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第41話

 絶望と再生について考える永遠のような時間が過ぎ、私は何とか広瀬さんからドラフトの合格点をもらうことができた。


 目は乾き、呼吸は浅くなり、何時間も座り続けたせいで全身の関節が悲鳴を上げている。私は立ち上がって、深呼吸をしながらその場で軽くストレッチをした。


「とりあえず、明日は会社に来て。出雲くんに読んでもらって、意見を聞くわよ」


 思わず広瀬さんを見つめた。「いきなり、明日、ですか……?」


 広瀬さんは、プロットを作成した時と同じ、冷たい視線で私を見つめた。


「当たり前でしょ。それとも、人づてに出雲くんの感想を聞きたいの?」


 確かに、広瀬さんの言う通りだ。それに……本音を言えば、蓮さんに会いたいという想いはますます募っていた。


 絶望を書いているあいだ、蓮さんの優しい笑顔を、声を、何度も思い出した。そのたびに、泣きたいほど恋しくて、だけど苦しくて、会いたいと叫びたくなる自分が悲しかった。


 他人の恋人を、こんなにも愛おしく思うなんて……。罪悪感が胸を締めつける。それでも、私の心は蓮さんを求めてやまなかった。


 本当は、こんな気持で蓮さんに会うのは間違いなんだろう。でも、仕事にかこつけて会えるなら、それは「ラッキー!」って捉えても、いいのでは……ないか?


