少しの間、私たちの間に沈黙が流れた。最初に口を開いたのは、蓮さんだった。
「広瀬さんとは、ずいぶん仲良くなったみたいだね」
今は、家モードの連さんのようだ。それならば私も普通に話そうと思って、笑って頷いた。
「そうなの。知里さんは厳しくて温かくて、とても素敵な人だね」
蓮さんは、私が普段通りでいることにホッとしたように見えた。
「理央にも会ったって聞いたよ。……僕に連絡をくれればよかったのに」
私は目を伏せて、笑いながら首を振る。
「手帳、すぐに必要だったから。それで、どうしたの?」
蓮さんは少しの間、私を見つめてから、話を切り出した。
「脚本の締め切りなんだけど、12月3日の16時でお願いしたいと思っている」
12月3日――私の誕生日だ。
「はい、問題ありません」と、私は答えた。
「それから……」
そう言って蓮さんは、書類に挟んでいた白封筒を取り出し、私の前に差し出した。
封筒を手にとって、中身をあらためる。そこには――蓮さんの署名が記入された婚姻届が入っていた。
それを見た瞬間、頭が真っ白になり、言いようのない感情が胸を締め付けた。
私は「これは理央さんのための契約結婚なんだ」と自分に言い聞かせた。それでも、心の奥底から小さな希望が湧き上がり、冷静でいようとする私自身の邪魔をする。そのことが悔しくて、私は思わず唇を噛んだ。
ああ、まだまだ全然修行が足りない。
「12月3日に、これに記入して持ってきてくれないか。君の誕生日だから、いつもよりフォーマルなレストランで食事をして、それから……一緒に提出しに行こう」
その提案が辛すぎて、私は逆に短く笑ってしまった。これは……優しさからの言葉なの? 自分がどれほど残酷なことを言っているのか、彼は、まるで分かっていないのだろうか。
視界が涙でぼやけそうになる。でも、今だけは泣きたくない。
「いえ、今、ちゃちゃっと書いちゃいます」
私はバッグからペンを取り出し、婚姻届に記入を始めた。
「蓮さん、わかってないなあ。誕生日が結婚記念日っていうのはロマンチックだけど、恋愛結婚だからこそ意味があるんだよ」
いつもより強い筆圧で、私は項目を埋めていく。
「これは契約なんだから、むしろ誕生日以外の日に提出して欲しいな。離婚した後、毎年誕生日が来るたびに思い出すのは、いくら図太い私でも辛いから」
私は笑いながら、軽く冗談めかして言った。
「あと、3日は先約があるの。知里さんや友記子たちと食事する予定なんだ」
蓮さんが今、どんな顔をしているのか、見えなくてよかった。もし彼が少しでも傷ついた顔をしていたら、理不尽だと思いながらも、きっと私は罪悪感を抱いてしまうから。
私は蓮さんの前に、記入済みの用紙を差し出した。
「はい、できました。提出はお願いしてもいい? もし蓮さんが忙しいなら、私が出してくるよ」
ペンをケースにに戻す振りをしながら、私はまだ蓮さんの顔を見られないでいる。そして、この間の夜のことが蓮さんの負担にならなければいいなと思いながら、言葉を付け加えた。
「交際0日婚だね」
そう言って、ようやく蓮さんに視線を向けることができた。――彼の顔には、見たことのないほど深い悲しみが滲んでいた。
その瞬間、私の胸にも鋭い痛みが突き刺さった。
――だけど、これは私たちが選んだことだ。少なくとも、私には傷つく権利なんてない。淡々と役目を果たすことが、お互いの、そして理央さんのためになると信じている。
「薫――」
蓮さんが立ち上がり、私に近づこうとした。私も席を立ち、思わず後ずさる。それを見て、蓮さんも歩みを止めた。
少しの沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。
「……この間の夜のこと。後悔、している?」
それは、とても残酷な質問だった。
だけど、大好きだったこの人に、最後に一度だけ、正直な気持ちを伝えたいと思った。好きとは言えないけれど、私がいつも蓮さんからもらっていた、陽だまりのように温かくなる気持ちを。
私は静かに深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「蓮さんと過ごした時間の中で、後悔していることなんてひとつもない。全部……私の宝物だよ」
そうだ、それが私の本当の気持ちだ。
「ただ……間違えちゃったなって、思っているだけ」
こらえきれなくなって、ついに涙が一筋こぼれ落ちた。だけど、私はそれを隠したりしなかった。
知里さんが言っていたように、蓮さんのことを好きだった気持ちは、誰にも奪うことはできない。たとえ、蓮さん自身にも。
「薫……」
彼が戸惑ったように呟いたので、指先で涙を拭った。よかった、続きの涙はでてこない。私は、蓮さんを困らせたりしたくはなかった。
蓮さんに恋する前の自分を思い出しながら、私は明るく笑った。
「じゃ、知里さんに怒られちゃうので、そろそろ行くね。脚本、頑張って書くから」
知里さんは、エレベーター横に置かれたソファで私を待っていてくれた。
「すみません、お待たせしました」
「……大丈夫だった?」
私は頷いて答える。
「これ以上ないくらい、大丈夫でした」
知里さんは、何か言いたげな顔で私を見ていたけれど、私の笑顔が揺るがないのを見ると、ゆっくりと頷いた。
「作業前にどこかでランチでもどう? 今日は私が奢るわ」
今日、この人がいてくれて良かったと思いながらも、私は軽く首を振る。
「さっき、自分を励ますためにベーグルサンドを買ったんです。今日は一人でベーグルサンドと語らうことにします」
知里さんとは後でカフェで待ち合わせることにして、私は公園へと向かった。途中、熱くて濃いコーヒーを求めて、コーヒースタンドに立ち寄る。
私は公園のベンチに座った。冷たい風が頬を撫で、少しだけ思考がクリアになった気がした。
――私は間違えた。それを取り消すことはできない。でも、これ以上誰も傷つけないために、せめて軌道修正をしなければ。
エディターズバッグからサンドイッチを取り出して、空に向かって掲げた。
「ベーグルくん。とりあえず、一番しんどいパートは終わらせたよ」
それからベーグルに「君はどう思うかね?」と問いかけてみたが、もちろん答えはない。私は小さく笑ってから、思い切り頬張った。
アボカドの濃厚なまろやかさとサーモンのスモーキーな香りに、いつの間にか溢れていた涙が混ざり合い、胸が締めつけられるように切なくなる。
それを和らげようと、私はコーヒーを一口飲んだ。
私が大好きな、外で飲むコーヒー。だけど……今日はいつもより少しだけ苦く感じた。