知里さんが眉間にしわを寄せ、出力した脚本を凝視している。彼女の長い指がページをめくるのを、私は固唾をのんで見守っていた。
彼女の表情は険しいままだ。プロットのときみたいに、またゴミ箱に投げ捨てられたらどうしよう……。そんな不安がよぎったその時、不意に知里さんがこちらを向いた。
「薫」
冷徹とも言える低い声が響く。
「はい」
「よく聞いて。一度しか言わないから」
緊張で背筋が伸びる。何を言われるんだろう……。
「はい。聞く準備はできました」
すると知里さんは、私の想像を超える行動に出た。――私に向かって、深々と頭を下げたのだ。
「素晴らしい出来です。あなたに任せてよかった。ありがとうございました」
驚きと喜びで、私は思わず両手で顔を覆い、そのまましゃがみこんだ。こみ上げる嬉しさで体が震え、涙がこぼれそうになる。私は落ち着こうと、深く息を吸い込んだ。
「15時50分。締め切りにも間に合ったし、これ以上望めないくらい完璧よ」
「知里さんのおかげです」
私はティッシュで涙を拭き、椅子に腰を下ろした。達成感が全身を駆け巡り、心臓の鼓動が高まっているのがわかる。
「すぐにデータをサーバにアップして、出雲くんと共有するわ。それから……私は一度会社に戻るけど、薫も一緒に来る?」
私は首を横に振った。
「今はこの気持ちをじっくり味わいたいので、やめておきます。時間になったら直接レストランに向かいますね」
「そう。わかった」
知里さんはそう言ってから、ふっと柔らかく笑った。
「薫、本当によく頑張った。誕生日の夜に、何かいいことが起こるといいわね」
その言葉に、心が温かくなる。
「いいことなら、もう十分過ぎるくらい起こっています。知里さんに脚本を褒めていただけたし、大切な友人たちと一緒に食事ができる。これ以上のいいことなんて……思いつきません」
その時、LINEの通知音が鳴った。私はスマホを見て、思わず笑顔になった。
「あ、いいことがもう一つありました。弟の
知里さんは帰り支度をしながら「弟さんがいるのね」と言った。
「東京? どんなお仕事をしているの?」
私は言葉を選びながら答える。
「こっちで派遣社員をしながら……高校の同級生とコンビを組んで、お笑い芸人を目指しています」
知里さんは驚いたように目を見開いた。
「それはまた、大変な道を……」
私は苦笑して頷く。
「コンビの相方の子、
「なるほど。いろいろあるのね」
知里さんは腕時計に目をやった。
「それじゃ、私は会社に向かうわ。また後でね」
待ち合わせまでは1時間以上あったので、私は再び街を歩くことにした。イルミネーションに彩られた大通りを歩いていると、なんだか胸が高鳴り、ロマンチックな気分になる。
ふと、自分に何か誕生日プレゼントを買おうかと思い、デパートに足を向けた。
クリスマスの装飾が施された店内を眺めながら、特に目的もなく歩いてゆく。並んでいる商品はどれも素敵だったけれど、「これが欲しい」と心が動くものはなかった。
――蓮さんには、毎分、いや毎秒だって、心が動かされていたのにな。
私はその考えを振り払おうとして、ふと、立ち止まった。
いいことを思いついた。逆に、レストランでの待ち合わせ時間までは蓮さんのことを考えてもいいことにしよう。それが、自分にあげられる最高の誕生日プレゼントだ。
そう思ったとたん、心がふっと軽くなった。まるで足かせが外れたように気持ちが楽になるのを感じて、ああ、やっぱり私は無理していたんだなと実感する。
浮足立った気持ちで、さっきまで避けていた紳士雑貨のフロアに向かい、クリスマスプレゼントのディスプレイを眺めた。もし、蓮さんにクリスマスプレゼントをあげるとしたら……。
「ネクタイかな」
蓮さんに似合いそうなネクタイを探しているうちに、なんとなく、彼の好みが分かってきた気がした。
彼はきっと、クラシックとモダンが融合したようなデザインが好きなんだろう。落ち着いた色調に、同系色の控えめな柄が光の角度によって浮かび上がるようなさりげなさが、蓮さんにはよく似合う。派手さはないけれど、素材の上質さが一目でわかる仕立てで、彼の品位を自然と引き立てる……そんなネクタイだ。
イタリアのハイブランドのショップで、1本のネクタイが目にとまった。
それは、タイムレスな雰囲気でありながらどこか新鮮さを感じさせる、洗練されたデザインのシルクネクタイだった。深いブルーにほんのりグレイッシュな輝きが重なった、滑らかな生地。そこに織り込まれたスモーキーグレーの柔らかな曲線が、まるで家にいるときの穏やかな蓮さんを映し出しているかのようだった。
実際に買うつもりはなかったはずなのに……。ああ、だけど、これは絶対に蓮さんに似合う。普通に似合うんじゃなく、相当似合うレベル。しかも、家モードの蓮さんと仕事モードの蓮さんの両方を知っている私だからこそ選べるデザインだ。
「クリスマスプレゼントをお探しですか?」
ショップの男性スタイリストが、柔らかい笑顔で話しかけてきた。
ええい、心が動いちゃったんだから、しょうがない。
「はい。これに決めました。ラッピングもお願いできますか」
支払いを済ませ、私はネクタイが入ったギフトバッグをエディターズバッグにそっと入れた。みんなに「浮気男のためにプレゼント買ったの?」と突っ込まれるのが目に見えていたからだ。
「よろしければ、1階のイベント会場にて、クリスマス抽選会を行っております」
お礼を言って、レシートと一緒に3枚の抽選券を受け取った。
このネクタイを蓮さんにプレゼントするつもりはなかった。――彼は受け取ってくれるだろうけど、理央さんに言えないようなことは、もう何一つしたくはなかった。
蓮さんに似合うネクタイを贈りたいと思ったその気持ちは、むしろ自分へのプレゼントみたいなものだ。だからこそ、大切にしたかった。
エスカレーターで1階に降りると、正面の吹き抜けに飾られた大きなクリスマスツリーが目に入った。12月に入ったばかりだからだろうか、その隣にある抽選会場には、まだ誰も並んでいない。
受付の人に抽選券を3枚渡して、タブレットの抽選ボタンを3回押した。スクリーンが一瞬暗くなり、次の瞬間、画面いっぱいにクリスマスカラーの文字が踊る。
「おめでとうございます! 2等、ペア温泉旅行ご当選です!」
信じられない気持ちで、私は思わず笑ってしまった。知里さんの言う通りだ。誕生日の夜に、いいことが次々と起こっている。
――本当に欲しいものだけは、手に入らないけれど。