 頭の中に『不可抗力だもの。かをる』という墨字が浮かんだ。掛け軸として飾りたいくらいだと自画自賛して、私は少しだけ笑顔になった。


 やっと、以前の自分に会えた気がした。


 そう、仕事なのだから、罪悪感を抱く必要なんてない。


 蓮さんに出会ってすぐの頃、まだあの人に恋していなかったときの私に戻って、いつもの笑顔で会えばいい。


「わかりました。大丈夫です。明日、御社に伺います」


 広瀬さんはスマホを操作しながら、ちらりと私に視線を向ける。


「出雲くんとアポがとれた。明日、10時に会社で。今日のドラフトはもうメールしたから、感想は直接聞けるはずよ」


「はい、わかりました」


 広瀬さんは大きく伸びをし、少し芝居がかった口調で言った。


「あーあ、1日中座って読書してただけなのにお腹が空いちゃった。ね、隣のイタリアンで軽く食事していかない?」


 広瀬さんは、私を励まそうとしてくれている。その気持ちが嬉しくて、私は「いいですね」と答えた。


 その時、会議室のドアがノックされた。


「薫、お疲れ」


 現れたのは、友記子と航だった。


「進み具合、どうかなと思って。カフェの窓から薫の姿が見えたから寄ってみたんだけど、忙しかった?」


「ありがとう。今ちょうど終わったところ」


 航は広瀬さんを見て、少し気まずそうな顔をした。広瀬さんは気にせず二人に歩み寄り、軽く微笑みながら言った。


「私たちは今から、隣のビルのイタリアンへ行くけど、一緒に行かない?」


 賑やかなことが大好きな友記子が、明るく答えた。


「薫の仕事が終わっていたら、夜ご飯を一緒にどうかと思って寄ったんです。私たちもご一緒してもいいですか? ね、航」


 航は少し戸惑いながら「俺は……」と言葉を濁した。広瀬さんは彼に向き直り、言った。


「安斎さん、あなたが提出した脚本、アイデアは素晴らしいし、完成度も高かった。手直しして、コンテストに出してみたらどう?」


 航は驚いたように顔を上げた。


「その……『田舎の生活』のことは……」


 広瀬さんは片方の唇をわずかに上げ、皮肉っぽい笑みを浮かべた。そんな表情もまた、クールな彼女に似合っている。


「薫は、自分は絶対に書いてないって言ってるのだから、あれを書いたのはあなたということなんでしょう。私からは、それ以上何も言うつもりはないわ」


 航に対してのお咎めがなかったことに安堵して、私からも「航も一緒に行こうよ」と誘う。航はまた泣き出しそうな顔をしたが、なんとか笑顔を作って頷いた。


「荷物を片付けてから行くから、外で待ってて」


 友記子と航が出ていき、再び広瀬さんと二人きりになる。彼女は私に向かって楽しそうに言った。


「あなたの手帳、赤字で『田舎の生活』ってたくさん書いてあったわ。確か、実際に脚本で使ったところは、タイトルを赤字で書いたのよね」


 やばっ。私は目をそらす。そうだった、確かに、書いてしまっていた。


「広瀬さん、それは、ですね……」


 広瀬さんは荷物をまとめると、私の言葉を遮るようにドアを開けた。


「田舎のネタはまだまだあるんでしょう? 次こそは、あなたの作品として世に出しなさいね」




 カフェの隣のビル2階には、広瀬さんお気に入りのカジュアルなイタリアンが入っていた。平日にもかかわらず、店内は若い女性たちで賑わっている。


 常連である広瀬さんが電話で予約をしてくれたおかげで、私たちは窓際の良い席に案内された。


 窓からは、きらびやかなイルミネーションを見ることができた。色とりどりの光が夜の空気に溶け込んで、街を幻想的な輝きで包み込んでいる。


「みんな、ワイン飲むでしょ? 私がボトルで選んでもいい?」


 広瀬さんが聞くと、友記子と航は笑顔でうなずいた。


 私はノンアルコールメニューを眺める。蓮さんがよく飲んでいた、イタリアのガス入りの水が目に留まった。


「私は、ガス入りの水にします」


 広瀬さんが私を見て、「薫は飲まないの?」と尋ねた。


 私が答えるよりも早く、友記子が口を挟んだ。


「薫は、嬉しいときしかお酒を飲まないことにしたって言ってました」


「なるほど。の後じゃ、ドラフトが完成しても手放しで喜べないか」と、広瀬さんは納得したように頷く。


 航は置いてきぼりを食らったような顔で、「薫、何かあったの?」と聞いてきた。


 もうこれ以上この話を続けたくなくて、はぐらかそうとしたが、広瀬さんは突然、これ以上ないくらいの直球を投げ放った。


「出雲くんがさ、二股野郎だったのよ」


 友記子と航は「ええっ!」と驚きの声を上げた。私は頭を抱える。


 広瀬さん……なんてことを。


 だが、広瀬さんは特に気にする様子もなく、淡々と言う。


「この子たち、あなたの親友で同僚なんでしょ? こんな時くらいサポートしてもらわなくてどうするの」


 さらに広瀬さんは、私の胸の内を見透かすように続けた。


「薫は図太いようでいて、実は自分の気持ちを押し込めがちよね。私が出雲くんの浮気現場を一緒に目撃してなかったら、今でも悶々と『あれは見間違いだったかも』なんて考えてたんじゃない?」


 その可能性は……否定できないかも。


「薫、それで昨日、あんなにボロボロだったんだね」


 友記子が優しく肩に手を置いてくれる。それだけで涙腺が緩みそうになり、私は急いでメニューで顔を隠した。


「……だから、俺、出雲さんに弄ばれないように気をつけろって言ったのに」


 航が小さく呟く。その言葉に反応して、私は顔を上た。


「蓮さんのこと、そんなふうに言わないで。彼は誰も弄んでなんかいない。ただ……」


 ただ、なんだろう。私は言葉を探した。


「……ただ、私が間違えてしまっただけなの」


 一瞬、テーブルの空気が重くなり、「しまった……」と思った。でも、広瀬さんがすぐに気づいて、場を引き取るように話し始めてくれた。


「注文は決まった? ワインはピノ・ノワールでいいかしら。異議申し立てはある?」


 海外ドラマが大好きな友記子が笑って、「広瀬さん、まるでアメリカの結婚式の牧師さんみたい」と突っ込む。


「異議がないなら、注文の言葉に移りましょう」と言って、彼女は片手でウェイターを呼んだ。結婚式の「誓いの言葉に移りましょう」のパロディだ。このマニアックな返し……彼女も相当海外ドラマを見ているようだ。


 広瀬さんと友記子、そして航は、ワインと海外ドラマ、それから映画などの話題ですっかり打ち解けていた。やがて私たちは広瀬さんを「知里さん」と呼ぶようになり、広瀬さんも自然に「友記子」「航」と呼び捨てに変えていった。


「私ね、知里さんを初めて見たときから、絶対怖い人だと思ってました。だって、一見優しそうなのに纏っているオーラが怖かったもん。でも、薫に『冷徹で鬼のようだけど信頼できる』って聞いて、意外にいい人かもって思ったんです」


 ワインで饒舌になった友記子が笑いながらバラす。私は慌てて「いやいや、鬼とまでは言ってないですよ」と言い訳した。ほろ酔いになった航も「俺や先生には、最初は優しかったんですよ。でも、不採用を言い渡したときの豹変ぶりにはびっくりしました」と軽口を叩く。


 知里さんは、余裕の微笑みで答える。


「あれは仕事モードだからよ。普段は天使みたいに優しいの」


 友記子が突然思い出したように口を開いた。


「そうだ、薫。来週は薫の誕生日じゃん。浮気男の出雲さんとは過ごさないんでしょ? じゃあ、またこのメンバーでご飯しようよ」


 知里さんと航も賛成してくれて、12月3日の私の誕生日は、知里さんの友人が経営するレストランに集まることに決まった。


 楽しい時間が流れていく。久しぶりにリラックスできている自分に気づき、心が少し軽くなった。昔、3人で深夜のファミレスでおしゃべりしていたときのようだ。今は知里さんも加わって、さらに楽しい。


 そのとき、知里さんがふと窓の外に目を向け、表情を固くした。


 私もつられて視線を外に向ける。すると、クリスマスのイルミネーションに照らされて、それまで佇んでいた長身の男性が、コートを翻しながら踵を返す姿が浮かび上がった。


 瞬間、胸に甘く切ない痛みが走り、息が詰まる。


 ……蓮さん?


 思わず立ち上がりそうになった私の手首を、知里さんがテーブル越しに掴んだ。


 彼女は無言で首を横に振る。私は引き戻されるように席に座り直した。


 蓮さんの影が、イルミネーションの中に遠ざかってゆく。まるで、触れられそうで触れられない、クリスマスの幸せな夢みたいに。


 そうか、私はもう……彼を追うことすらできないのか。


 行き場を失った切なさが、胸の奥深くで静かに疼いていた。

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