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第42話

 私はエルネストEP社の向かいにあるカフェの窓際席に座っていた。


 何度も頭を抱えたり、窓越しに空を見上げたりしては、ため息ばかりついている。いきなり顔を覆って机に伏せたり、コーヒーが少しだけ残ったマグカップをぐるぐる回したり……。傍から見たら、完全に怪しい人である。


 窓の外には、あの日、蓮さんと理央さんが抱き合っていたツリーが見える。かなり早く着いてしまったので適当に入ったカフェだったが、意外とショック療法になっている……かもしれない。


 私が今、頭の中でシミュレーションしているのは、2時間後に向かいのビルで蓮さんと会う場面だ。


 あの夜以来の再会というだけでドキドキが止まらないのに、その直後に彼が恋人と抱き合う姿を目撃し、さらにその恋人と対面。そんな状況をすべて抱えたまま、仕事の打ち合わせに臨まなければならないなんて……だれが想像できただろう。これまで恋愛とは縁遠かった私にとって、あまりに重すぎる試練だ。


「仕事だから、堂々としていればいい」と、自分に言い聞かせる。だけど、ドラフトに絶対的な自信があるかと言われると、言葉に詰まってしまう。


 知里さんは、「企画でも脚本でも、私がOKを出して跳ねられたことは一度もない」と言っていたが、私が記念すべき失敗第一号を飾る可能性はゼロではない。


「まあ、そのときは知里さんの記憶に刻んでもらえばいっか」


 小声でつぶやいて、思わず笑ってしまった。自分を笑えるようになったことが、少し嬉しかった。


 コーヒーを飲み終え、まだ時間があったので外に出た。青空の下、ひんやりとした風が心地よくて私は思わず深呼吸をする。ふと目に入ったベーカリーの看板に、「本日スペキュロスあります。お一人様3袋まで!」と書かれているのを見て、ついつい引き寄せられて店に入った。


 知里さんと、スパイス好きな蓮さんのことを思い浮かべながら、無意識のうちにスペキュロス3袋を手に取っていた。だけど、「蓮さんには、もう、こういうことはしないほうがいいかも」と思い直して、1袋を戻した。それから、冷蔵ケースにあったサーモンとアボカドのベーグルサンドを今日のお昼用に買い、店の外に出た。


「このベーグルサンドを食べるときには、すべてが終わっているはずだ」


 決意を込めてベーグルサンドを空に掲げ、私は心の中でそうつぶやいた。




 1時間ほど歩くと、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。やっぱり青空の下で体を動かすと、心も整うみたいだ。


 エルネストEP社に着いたのは、待ち合わせの5分前。本当はもっと早く着くつもりだったけれど、少しでも長く歩いていたくて、結局ギリギリになってしまった。


 受付で知里さんを呼んでもらおうとしたが、彼女はすでにロビーで待っていた。


「おはようございます」


 知里さんは腕を組みながら、ため息をついた。


「遅いじゃない」


 私はびっくりして時計を見た。


「まだ5分前ですが」


「いつもかなり早く来るあなたが、今日は5分前。怖気づいて逃げ出したのかと思ったわ」


 私は笑った。知里さんらしい言いがかりだ。


「あはは、それはないですよ。あ、差し入れを持ってきました」


 さっき買ったスペキュロスを差し出す。知里さんは「ありがとう」と言って受け取り、ふっと笑った。


「薫。今日は自然に笑えてるね」


 私の失恋のすべてを見届けてきた知里さんの言葉は、なんだか照れくさく、同時に嬉しかった。


「出雲くんに脚本を見せるのは、彼がどれだけ薫を傷つけたか、思い知らせるチャンスでもあるわね」


 確かに、そうかもしれない。私は頷いた。


「それじゃ、浮気男のご意見を拝聴しに行きましょうか」


 知里さんはそう言うと、IDカードをかざし、エレベーターの扉を開いた。




 今回通されたのは、モダンで洗練された雰囲気の会議室だった。


 大きな2面窓には天然木のバーチカルブラインドがかかり、柔らかな自然光が差し込んでいる。室内は広く、中央にはデザイナーズ家具なのだろうか、木製の大きなテーブルが置かれていた。先日通された取調室とはまるで別世界の、ナチュラルにまとめられたおしゃれなオフィスだ。


 知里さんに促されて椅子に腰掛けると、松本さんがコーヒーを持ってきてくれた。


「お疲れ様です、椿井さん。出雲は今参りますので、少しお待ちください」


 お礼を言ってコーヒーを受け取る。覚悟は決めてきたが、すでに胸の鼓動は壊れそうなほど早くなっている。コーヒーの香りだけが、私を現実に繋ぎ止めてくれていた。


 その時、軽いノックが響いた。ドアが開き、長身の男性が入ってくる。その姿を見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。


 彼はドアを開けたまま立ち止まった。そして、呼吸を忘れたかのように私を見る。長いまつ毛に縁取られた、吸い込まれそうなほど深い色の瞳が、微かに揺れているように見えた。


