エルネストEP社の取調室、いや、クリエイターズルームで、私はぼんやりと座っていた。
いろいろな出来事が次々と繋がって、思考が追いつかなかった。
焦点の合わない目での、突然のキス。
――ここの家のタオル、スポンジケーキみたいにふかふかで――
『来るときには知らせてもらえると嬉しいです』
――私、あっちで寝るように言われてるから――
ツリーの前で、抱き合っていた姿。
――契約結婚相手の薫さんね――
視線を逸らす蓮さん。
蓮さんは、私に変な期待を持たせたくないと考えてる?
――ずっと、私からもお詫びしたいと思っていました――
『落ち着いたら、話があります』
『ごめん』
……『ごめん』
頭の中がごちゃごちゃで、もはやカオスだ。私は深い溜め息をついてデスクに伏した。
松本さんが「今朝の出雲さんの様子がいつもと違った」と言っていた。きっとそれは、彼女に会える喜びとともに、昨夜のことを「しまった、やらかした」と思っていたからだろう。
今朝、テラス席で空を見上げながら蓮さんのことを想っていた自分とは、あまりにもかけ離れた現実。そのギャップは、ナイフのように私の胸に刺さったままだ。
私はもう一度ため息をつきながら、両手で顔を覆った。いろいろな事実が急に結びついて重くのしかかり、私の思考を妨げる。朝、あんなに感じていた透明感が、どんどん曇っていく気がした。
それに……
最初から契約結婚だと言われていたのに、知らなかったとはいえ、結果的に蓮さんと彼女の間に割り込んでしまった。
理央さんは、私を純粋な契約結婚の相手と思っているのだろう。そうでなければ、私に対して、あんなに好意的な眼差しを向けないはずだ。私が一線を越えてしまったなんて……彼女はこれっぽっちも考えていないに違いない。
一番の被害者は私じゃない。理央さんだ。私は本当に……なんてことをしてしまったのだろう。
自己嫌悪に浸っていると、目の前にマグカップが置かれた。甘い香りが漂ってくる。私は力を振り絞って上体を起こした。
「ホットチョコレート。インスタントだけど」
広瀬さんはぶっきらぼうに言ったが、その言葉の裏にある彼女の優しさに、私は気づけるようになっていた。
「我慢できると思ったんですけど……やっぱり泣けてきちゃいました。まだまだ修行が足りませんね」
笑おうとしたけれど、どうしても声が震えてしまう。
「泣きたい時は、泣けばいいの」
彼女の一言に、崩れかけていた心の砦が再び揺らぐ。私は唇を噛んだ。
「男なんてそんなものよ。でも、本気で好きだったのなら、その気持ちはあなただけのもので、誰も汚したりできないから」
広瀬さんの言葉が胸に深く染み込み、目頭が熱くなった。
「本気だったなら、その気持ちに自分で決着を付けられるはず。そうしたら、自然と前に進めるから。だから、悲しい時は思い切り悲しむの。自分のために」
再び涙が溢れ、口元が震える。広瀬さんはティッシュを差し出してくれた。
「この部屋、防音なの。思い切り泣いても、私以外、だれも迷惑しないから」
広瀬さんらしい言葉に、私は涙をこらえながらも少し笑った。感情が押し寄せてきて、抑えることができなさそうだった。
「……広瀬さん。お忙しいのでは……」
「大丈夫。今日はあなたのために一日空けてあるから」
彼女は軽く鼻で笑い、私の肩に手を置く。
「しょうがないわね、特別待遇よ」
最後の砦が崩れ、感情の濁流に呑み込まれる。一度流されてしまったら、もう抗うことはできなくなった。
私は机に顔を伏せ、声を上げて泣いた。
「……何度もみっともないところをお見せして、すみませんでした」
泣き腫らした目のまま、私は広瀬さんに頭を下げた。
広瀬さんは、ケトルでお湯を沸かし、ドリップコーヒーを淹れて私に手渡す。ほっとするような香りが立ち上り、私はカップを鼻に近づけ、その香りにしばらく浸った。
「あなた、何歳だっけ?」
「……27です」
「私が27歳の頃なんて、毎週のように誰かに振られては、バーで泣きながらやけ酒してた」
その言葉に、思わず笑いがこぼれた。広瀬さんの慰めが嬉しくて、私は「ありがとうございます」と、もう一度頭を下げる。
「でも、結婚前に分かって良かったじゃない。 出雲蓮は浮気男だって」
私は曖昧に頷いた。……蓮さんと理央さんにどんな事情があるにしろ、きっと私の方が浮気相手だ。『婚約者兼浮気相手』。そんな言葉、聞いたこともない。
笑おうと思ったのに、また涙が込み上げてきた。
「ちょっと、まだ泣き足りないの? 初恋じゃあるまいし……」
広瀬さんの言葉に、私はふっと黙り込む。
「待って……まさか、初恋だったの?」
私は少し躊躇してから、静かに頷いた。広瀬さんは、驚いたように目を見開く。
