それから6時間、私は夢中でキーを叩き続けた。
目が乾き、視界がかすむ。それでも、目を閉じてわずかな休息を取るだけで、次の瞬間にはまたキーボードに指を置いた。
デスクの隅にはコーヒーカップ。カフェインでエネルギーを補給しながら、ひたすら文章に没頭する。座りっぱなしのせいで背中が痛み、肩はこわばり、呼吸が浅くなっていたが、それさえも意識の外に追いやって、私は書き続けた。
そしてついに、主人公の「絶望」のクライマックスを書き終えた瞬間……一気に全身の力が抜けていった。深い息が自然と漏れて、私はようやく現実に引き戻された。
――書けた。
ゾクゾクとした達成感が、全身を駆け巡る。
アドレナリンが体中に満ちるのを感じながら、落ち着こうとコーヒーに手を伸ばした。カップの隣には、いつの間にかどら焼きが置かれている。私は驚いて広瀬さんの方をを見た。
「どら焼き、ありがとうございます。全然気づきませんでした」
広瀬さんは呆れたように言う。
「その様子だと、カップが空になるたびに私がコーヒーを淹れていたのも気づいてないみたいね」
驚いて「え、本当ですか!?」と聞いた。確かに、ずいぶん飲んだはずなのに、カップはいつも満たされていた気がする。
「まあ、集中してるのはいいことよ。私も今日は、本を読ませてもらってるし」
広瀬さんがデスクに置いた文庫本は、見覚えのある表紙だった。
「その本、春木賢一朗の新作のミステリー……」
広瀬さんは頷く。
「言っておくけど、これは趣味の読書じゃなくて仕事だから。この小説をドラマ化したいんだけど、作者の素性が謎だらけなの。メディア化のオファーもすべて断ってるし」
彼女は本を手に取り、通常なら著者プロフィールが記載されているカバーの折り返しを開いた。しかし、そこには何も書かれていなかった。
「デビュー以来、ずっと話題の作家なのに、出版社も一社だけだし取材にも応じていない。まるで彼自身がミステリーなのよね」
広瀬さんと話しているうちに、私は自分がとても空腹なことに気づいた。そういえば、朝からコーヒーしか飲んでいない。「いただきます」と言って、どら焼きの袋を開けた。
「春木賢一朗の本、読んだことある?」
広瀬さんが尋ねる。
「ええ、まあ」
「私、結構ファンなのよ。どれが一番面白かった?」
私はそれには答えず、立ち上がって大きく伸びをした。
「広瀬さん、『絶望』の部分はあと少し修正すれば終わるので、一気に仕上げちゃおうと思います」
彼女は時計をちらりと見て「そうね、わかった」と短く返事をした。窓の外はもう真っ暗だった。
蓮さんは、今どこで何をしているのだろう――。ふと頭をよぎったその考えが、またしても、心の奥にじわじわと絶望を広げていく。
昨夜、私にしたすべてのことを……今頃、彼女にもしているのだろうか?
こみ上げてくる涙をこらえながら、私はキーボードに手を置き、再び前を見据えた。
書き上がったシナリオを広瀬さんに見せ、部分的なリテイクを受け、再び手を加える――そんな作業を繰り返すうちに、時間はどんどん過ぎていった。
結局、エルネストEP社を出たのは20時を過ぎていた。
脳が空っぽになるほど書いたけれど、妙に心地よい疲労感に包まれている。思考がすっかり麻痺し、蓮さんと理央さんのことは、考えなければ忘れていられた。
「悲しむにもエネルギーがいる」――手帳に書こうと思ったけれど、あまりの疲れに手帳を取り出す気力すらなかった。
よろよろと歩きながら電車を乗り継ぎ、友記子のアパートへ向かう。彼女の家はスタジオ・マンサニージャから2駅のところにある。いつも「通勤に時間をかけるのは人生の無駄」と言っている彼女らしい選択だった。
駅前のスーパーに立ち寄り、デリコーナーでオリーブとリンゴのペンネサラダを買って、友記子の部屋まで歩く。冷えた夜の空気が、頬に心地よかった。
蓮さんのことを思い出さないように、私は自分の誕生日プランに思いを巡らせた。初めての失恋を記念して、今年はひとりで贅沢するのも悪くない。高級温泉旅館に泊まったり、宮崎の岬へ野生の馬を見に行ったり、バンジージャンプに挑戦するのも楽しそうだ。
心の中を好きなもので満たすのは楽しかった。だけど――その奥には、どうしても消すことができない、大きな空白が広がっていた。
ふと顔を上げると、三日月が私を見下ろしていた。その淡い光が、胸の奥にわずかな温もりを運んでくれる気がした。
友記子の部屋に着いて、チャイムを押す。
「おかえり!」
鍵が開く音とともに、友記子の笑顔が目に入る。その瞬間、安心するのと同時に、悲しみがまたぶり返した。
「薫!? どうしたの?」
友記子が心配そうに言って、私を抱きしめる。さっきまで、悲しさが麻痺するくらい憔悴していたのに、涙が止めどなく溢れ出す。
――ああ、友記子が私に悲しむためのエネルギーをくれたんだ。
私は彼女にしがみついた。つらい時に友記子がいてくれることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「……大丈夫だよ、薫。大丈夫」
友記子はそれだけ言って、私が落ち着くまで、そっと髪を撫で続けてくれた。
インスタントのホットチョコレートにマシュマロを浮かべる。友記子は甘い香りのするマグカップを手渡してくれた。
「はい、激甘カロリー爆弾」
ティッシュを握りしめたまま「ありがとう」と言ってカップを受け取った。いつもは1年に1回も飲まないホットチョコレートなのに、今日はもう2杯目だ。私を気遣ってくれる誰かが差し出す、お菓子のような甘い飲み物が、こんなにも美味しいとは思わなかった。
今日は広瀬さんにも、友記子にも支えられた。こんな日にひとりじゃないということが、心からありがたい。
「美味しい……」
つぶやくと、友記子はにっこり笑った。
「デリのサラダありがとう。グラタン作ったけど、食べる?」
「ありがとう。実は、どら焼きとコーヒーとホットチョコレートしか口にしてなくて」
友記子は驚きながら「それは体に悪いよ!」と言い、キッチンでグラタンを温め直してくれた。
「ねえ、友記子」
「ん? どうした?」
「……何があったのか、聞かないの?」
友記子は、ミトンをはめた手でグラタン皿をテーブルに置き、スプーンで小皿に取り分ける。
「聞かないよ。薫が話したくなったら話してくれるって、信じてるから」
彼女は笑いながら、ペンネグラタンの横にデリのペンネサラダを添えて、私の前に置いた。
「……ありがとう。ペンネ、かぶっちゃったね」
私は笑った。
「ペンネ祭り、いいじゃない!」
友記子も笑い声をあげた。
その時、スマホからLINEの着信音が響いた。広瀬さんからのメッセージだ。
私は友記子に断って、画面を見る。
『明日は、会社の作業部屋が予約できませんでした。会社の近くのコーヒーショップの会議室を貸し切りましたので、9時に集合で。今日の絶望の部分、すごく良かったです(褒めていません)』
広瀬さんらしい言い回しに、私はクスッと笑う。
蓮さんと理央さんのことは、心の奥底をえぐるような痛みだった。これから何度も泣くだろうし、きっと立ち直るには時間がかかる。
それでも私は、今日、何度だって這い上がる方法を手に入れた気がした。
泣いて、傷ついて、それでも再び歩き出すことのできる自分が、少し誇らしかった。