 数日ぶりに見る蓮さんは……想像以上に素敵で、愛おしくて、私は思わず息を飲んだ。


 抑えきれない喜びが込み上げてくる一方で、切なさで胸が苦しくなる。私は膝の上で両手を強く握りしめ、涙が込み上げないように祈った。心の中で「課金した覚えはないのに、変にクオリティが高いフィルターを手に入れたみたい」と考えたら、少しだけ楽になった。


 私は立ち上がり、深く頭を下げた。


「本日は、お時間をいただきまして、どうもありがとうございます」


「……こちらこそ、お越しいただき、ありがとうございます」


 今日の彼は、この間の颯爽としたビジネスモードとは違い、どこか柔らかな雰囲気を纏っていた。


 テーブルに向かう途中、蓮さんは誤ってチェアにぶつかり、手に持っていたファイルを落とした。挟み込まれていた書類が床に散らばる。松本さんが急いで、拾い集めるのを手伝いに向かった。


「出雲さんが何か落とすなんて珍しいですね」


 蓮さんは短く「ごめん、松本くん」と謝った。そしてテーブルの上でファイルを整えようとしたが、再び用紙が滑って床に落ちた。彼は首を振り、小さなため息をついて再度書類を拾う。松本さんも苦笑しながら拾うのを手伝い、「どうしちゃったんですか? 今朝からずっとソワソワですね」とつぶやいた。


 ……動揺、しているのかな。


 もしかしたら、感想は知里さんに託してもらったほうが良かったのかもしれないと考え、すぐに打ち消した。全力で書いたドラフトだ。どんな感想であっても、蓮さんの口から直接聞きたい。


「失礼いたしました」


 彼は私の前に座り、大きなテーブル越しにまっすぐ私を見つめた。


 横から差し込む自然光が蓮さんの髪の輪郭アウトラインを彩り、黄金色の線となって輝いていた。恋しい想いが胸の奥でゆっくりと膨らんでいく。その感情に呑み込まれないよう、私はそっと唇を噛んで、湧き上がる気持ちを抑えた。


 彼は私の前に印刷されたドラフトを差し出し、静かな声で切り出した。


「椿井さん。こちら、読ませていただきました」


 蓮さんの澄んだ声が響く。私は何か言おうとしたが、「はい」としか言えなかった。たくさんの想いが喉に詰まって、それ以外の言葉が出てこなかったのだ。


 蓮さんはドラフトをめくりながら、「率直に申し上げます」と続ける。私は息を呑んだ。


「あなたの書いた脚本は、私たちの期待を大きく超えていました」


 思わず目を見開く私に、彼は穏やかな表情で頷いた。


「特に、主人公の『絶望』の描写が非常に生々しく、読んでいるこちらまで息苦しくなるほどでした。……正直なところ、あなたにここまで悲痛な描写を書き切ることができるとは、予想しておりませんでした」


 そう言って、彼はさらにページを進める。


「その後、友人や家族の支えで立ち上がる部分は……おそらく、あなたの実体験が反映されているのでしょう。こちらも素晴らしい出来でした」


 蓮さんは、優しく微笑む。私が大好きだった笑顔だ。


 だけど、その言葉の裏側に込められた彼の無理解に気づき、胸の奥がひんやりとする。


――出雲くんに脚本を見せるのは、彼がどれだけ薫を傷つけたか、思い知らせるチャンスでもあるわね――


 ……この人は何もわかっていなかった。


「出雲さん」


 私は口を開いた。自分でも驚くほど、心は落ち着いていた。


「確かに、『再生』の部分は、家族や友人を思い浮かべて書きました。ですが……出雲さんは、『絶望』が私の想像だとお思いですか?」


 一瞬、彼は驚いたような表情を浮かべた。そして、探るような目で私を見つめる。


「と、いいますと?」


 その反応を見て、私はようやく気づいた。そうか、私と蓮さんの間には……こんなにも温度差があったのか。


 これ以上何を言っても、話が噛み合わない気がした。彼が少しでも私を想っているのではないか、なんて……結局のところ、私の妄想でしかなかったのだ。


 私は目を伏せて、静かに首を振った。


「何でもありません。忘れてください。それでは、早速シナリオに取り掛かりますね」


 知里さんを見ると、彼女は眉間にしわを寄せて蓮さんを睨みつけていた。私と目が合うと、「もう期待するな」と言わんばかりに力強く首を振った。


「それじゃ、私たちは今日も外で作業しますから。薫、行きましょう」


 知里さんが私に退室を促したその瞬間、蓮さんが「待ってください」と、立ち上がった。


「広瀬さん、松本くん。少しだけ、椿井さんと二人で話をさせてもらえませんか?」


「は? どうしてそんなこと……」


 食ってかかろうとする知里さんを、私は手で止めた。


「知里さん。私なら大丈夫です。少しだけ出雲さんとお話をさせてください」


 そして、彼女にしか聞こえないように、小声で付け加える。


「いずれにしても……ちゃんと話さなければならない時が来ますし」


 彼女はしばらく私を見つめた後、私の肩に手を置き、「何かあったらすぐに呼んで」と言った。そして、松本さんとともに会議室を出て行く。


 広い部屋に残ったのは、私と蓮さんだけだった。

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