「幼い片思いを除けば、これが初めての恋でした」
「確か、スーパーで会った時、出会ってまだ2カ月だって言ってたわよね?」
私は再び頷いた。その瞬間、広瀬さんの目が鋭く光った気がした。
彼女は、ファイルからコピー用紙の束を取り出し、乱雑にめくりながら言った。
「出雲くんがあなたに脚本を任せたいって言い出してから、あなたの実績を少し調べさせてもらったの。ここ数年の倉本先生の代表作の中で、神回と呼ばれるエピソード、ほとんどあなたが書いてるでしょ?」
彼女は、話題になったエピソードがリスト化されたページを開き、私に見せた。どう答えるべきか迷ったが、それらは確かに私が担当した回だ。私は頷いた。
「恋愛経験がないのに、どうしてそんなに人の心に響く恋愛のシナリオが書けるの?」
広瀬さんの言葉に、私は思わず目を見開いた。恋愛をしていなくても、書けるものだと思っていたけれど……。
そう考えてから、ふと思い当たった。もしかして、広瀬さんが言っているのは、登場人物の感情のリアルさのことなのだろうか? だとしたら、私にも少し心当たりがあった。
「さっき取りに行った手帳が……理由でしょうか。嬉しかったこと、悲しかったこと、怒ったこと……すべて書き留めて、後で見返しています」
そう言って、私はバッグから手帳をすべて取り出し、テーブルの上に並べた。角の擦り切れた分厚いものばかりで、30冊近くある。
「ご覧になりたければどうぞ。人の名前は書いていませんし、キーワードばかりなので、私以外には分かりにくいかもしれませんが」
広瀬さんは一番上の1冊を手に取り、ページをパラパラとめくる。2冊目、3冊目と手に取り、興味深そうにページを見ていた。彼女があまりに真剣に読んでいるので、私は少し気まずくなり、補足した。
「黒い文字が最初に書いたことで、青はそこから発展させたアイデアや教訓。緑は別の出来事と繋げて出てきたアイデアです。実際にシナリオに使った時は、赤字でドラマのタイトルと日付を記入しています」
「かなりボロボロになってるわね」
私は頷いた。
「心が動いたらこれに書き留めて、何度も何度も見返すんです。そうしているうちに、いろんな出来事が繋がって、まるで化学反応みたいにセリフが生まれてくるんです」
聞いているのかいないのか、広瀬さんは手帳のページをめくる手を止めない。
「……恋愛モノに使うときには、ストーリーに合うようにアレンジします。人の感情って、恋愛でも、友情でも、突き詰めるととてもシンプルで野性的なところに行き着くと思うんです。そういったアイデアをベースにしたエピソードは、共感してもらえることが多かった気がします」
広瀬さんはしばらく手帳を見つめた後、私に視線を向けた。その目には、さっきまでの温もりはもはや見当たらず、冷静さと厳しさだけが静かに宿っていた。
「さっきの慰めの言葉、全部忘れて」
「え?」
広瀬さんは、冷たくも力強い表情でイスを引き、顎で私に座るよう促す。
「今すぐ書きなさい。初恋の相手に裏切られたその気持ちを。理由もわからず振られた主人公に重ねるの」
そう言ってから、広瀬さんは吐き捨てるように続ける。
「きっと出雲くんだって、今頃彼女とイチャイチャしてるわよ。あなたも分かってるんでしょ?」
蓮さんと理央さんが寄り添う姿が頭に浮かび、また涙が溢れそうになる。
「私も正直、出雲くんが浮気するタイプとは思っていなかった。でも、一度浮気する男は何度でも繰り返す。本質的に変わらないのよ。それは私の実体験だから、間違いない」
私は広瀬さんを見た。彼女の瞳は、悲しみを受け入れて乗り越えた人だけが見せる、静かな深みをたたえていた。
「あなたは、そんなことは知らずに出雲くんを好きになってしまった。でも、裏切られてそのまま終わりにするつもり? それを糧にしなきゃ、あなただけが損をすることになる。それで悔しくないの?」
その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。
――失敗しても、そこから何かしらネタや教訓を得ることができるのなら、自分に起きていることは何ひとつ無駄にはならない――
そうだ、私の座右の銘は、それだった。
転んでも、そこから学べばすべてが未来の自分につながる。どんな痛みも無駄じゃない。
私はそう信じて生きてきたじゃないか。
「広瀬さん」
彼女が私を見つめる。涙がとめどなく溢れてくるけれど、私はもう、それを隠そうとはしなかった。
「――書きます。今日も、お付き合いいただけますか?」
広瀬さんは、強気な笑顔を浮かべ、頷いた。
「当然よ。あなたのシナリオに、世界的配信会社との今後の契約がかかってるんだから」