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第36話

 蓮さんの家を出てから、私は会社へ向かって歩き始めた。


 今日は電車は使わず、8キロほどの道のりを歩くことにした。手足を動かさないと、浮ついた心が体から離れて、どこか遠くへ漂っていってしまう気がしたからだ。


 歩きながら、プロットについて考えた。まず、4枚のうち1枚を選んで、それについて歩きながら思考を巡らせる。1つ目のプロットが終わったら、2つ目。そんなふうに、頭の中ですべてのプロットを形作っていく。


 冷たさを増した風を感じながら、私はふと、子どもの頃のことを思い出していた。


 歩いていると、いつの間にか頭の中が整理され、自然と答えが見つかることがよくあった。私はずっと、それが面白いと思っていたのだ。


 実家にいた頃の私は、季節を問わず、ほとんど外で遊んでいる子どもだった。


 通学路を歩いたり、神社で遊んだりしているうちに、草木や花、農作業の風景、鳥や虫、タヌキやリスなどの野生動物、遠くの山々など、さまざまなものが目に飛び込んでくる。


 そこに、自分の感覚――風の感触、空の色、雪の冷たさ、山水の温度の変化、そして気温や湿度など――がすべて繋がって、いつも考え事にいい影響を与えてくれていた気がする。


 その感覚が、私が物語を創るうえで欠かせないものになっているのだろう。五感で感じたすべてが、頭の中のプロットと繋がって、自分でも知らないうちに物語が形を成していく。それは田舎にいても、都会にいても、同じだった。


 こうして歩いていると、混乱していた頭が次第に整理されていくのが分かった。4つのプロットの要素が繋ぎ合わさって、まったく新しい物語が生まれてくる。立ち止まってメモしようかと思ったけれど、アイデアが次々に湧いてきて止まらない。私はスマホを取り出し、メモアプリの音声入力ボタンを押して、小声でアイデアをつぶやきながら歩き続けた。


 途中でカフェに立ち寄り、一番大きなサイズのコーヒーを買ってテラス席に座った。天気はいいが、放射冷却で空気はひんやりとしている。他にテラス席の利用者はいなかったので、私は密かに「特等席」と呼んでいる街路樹のそばのイスに腰掛け、ゆっくりコーヒーを楽しむことにした。


 思い描いていた主人公に近い雰囲気の女性が歩いてくるのが見えて、私はこっそり彼女を目で追った。


 名前も知らないその女性を見ているうちに、主人公のイメージが広がっていった。髪はショートボブで、昔買ったブランドのバッグを手入れしながら大切に使っている。少し気が強くて、納得いかないことがあると、相手が誰であっても意見を言うタイプ。会社の後輩から慕われているけれど、自分は人に頼るのが苦手。けれど、婚約者にだけは甘えることができた。そんな、芯のある女性……。


「そして、外席で飲むコーヒーが好き」


 両手で持ったタンブラーを見つめて呟いた。自分で描くドラマの主人公に、自分の要素をひとつだけ入れるのが、ずっと夢だった。


 手で顔を覆う。次々とイメージが溢れ出してきて、圧倒されそうだった。私は気持ちを落ち着けようと、冷たい空気を深く吸い込んだ。


 ――だけど、冷えた空気も、濃いカフェインも、熱いシャワーも、大好きな散歩も、何一つとして私の気を紛らわせてなんてくれない。


 どんな思考も、感覚も、すべてあの人に繋がってしまうのだ。


 透き通った11月の青空を見上げる。


 ああ、私はこんなにも、蓮さんのことが好きなんだ。





 一番乗りで会社に到着し、さっき音声入力したメモアプリを開いた。内容を見直しながらノートに書き写し、それをもとにプロットの肉付けに取り掛かる。メモアプリは確かに便利だけど、私の場合、手を動かした方がアイデアが広がる気がした。


 午前9時を過ぎる頃には、社員たちが次々に出社してきた。私は皆に挨拶をしつつ、作業を続けた。


 途中、蓮さんからLINEのメッセージが届いているのに気づいた。心臓を掴まれたような甘い衝撃が走る。


『おはよう。体は大丈夫ですか?』


 昨夜のことが思い出されて、私は真っ赤になり、『大丈夫です。ありがとう』と、打ち込んだ。それから『書き置きだけ残して出ていってごめんなさい。シナリオに集中したいので、しばらく友記子のところに泊まります』とも。


『分かりました。落ち着いたら、話があります』


 話……なんだろう。


 もしかして、契約結婚なんてやめて、まずはお付き合いを……だったりして。そう考えただけで、頬が上気するのを感じる。


「……オザリヤース」


 青木くんが若者語で挨拶をしながら出社してきたので、私は慌てて妄想を打ち消す。そして、顔が火照っているのを隠しながら、急いで『了解です』と打ち込み、会話を終わらせた。





 正午にはプロットが完成した。これを広瀬さんにチェックしてもらったら、すぐにドラフト作成に入ろう。


 次の課題は……「絶望」について、だ。


 私は両手で顔を覆い、天井を仰ぐ。主人公の絶望を、どうやって表現すればいい? 悲しみの深さを、どうやって言葉に落とし込めばいい……?


