広瀬さんに通されたのは、エルネストEP社の社内クリエイターたちが集中したいときに使う、小さな部屋だった。壁は無機質なオフホワイトで、静かに稼働する空気清浄機がひんやりとした空間を保っている。部屋の中央には、ぽつんとテーブルとイスだけが置かれていた。
「まるで、アメリカの刑事ドラマの取調室みたいですね。もしかして、今日のノルマ分を書き終えるまで、ここから出られないとか?」
私は軽く笑いながら冗談を言った。広瀬さんはドアを後ろ手に閉め、ため息をついた。
「本当は、出雲くんのいるユニットの部屋を借りてたんだけど、あなた、浮気現場見た後で彼と顔合わせたくないでしょう?」
広瀬さんは、本当に遠慮がない言い方をする。
「……まだ、浮気と決まったわけではないですよ?」
そう答えると、広瀬さんは少し眉をひそめた。
「私には、あの二人は親密な恋人同士に見えたけど」
その言葉に、私は何も言えなくなる。実のところ、私の目にもそう映っていたのだ。
ドアが開き、昨日蓮さんと一緒にいた光沢スーツの男性が入ってきた。おしゃれに対するこだわりがあるのだろう、今日もまた違う色の光沢スーツを着ている。
「こんにちは、椿井さん」
彼は屈託のない笑顔を浮かべ、子犬のような無邪気さで話しかけてきた。
「昨日はご挨拶できず、すみませんでした。松本と申します」
名刺を交換した後、松本さんは広瀬さんに向かって言った。
「なんでこっちの部屋にしたんすか? 今日、僕がユニット内の個室を予約しておいたのに」
「こっちでいいの。椿井さんは取調室のほうが落ち着くんだって」
いや、それは言ってないと、心の中で突っ込む。
「それと、出雲くんには、椿井さんがここにいること言わなくていいから」
「あ、はい……でも、出雲さん、さっき帰っちゃいましたよ」
松本さんは、ニヤッと笑いながら続けた。
「出雲さん、今朝から様子がおかしかったの気づきました? いつもはクールで隙がないのに、今朝はぼーっとしてたり、急に顔を手で覆ったり、ため息ついたりして、ずっとソワソワしてて。みんなで『どうしたんだろう』って話してたんです。そしたらさっき……」
「女と会ってたの?」
松本さんは一瞬、驚いた顔をした。
「なーんだ、知ってたんですね。そう、珍しく当日に半休取ったかと思ったら、すっごい美人と腕組んで帰って行きました。彼女に会えるのが、よっぽど楽しみだったんでしょうね。女子社員たちがこぞってやる気をなくして、今日の業務は全滅です」
私は少し不安になった。まさか、蓮さんに限って、二股なんて……。
いや、もしかすると、二股ですらないかもしれない。あの最初のキスは、寝ぼけた蓮さんが、彼女にしているつもりだったとしたら……。
そう思い始めてしまうと、悪い想像が止まらなくなる。私がキスを返したせいで、蓮さんとしては応えざるを得なかったのかもしれない。
でも、昨夜の蓮さんは……ベッドで何度も私の名前を呼んでくれた……。
それとも、もしかしてそういうもの? 別に好きな人がいたとしても、そういうシチュエーションになったら、とりあえず目の前の人の名前を呼ぶのが礼儀なの?
私は頭を抱えた。経験値が不足しすぎていて、何が正解なのかまったく分からない。
その時、LINEの通知音が響いた。なんというタイミングだろう、画面には蓮さんからのメッセージが表示されている。
『僕の部屋に、薫の手帳が落ちていました。主寝室に置いておきます。取りに来るときには知らせてもらえると嬉しいです』
私はバッグの中を見て、手帳がないことに気がついた。ポケットに入れておいたはずだから……服を脱いだ時に、落ちてしまったんだ。
そこまで考えて、私は気がついた。蓮さんは今、家にいるんだ。
さっきの彼女と一緒に? ……私が、しばらく友記子のところに泊まると言ったから?
私はこめかみを押さえた。ああ、こうやってぐるぐる思い悩むのは私らしくない。こんな時、いつもの私ならどうするだろう?
