翌朝、私はライティングに必要なツールや資料をエディターズバッグに詰め込み、広瀬さんに指定された店へと向かった。それはエルネストEP社から徒歩圏内にある、コワーキングスペースや会議室を兼ね備えたスタイリッシュなカフェだった。
待ち合わせの15分前に到着したのにもかかわらず、広瀬さんはすでに会議室にいた。彼女の手には、春木賢一朗の単行本。
「広瀬さん、お待たせしました」
ウェイターに案内されて会議室に入ると、広瀬さんは腕時計を見て、「ちょっと早いじゃない。会社の経費でコーヒーを飲みながら、読書を楽しんでいたのに」と言った。
「今日も必死に書きますので、どうぞ読書を続けてください」
「そうさせてもらうわ。あなたは見張らなくても真面目に書きそうだから」
そう言ってから、広瀬さんは私の顔をじっと見つめた。
「昨日よりは元気そうに見えるけど、どう?」
実際は、そうでもなかった。
昨日は泣き疲れていたので、友記子とグラタンを食べた後にシャワーを浴び、そのまま眠り込んでしまった。髪を乾かした記憶まではあるが、布団に潜り込んだ後のことは覚えていない。
そして、今朝はいつもより早く目が覚めた。
こっそり起き出して窓辺へ行き、薄藍色の空を見上げているうちに、涙がまた溢れ出した。蓮さんが恋しくて、すぐにでも会いたくて、胸が締め付けられるようだった。
夜の名残が次第に薄れ、窓の外には朝の光が満ちてきた。私は両腕で自分を抱きしめて、この狂おしい嵐が早く去るのをただただ祈っていた。
広瀬さんには昨日あれだけ大泣きした姿を見られているので、今さら取り繕っても意味はないだろう。私は正直に答えた。
「ぐっすり寝て、なんだか幸せな気持ちで目が覚めました。でも、すぐに昨日のことを思い出して、一気に突き落とされた気分でした」
声が湿っぽくなるのを感じたけれど、自分に「それでいいんだ」と言い聞かせる。
「悲しみに火が付くって表現、本当にそうですね。朝から一人で泣いちゃいました」
広瀬さんはしばらく私を見つめた後、言った。
「ロウ・エモーションって知ってる?」
「……低い感情?」
広瀬さんは首を振った。
「"low"じゃなくて"raw"。『生の』という意味よ。辛いことが起こった時、最初に心を直撃する感情のこと。今のあなたの悲しみとか悔しさみたいにね」
私は頷いた。
「その感情は、自分を惨めに感じさせるかもしれない。でも、それはそういうものだから仕方ない。大事なのは、その痛みから何かを学び取る意志があるかどうか。もしあるなら、行動に移すしかないの。意味ある行動に」
確かに……そうかもしれない。
「昨日のあなたは、本当にロウ・エモーションでいっぱいだった。でも、だからこそ、あんなに力強い絶望のシーンが書けたんだと思う」
再び頷く。普段は自分の描いたものを認めるのが苦手な私だけど、昨日書いた部分には、確かに手応えを感じていた。
「偉そうに言っちゃったけど、要するに、あなたは正しい軌道に乗っているということ。だから安心して」
「ありがとうございます」
広瀬さんは私の肩に手を置き、真剣な目で見つめた。
「薫、あなたは大丈夫だから」
名前で呼ばれた瞬間、私の心にふわりと温かさが広がった。それはまるで、寒い朝に見つけた陽だまりのような心地よさだった。
その余韻に浸っているうちに、また涙が滲んでくる。だけど、それは悲しいだけではない涙だ。
ここ数日間で、ジェットコースターみたいな感情の揺れを経験したけれど、何だか、今までよりも景色がいい場所に着地できそうな気がした。
私は椅子に座り直し、ラップトップを開いた。広瀬さんは元の席に戻り、再び小説を読み始めた。
自分がどこにいるのかさえ忘れるほど、私はキーボードを叩くことに没頭していた。しかし、突然スマホから音楽が流れ、意識が引き戻された。
「はい、広瀬です」
普通の着信音だったら集中力が途切れることはなかったかもしれないが、流れてきたのがオズの魔法使いの「虹の彼方に」だったので、思わず広瀬さんの方を振り返った。とても好きな曲だ。
私はまぶたを軽くこすり、ついでに小休止しようと、空になったカップにコーヒーを注ぐために立ち上がった。
「なるほど、ギャランティの問題でも、原作イメージの問題でもないと……。それなら春木先生は、どのような条件であれば原作をご提供いただけるとおっしゃっていますか? 春木先生と、直接お話をさせていただくことはできませんか?」
話している内容から、これは春木賢一朗作品の映像化に関する交渉だと察した。相手は春木賢一朗が唯一関わっている、大手出版社の編集者だろう。
「わかりました。でも、まだ諦めてはいませんので。またご連絡いたします」
通話を切った後、広瀬さんは深いため息をついた。額に手を当てながら、考え込むように視線を一点に向ける。その表情には苛立ちと同時に、攻略困難な相手へ挑戦するときの高揚感が見え隠れしていた。
しばらく沈黙が続いた後、彼女は小さな声でつぶやいた。
「春木賢一朗って、一体何者なんだろう……。お金にも名誉にも一切反応しないなんて」
どう答えるべきかと迷っていると、突然スマホからLINEの通知音が鳴り響いた。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が締め付けられるのを感じた。
蓮さんからだ。
『お疲れ様です。今日、会社近くのカフェで作業していると聞きました。もし良かったら一緒に昼食をどうですか?』
既読が付いてしまった。返事をしなければならない。
『ごめんなさい、今日は広瀬さんと一緒にランチをするつもりです』
昨日のLINEにあった「話したいこと」を切り出されるのかもしれない。昨日の午前中は、それはポジティブな話のように思えていたのに、理央さんの存在を知った今では悪い予感しか浮かんでこなかった。
さすがにもう一度、あの悲しみに飲み込まれてしまったら、シナリオを書く気力がなくなってしまう。
数分後、蓮さんから短い返信が返ってきた。
『分かりました』
いずれは蓮さんと話さなければならないことは分かっている。それでも今は、崩れそうな心を何とか保ちながら、シナリオに集中したかった。
「出雲くんから?」
広瀬さんに問われ、私は頷いた。
「お昼に誘われましたが、昨日の話だと思ったので、ランチは広瀬さんと食べると返事しました」
「そう。私を選んでくれてうれしいわ」
広瀬さんは少し笑ってから、カフェのフードメニューを私に差し出した。
「ここはランチも美味しいの。さあ、好きなのを選んで。グリルドチキン&ルッコラのサンドイッチが一押しよ」