 だけど、目を閉じるとまず浮かんでくるのは、蓮さんの笑顔だった。それから、蓮さんの眼差し、かすれた声、息遣い、そして肌を這う唇と、熱くて甘い舌……。


 私は両頬をピシャリと叩いた。隣の席の青木くんが驚いた顔でこちらを見ている。


「どうかしたんすか?」


 私は「なんでもない」と言って、笑ってごまかした。


 自分が、耳まで赤くなっているのがわかった。職場で何を考えているんだ、私は……。


 だけど本当に、今の私には幸せしか浮かんでこなかった。どうしよう、時間がないのに……どうすればいい?


 そんな自問自答さえ、意識の上っ面を滑り落ちていく気がした。だめだ、今の私は、かつてないくらい浮ついている。


 その時、友記子が声をかけてきた。


「薫、エルネストEP社の広瀬さんがお見えになってるよ」


 私は、「ありがとう。すぐ行く」と返し、深呼吸をしてから席を立った。


 エントランスには、グレーのパンツスーツにバーガンディ色のコートを羽織った広瀬さんが立っていた。指にはスマートキーを軽やかにぶら下げている。初めてスーパーで会ったときにも思ったが、モデルのような美しさだ。


「広瀬さん、お世話になります」


「ライティングに必要な荷物をまとめて、5分後にエントランス集合で」


 私の挨拶を軽く受け流し、彼女はすぐに踵を返した。いいものを作りたいという想いは同じだし、彼女が優秀なことは間違いない。従おう。


 上司に社外作業を告げてから外に出ると、エントランスの前にアウディがハザードランプを点けて止まっていた。サングラスをかけた運転席の広瀬さんが「乗って」と促す。私は助手席に乗り込んだ。


「プロットは?」


 さっきプリントしたばかりの用紙を手渡すと、彼女はサングラスをずらして目を通し、何も言わずに私に返してきた。広瀬さんはエンジンをかけて、静かに車を発進させた。


 広瀬さんは慣れた手つきでハンドルを握り、エルネスト・エンタープライズ方面に向かっているようだ。


「……私はプロットを一つ選べと言ったはずだけど、どうして新しいプロットを作ったの?」


 彼女が問いかけた。気に入らなかったのだろうか。


「昨日の4つのプロットを見直して、広瀬さんが示してくれた方向が見えました。でも、歩きながら考えたら、どれも途中で行き詰まる気がして。だから、各プロットから要素を抽出したプランBを作ったんです」


 広瀬さんは一瞬私を横目で見て、また視線を前に戻す。


「いいと思う」


 私は驚いて広瀬さんを見た。彼女は表情を変えず、まっすぐ前を向いたままだ。


「……何をそんなに驚いているのよ」


 私が凝視していたからか、彼女は少し不機嫌そうに言った。


「まさか、広瀬さんに褒められるとは思ってもみませんでした」


 正直に答えると、彼女は冷たく言い放つ。


「褒めてはいないわ。合格点よ。ギリギリでね」


 私は体をできるだけ彼女の方へ向け、「ありがとうございます」と礼を言った。昨日の、7時間にも渡るアイデア出しがなかったら、私はこのプロットを完成させることはできなかっただろう。広瀬さんは、ふんと鼻を鳴らした。


 車はエルネストEP社のビルに近づいてきた。一等地に立つ8階建ての自社ビルで、景観樹を活かした空間デザインは、建築雑誌などでも時折取り上げられている。ビルの前は広々とした広場になっていて、都心の喧騒を忘れさせるような、落ち着いた雰囲気だ。


 車は、広場前の道路にさしかかったところで、赤信号に止まった。広場にあるクリスマス仕様のシンボルツリーを見て、そういえばもうすぐ自分の誕生日だということにふと気づいた。


「あ、出雲くん」


 独り言のように広瀬さんが呟く。私が視線を向けると、確かにコート姿の蓮さんが、ツリーの方へ歩いていくのが見えた。嬉しさで思わず口元がほころぶ。声をかけたいけれど、さすがに目立ってしまうだろう。


 彼はツリーの前まで来ると、アイボリー色のチェスターコートを着た女性に話しかけた。活動的な雰囲気の、とてもきれいな女性だ。次の瞬間、彼女は嬉しそうに笑って……蓮さんの首に抱きついた。蓮さんも、大切そうに彼女を抱きしめ返す。


 ……え?


 胸の奥に氷を当てられたような痛みを感じて、息が凍りついた。今のは……何?


 目の前の光景が現実だと信じられなかった。頭が真っ白になって、何も考えられない。


 広瀬さんが小さく舌打ちをし、険しい顔つきで「男ってやつは……」とつぶやいた。


 信号が青に変わり、車は再び走り出す。私は何もできず、助手席から振り向いて、目で彼らの姿を追うことしかできなかった。


 女性は蓮さんの腕に自分の腕を絡め、寄り添い、楽しそうに笑いながら歩いていく。


 ――ごめん――。


 どうしてだろう、あのときの蓮さんの囁きが、急に蘇ってきた。

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