」
一瞬言葉を飲み込みながら、蓮さんは私の顔をまっすぐ見つめ、静かに言った。
「薫が好きです。――結婚を前提に、僕と付き合ってください」
心が温かく包み込まれるような、甘い喜びが押し寄せてくる。まるで夢の中にいるようで、私はただ、蓮さんの澄んだ瞳を見つめ続けることしかできなかった。
やっとのことで、喉から言葉が出てくる。「蓮さん、私……」
その時、後ろのテーブルからメニューを乱雑に広げる音が響いた。
「かー、やってられないわ。料理まだかしらね」と知里さんがビールを飲み干す。
「ほんとですよね、知里さん。赤ワインとスプマンテをボトルで頼みましょう。あと、デザートも全種類頼みましょう」
「俺、ポンドステーキの気分になってきた。テキサススペシャルとワイオミングスペシャル、どっちがいいかな。両方いっちゃう?」
いつのまにか理央さんもテーブルに着いて、「本当に、うちの
「あなたたちは帰りなさいよ。こっちまで砂糖漬けになるじゃない」
そう言うと、知里さんはさっきのプレゼントを私に手渡してくれた。ノートの最初のページに何か挟まれているのを見つけて開いてみると、さっき知里さんに渡した2枚の温泉旅行招待券。そしてノートの見返しには、美しいカリグラフィーで"Your Story Continues."と書き加えられていた。
「物語は続いていく……」
「あなたにはこっちの言葉を贈るわ。カリグラフィーを習ってたのが役に立った」
知里さんは万年筆のキャップを締めながら、笑顔で言った。
温かい気持ちが込み上げてきて、目頭が熱くなるのを感じる。「ありがとうございます」私はみんなに心から感謝の気持ちを伝えた。
理央さんが立ち上がり、私に耳打ちする。
「ごめん、薫さん。私、明日の便でカナダに帰るから、もう1泊させてほしいの。申し訳ないけれど、イチャイチャは少し待って!」
理央さんの冗談に、私は柄にもなく赤くなってしまった。
帰り際、蓮さんはキャッシャーに寄り、カードを出して知里さんのテーブルのお会計を済ませた。
「とりあえず、これで許してもらおう」
そして蓮さんは、私を見つめながら、ゆっくりと手を差し出す。
「薫、うちに帰ろう」
その手のひらには温かさと優しさが溢れていて、その手を取った瞬間、まるで全身が包みこまれるような気がした。
"Your Story Continues."――これからもずっと続いていく物語を胸に、私は一歩を踏み出した。