「えっ?」
焼き立てのナンをちぎる手を止めて、友記子は眉を寄せて私を見た。
「今、何て言った?」
「だから、前に話してた婚約者が、エルネストEPの出雲さんなの」
友記子は少し考え込んでから、再度聞く。
「婚約者? 誰の?」
「だから、私の」
「……はい? ええっ?」
友記子は蓮さんと私の関係に、何度でも驚けるようだった。
仕事が終わってから、私たちは金曜の夜によく来るインド料理店にやってきた。なぜ金曜に利用することが多いのかというと、疲れていても、スパイスでリフレッシュして週末を楽しく過ごせる気分になるから。
今日はまだ月曜だけど、私には何らかのリフレッシュ要素が必要だったので、友記子にこの店を提案したのだ。
友記子が、さっきから何度も同じ質問をする気持ちはよく分かる。特に今日の蓮さんはビジネスモードで、この2カ月で彼を見慣れた私でも、蓮さんを雲の上の人のように感じてしまったくらいだ。
あのパリッとした蓮さんしか知らない友記子にしてみたら、彼が私の婚約者だと言われても、にわかには信じがたいだろう。
「この間、彼のお母さんに会いに行くって言ってたのは、あの人の?」
「うん」
フォークに刺したマライカバブを前に、友記子からの質問攻めで一向に口にできないでいる。
「あの人なら、詐欺じゃないだろうし、お母さんに会わせてくれたなら、遊びでもないだろうけど……」
そこまで言うと、友記子は私の前に身を乗り出して声をひそめた。
「まさか、薫、逆にあんたが彼を騙しているんじゃ……」
「そんなわけないでしょ」
私は呆れて、ついにマライカバブを口に入れた。タンドール窯の香ばしさとヨーグルトのまろやかさが相まって、とても美味しい。きっと蓮さんも好きな味だ。帰りにテイクアウトしよう。
「ごめんごめん、冗談だって」
友記子はようやく、ちぎったナンをほうれん草のカレーにつけた。
「でも、ハイスペってまさにあの人のためにあるような言葉じゃない。薫は……もっと穏やかでのんびりしてて、庶民的な人が好きなんだと思ってた」
私は曖昧に笑った。あの人はまさに、穏やかでのんびりしていて庶民的な人なのだと言っても、今はまだ信じてもらえないだろう。おいおい説明していけばいい。
「だけど、薫。シナリオのことだけど、チャンスを掴めてよかったね。薫はこれくらい大きな仕事に値するシナリオライターだって、私はずっと思ってたよ」
「ありがとう」私は答えた。長い間、一緒に仕事をしてきた友記子からそう言われると、何だか嬉しくて鼻の奥がツンとなる。
「それにしても、薫を7時間も会議室に監禁してたバリキャリの人、先生や出雲さんの前では優しそうに振る舞ってたけど、何かただならぬオーラを感じるんだよね……。薫、本当に大丈夫?」
私は思わず笑ってしまった。さすが、洞察力に優れた友記子、広瀬さんの本性を見抜いている。
「怖くて厳しくて冷徹だけど、今日、信頼できる人だと思ったの。だから大丈夫」
友記子は安心したように頷いて、ラガービールを自分のグラスに注いだ。
「それで、さっき話があるって言ってたの、何?」
私は飲んでいたラッシーのグラスをテーブルに置く。
「友記子、お願いがあるの」
そして姿勢を正して、友記子の顔を見る。
「しばらくの間、友記子の家に泊めてもらえませんか?」
テラスハウスに戻ったのは、22時を回ったころだった。こんな時間まで友記子と一緒にいて、お酒を飲まなかったのは初めてかもしれない。
バッグから玄関の鍵を取り出すとき、手に持ったビニール袋が音を立てた。蓮さんが喜んでくれるかなと思って、テイクアウト用に作ってもらったマライカバブだ。
これを注文したとき、ふと、「私は幸せだ」と実感した。
家に帰れば大好きな人がいて、きっとこのテイクアウトを喜んでくれる。蓮さんは多分、電子レンジではなく、オーブンでこれを温めるだろう。そして一口食べて「これ、すごく美味しい」と笑顔を見せる。
それからきっと、「ちょっと待って」と席を立ち、料理界のマッドサイエンティストらしく、キッチンからちょい足しの何か――半分にカットしたマイヤーレモンとか、ゆず胡椒とか、もしかしたらピスタチオペーストとか――を持ってくるのだ。まずは自分で一口試し、嬉しそうに笑いながら「これ絶対合うから、薫も試してみて」と言うだろう。
想像しただけで幸せがあふれてくる。胸が温かくなり、自然と笑みがこぼれた。
蓮さんにとって、私は恋愛対象じゃない。それでも、私はものすごく幸せだったし、今のままの幸せがずっと続けばいいとすら思っている。
――今の私は、絶望とは一番離れた場所にいる。
しばらくの間、彼から離れたとして、私の気持ちは変わるのだろうか? 狂いそうなほどの愛おしさとか、焦燥感とか、そういうものを感じることはできるのだろうか?