松本さんが「ではこれで」と退室したので、私は思い切って広瀬さんに聞いてみた。
「広瀬さん、すみません。時間がないのは重々承知しているのですが……」
彼女は眉を寄せたまま私を見る。
「蓮さん、家にいるみたいなんです。手帳を家に忘れてしまったので、取りに帰るがてら、ちょっとだけ……確認しに行ってもいいですか?」
広瀬さんは呆れたような顔をした。
「どうやって行くつもり? 電車にしてもタクシー呼ぶにしても、時間がかかるでしょ」
確かにそうだ。でも、このモヤモヤした気持ちに決着を付けないと、余計に時間がかかりそうな気がする。
そのとき、広瀬さんが指にかけたスマートキーを私の目の前に突きつけた。
「しょうがないわね。車を出すから、確かめに行きましょう」
午前中には青空が広がっていたのに、いつの間にか雲が町を覆い、雨粒がフロントガラスにポツポツと当たり始めた。蓮さんのテラスハウスに着く頃には、あたりは暗くなり、土砂降りと言えるほど雨脚が強まっていた。
広瀬さんは、テラスハウス近くの少し広くなっている道路に車を停めた。雨音が静寂をかき消す中、私は情けないくらいに怖気づいていた。
そ、そうだった。勢いでここまで来てしまったけれど、本当は私は、こういう争いごとはできるだけ回避しながら生きていきたいタイプだった。
「さて、どうする? 乗り込むんでしょ?」
広瀬さんは私を焚きつける。ここまで来て、「もう大丈夫です。さあ帰りましょう」なんて言える雰囲気ではない。
黙っていると、広瀬さんが聞いた。
「手帳、家に忘れたのよね?」
私は頷いた。
「それなら、急に手帳が必要になったから取りに来た、と言えばいいわ」
私は広瀬さんに尊敬の眼差しを向けた。実際、あの手帳は必要なので、嘘にもならない。
「広瀬さん……さすがです!」
「もしかして、来る前に連絡しろとか言われてる?」
私は頷いた。「さっきのLINEに、事前に連絡をもらえると嬉しいって書いてありました」
広瀬さんは正面を見つめながらため息をついた。
「それでクロ確定ね。どう考えても、あなたと浮気相手が鉢合わせしないようにしてる」
……確かにそうかもしれない。私は情けなさを感じながらも、蓮さんに「今から行きます」というメッセージを打とうとした。その瞬間、広瀬さんが慌てて手を広げ、私の動きを制止した。
「ちょっと、何してるの。知らせたらダメよ、現場を押さえなきゃ。行ってらっしゃい。傘はないから走って!」
彼女の言葉に背中を押されるように、私は車を降りて、雨の中をテラスハウスまで走った。ポーチに入り、少し迷ってからチャイムを鳴らした。鍵は持っていたが、万が一ショッキングな場面に遭遇したら、私は一生立ち直れなくなるかもしれない。
「はーい」と明るい声が聞こえ、しばらくしてドアが開いた。鼓動が早くなる。あの女性だ。
「どちら様ですか?」
彼女は小首をかしげ、穏やかに尋ねてきた。とても美しい人で、私の心臓の音はさらに早くなった。
「あの……椿井と申します。今、蓮さんは……?」
彼女は「ああ!」と声を上げ、思わずこちらがドキッとするような、華やかな笑顔で言った。
「契約結婚相手の薫さんね。彼は今、ちょっと買い物に出ているの。もうすぐ帰ると思うけど」
思わず目を見開いた。契約結婚のことを知っているの?
「……手帳を、忘れちゃって。それを取りに来たんです」
私は無理に笑顔を作りながら答えた。彼女は口元に柔らかな笑みを浮かべ、ドアを開けて「どうぞ」と招き入れた。
「すごい雨ね。薫さん、髪が濡れちゃってる」
私は主寝室へ向かい、ベッドの上に置かれた手帳を取った。それから、彼女がここをゲストルームとして使う可能性を考えて、テーブルの上に置いたままの本をまとめて棚に入れようとした。
そう。ただのゲストという可能性だって、まだあるし……。
すると、後ろから声がかかった。
「薫さん、片付けなくていいよ。私、あっちで寝るように言われてるから」
私は振り返った。――あっちで寝るよう……言われてる?
彼女はにっこり微笑んで、タオルを差し出す。
「風邪を引いたらいけないから、髪を拭いて。ここの家のタオル、スポンジケーキみたいにふかふかで気持ちいいよね」
その瞬間、頭の中でパズルのピースがカチリと嵌まった気がした。
この人だ……。前に蓮さんが話していた、タオルをスポンジケーキと表現した女性。
元カノ? それとも、もしかして……ずっと付き合っている人?
「そうだ、まだ名乗ってなかった。私は
軽やかに言う彼女に向かって、私は「大丈夫です」と断った。心は火傷をしたようにヒリヒリと痛んでいる。
この一瞬だけでいい、切り抜けろと自分に言い聞かせながら、私はできる限りの笑顔を作った。
「すぐに取り掛からなければいけない仕事があるから、今日はこれで失礼します。ありがとう」
理央さんは少し残念そうに眉を下げたが、すぐに柔らかな表情を取り戻した。
「そう、わかった。また今度、ぜひお話しましょうね」
彼女は、私を玄関まで送ってくれた。私が靴を履こうとした時、思い切ったように「薫さん」と切り出した。
「あの……契約結婚のこと、本当にごめんなさい。
理央さんは、「ごめんなさい。本当にありがとう」と言いながら、私に頭を下げた。
思いやりに満ちた彼女の言葉は、私に深く突き刺さった。心はとっくに麻痺していると思ったのに、まだこんなにも痛みを感じる余地が残っていたんだ……。
私は「いいんです、たった1年のことですから」と微笑んだ。皮肉なことに、一番痛かったこの言葉の後で、一番自然に笑えていた。
傘を差し出されたけれど、車だからと断り、私はまた雨の中を駆け出す。
車に乗り込むと、広瀬さんが尋ねた。
「どうだった?」
「……アウトでした」
私は口角を上げ、なんとか笑おうとする。
「でも、いい人でした……」
その言葉を口にした途端、自分の声がかすれていることに気づいた。胸の奥からこみ上げる感情を抑えることができず、雨に紛れて熱い涙が頬を伝っていくのが分かった。
広瀬さんは何も言わず、ただ静かに私を見つめている。その沈黙は不思議と優しくて、私の心に沁みた。泣いちゃいけない、そう思えば思うほど、涙は止まらなくなる。
広瀬さんがハンドルから手を離し、私の肩にそっと手を置いた。
その温もりに、私はとうとう堪えきれなくなって、顔を覆った。