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第35話

 私からキスをした瞬間、両肩に置かれていた蓮さんの手が、驚いたように一瞬震えた。しかし、その手はすぐに私の頬と背中にまわり、さっきよりも強い力で私を抱き寄せる。


 蓮さんの手が私の首筋や耳を撫でるたび、体中がゾクゾクして、内側から熱が沸き上がってくるようだった。こんな感覚は、今まで経験したことがなかった。


 息が浅くなるのを止められず、ふと目を開けると、これ以上ないくらい近くにいる蓮さんと視線が絡んだ。まるで炎みたいに熱を帯びた視線で、蓮さんは、私だけを見ていた。


 彼の舌先が、私の下唇をゆっくりとなぞる。耐えきれずに口を開くと、蓮さんは瞬く間に私を深く捉えた。甘く痺れるような感覚が全身に押し寄せ、意識が溶けてしまいそうになる。私は溺れないように、必死に蓮さんにしがみついた。


 どれくらいの時間がたったのだろう。永遠とも思えるほど長く感じたけれど、実際にはほんの短い間だったのかもしれない。私にはもう、それを考える余裕なんてなかった。


 蓮さんは、自分を抑え込むかのように唇を離した。彼の荒い息遣いと、いつもよりかすれた低い声が、静寂の中で響く。


「……いい?」


 今朝の蓮さんは、見たこともないくらい自信に満ち溢れていた。だけど今の、これほどまで余裕のない蓮さんを見るのも初めてだ。切なさが胸いっぱいに広がって、私はただ、必死で頷くのが精一杯だった。


 蓮さんが私を抱え上げようとした瞬間、私はとっさに「重いよ」と言いかけた。だけど唇で言葉を奪われ、何も言えなくなる。そして驚くほど軽々と抱き上げられ、私は蓮さんの寝室へと運ばれた。


 蓮さんは何度もキスを重ねながら、私をそっとベッドに横たえた。そして、焦れるような手つきでネクタイを解き、ワイシャツを一気に脱ぐ。


 その時、彼の脇腹に刻まれた古い傷跡が目にとまった。


 思わず体を起こし、手を伸ばしてその傷跡に触れてみる。長い時間をかけて癒えた傷は、まるで、蓮さんが乗り越えてきた痛みを物語っているかのようだった。


 私は傷跡に顔を寄せ、そっと口づけた。彼の素肌からは、日向ひなたのような乾いた温かい香りがした。


「薫……」


 蓮さんは私を強く抱き寄せ、また唇を重ねる。彼の指が胸元へと伸び……ボタンをひとつ、外した。


「蓮さん、ごめん……ちょっと、待って」


 顔をそむけて唇から逃れ、私は蓮さんを止めた。一応……言っておかねばならないことがある。自分が壊れてしまいそうなほど高鳴る鼓動を抑えながら、私は口を開いた。


「あの、ですね……私、まだ……経験が……」


 目をぎゅっと閉じたまま、ようやく言葉を絞り出す。恥ずかしさに耐えきれなくて、蓮さんの顔を見る勇気はなかった。


 ほんの一瞬の静寂が流れた後、蓮さんがゆっくりと私の耳元に顔を近づけてきた。彼の吐息が耳に触れ、耳たぶが優しく噛まれる。それから、微かにかすれた甘い声が囁いた。


「優しくするから……めてとは言わないで」


 その言葉に、胸の奥が熱く締めつけられ、なぜか涙が溢れそうになる。私は蓮さんに「好き」と伝えようと、口を開けた。その瞬間に再び唇が重なり、私の言葉は彼の温もりの中に溶けて消えていく。


 気づいたときには、すべてを預けるように、私は彼の腕の中へと沈んでいった。





 シャワーの温度を、いつもより高めに設定した。熱いシャワーで頭をスッキリさせようとしたけれど、昨夜のことが何度も思い出されてしまう。顔が熱くなるのを感じて、思わず手で覆った。


 早朝5時。蓮さんはまだ眠っている。私はバスルームを出て、熱いシャワーでダメなら次は濃いカフェインに頼ろうと、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かった。


 キッチンカウンターには、昨夜買ったマライカバブのテイクアウトの袋、その足元には私のエディターズバッグが置かれたままだ。


 テイクアウトを冷蔵庫に入れるついでに、ミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぐ。その時ふと、バッグから昨日広瀬さんに渡された、4枚のプロットの用紙が見えていることに気がついた。


 広瀬さんの声が蘇る。


 ――主人公の絶望を描くために何をすべきか、自分で考えて決めなさい――


 そうだった。


 両手で顔を覆い、天井を見上げる。昨夜、家に帰る時、こんなに幸せで絶望が描けるのかと思い悩んでいたのに……さらに幸せになってどうするんだ、私。


 私は冷たいグラスを握りしめたまま、ダイニングチェアに腰を下ろした。もう時間もない。今はシナリオに集中しなければならないときだ。私は覚悟を決めたはず……なのに。


 蓮さんの寝室に向かい、そっと覗き込む。彼は穏やかな寝息を立てて、静かに眠っていた。


 その瞬間、これまで感じたことのないほどの愛おしさが一気に押し寄せ、私は思わず後ずさってしまった。この感情に飲み込まれたら、私はどうにかなってしまうんじゃないかと、怖くなった。


 ――蓮さんが起きる前に、出ていこう。


 コーヒーは諦めて、私は荷物が置いてある主寝室へと向かった。デイバッグに着替えや日用品を詰めていく。意外とコンパクトに収まったのを見て、ラフな服で通勤できる会社でよかったと思った。


 用意が整ってから、またキッチンへ戻った。メモ用紙を前に、なんて書こうかと少し迷う。「旅に出ます」は違うし、「探さないでください」も心配かけるし、「お世話になりました」は絶対にダメだ……。


 結局、『冷蔵庫にマライカバブがあるので、食べてください。しばらく修行に出ます』と書いた。一度見直してから、「修行」にバツをして「修業」と書き直す。


 今の私の気持ち的には、悟りを求めて自己鍛錬を行う「修行」の方がぴったりな気がしたが、蓮さんへの置き手紙には、技術を磨くという意味の「修業」のほうがいいだろう。


 多分、普通の人はどっちでも気にしないだろうけれど、文字を紡いで生活をしている身としては、ちょっと気になる部分だ。


 書き置きだけを残して黙って出ていくことに、後ろめたさを感じていた。でも、このまま蓮さんと一緒にいたら、絶望なんて描けなくなりそうで、それが怖かった。


 家を出る前に、蓮さんを起こさないようにキスしたかったが、それも我慢した。脚本を書き終えて戻ってきたら、いくらでも――。


 ――いくらでも?


 急に、昨夜の蓮さんの言葉がよみがえった。夢のような時間が終わった後、まだ息が乱れたまま、彼が私の耳元でそっと囁いた言葉。


「ごめん」


 どうして謝るのだろう。小さな違和感を覚えながらも、その時は眠りに落ちてしまった。でも今になって、その言葉が鮮明に蘇ってくる。


 玄関で立ち尽くしながら、私は蓮さんの眠る寝室の方を見た。


 私は……またここに戻ってきていいんだよね、蓮さん?

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