それに……彼には何て説明しよう?
正直に、「蓮さんのこと好きな気持ちをシナリオにぶつけたいから、自分に試練を与えるためにちょっと離れるね!」なんて言ったら、間違いなくドン引きされる。今、自分で考えていてもドン引きレベルだ。
まあ、シナリオに集中したいからとか言うのが妥当だろうな。
そんなことを考えながら、私は玄関のドアを開けた。
「ただいま」
奥のリビングのガラス戸から、灯りが漏れている。だけど返事はなく、物音もしない。
「蓮さん?」
リビングのドアを開けてみる。窓際に置かれた一人がけのソファで、蓮さんがワイシャツにネクタイのままで眠っているのが見えた。
スーツのジャケットは、バッグの上に置かれたままだ。蓮さんが着替えもせずに寝落ちなんて、珍しい。
今日の午前中はあんなに洗練されたスーツ姿だったのに、ネクタイを緩めようとしたのだろうか、今は襟元が少し乱れて色っぽい。なんだか、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
私はマライカバブをカウンターに置いてから、ソファの前に行き「蓮さん」と呼びかけた。よっぽど疲れているのだろうか、小さな寝息が聞こえてくる。
――そうだ、私は自分のことばかり考えていたけれど、考えてみれば蓮さんの方が大変な状況だ。
このタイミングで脚本を一からやり直しなんて、ただでさえ周りから嫌がられそうなのに、指名されたのは航よりさらに無名な私なのだ。各所に調整も必要になるのだろう。涼しい顔をしていたけれど、疲れが溜まっているのかもしれない。
眠っている蓮さんが、首を動かし、少し苦しそうに襟元を広げようとした。私はネクタイをゆるめてあげようと、彼の胸に触れた。
その時、蓮さんがゆっくりと目を開けた。まだ眠りの淵にいるようで、焦点が合っていない。
風邪引いちゃうよ、そう言おうとしたとき、蓮さんの腕が私の肩にまわり、強い力でぐっと自分の方に引き付けた。
彼の顔が急に近づいてきたかと思った瞬間、蓮さんの唇が私の唇に重なった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
……え?
驚きすぎて、目を見開いたまま何もできずにいる。これほど状況が理解できないのは、幼い頃に屋根から落ちたとき以来だ。
私の後頭部に回された手が、さらに力を増して抱きしめてくる。そして、蓮さんの熱い舌が、私の唇をこじ開けるように侵入してきた。
ゾクゾクするようなその感触に、私は我に返り、蓮さんの胸元のシャツをぎゅっと握りしめた。
突然、蓮さんがはっと目を見開き、私の肩を掴んで引き離した。「ごめんっ!」と、叫ぶように謝る。彼の息は乱れ、胸が上下しているのがわかった。
しばらくの間、私たちは言葉もなく、ただ肩で息をしたまま見つめ合った。静寂の中に鼓動が響き、どちらの心臓の音かさえもわからなくなっていた。
先に目をそらしたのは、蓮さんのほうだった。
「ごめん、こんなことするつもりじゃ……」
蓮さんが顔を背けた瞬間、少しクセのある前髪が揺れた。何度も触れたいと思っていた髪、そして頬――。
私はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「薫……?」
蓮さんが欲しい――もうその思いだけで頭がいっぱいだった。
気づけば、私は両手で彼の頬を包み、今度は自分から唇を重ねていた。