再び、黒塗りの高級車が静かにエントランス前に滑り込んだ。蓮さんと光沢スーツの彼はその前に立ち、私たちを振り返った。
「倉本さん。こちらのわがままで急な変更をお願いして申し訳ありません。あまり時間がなく恐縮ですが、よろしくお願いいたします」
蓮さんは、まるで申し訳なさや恐縮が感じられない、爽やかな口調で言った。今まで散々時間をかけたにもかかわらず、彼らを納得させられるものを作れなかったのはこちらの方で、しかもセカンドチャンスまでもらっているのだから、本来謝るべきは私たちのほうだろう。
先生も本部長も、そして航も、そのことを理解しているようで、皆が黙って頭を下げた。
広瀬さんは車には乗り込まず、私の隣に立っている。これから書くシナリオについて説明してくれるというが、以前会ったときの敵意むき出しの視線を思い出し、少し憂鬱な気持ちになった。
蓮さんは、私たちに目をやり、期待に満ちた顔でにっこりと微笑む。
「では、椿井さん。脚本を楽しみにしています。広瀬さん、椿井さんのこと、よろしくお願いします」
「もちろんです」
広瀬さんは笑顔で頷いた。まるで彼女が私の保護者になったような気分になる。車を見送った後、彼女は倉本先生に向かって声をかけた。
「倉本さん、椿井さんが現在抱えている案件はありますか?」
「ええ、連ドラを1本」
「それなら、すぐに他の方に引き継いでください。椿井さんには、この脚本に全力を注いでいただきますので」
脚本界の重鎮である倉本先生に対しても、有無を言わせぬ口調だ。普段、人から指示を受けることのない先生は、一瞬不快そうな顔をしたが、今の状況を考え直したのだろう、ぐっと言葉を呑み込んだ。
「それでは椿井さん。説明しますので、会議室に行きましょう」
会議室に入ると、さっきまでの出来事が嘘のように静まり返っていた。広瀬さんと私は、広いテーブルを挟んで向き合った。二人きりになってから、彼女は一言も言葉を発しない。空気は張り詰め、なんとも気まずい沈黙が重くのしかかる。
「ねぇ、あなたさ」
広瀬さんの言葉遣いが、急にぞんざいになる。ひと目でハイブランドとわかるエディターズバッグから書類の束を取り出し、広瀬さんは気だるそうに言った。
「結局、出雲くんとどういう関係なの?」
「どうって……」
不意を突かれた私は、困惑して眉をひそめた。これから話すのはビジネスのことだよね? ガールズトークじゃないよね?
「その質問にお答えする必要はないと思います」
もっと強い言葉で、彼女の質問を跳ね返すべきだったかもしれない。だけど、この案件を進められるかどうかは、広瀬さんの協力にかかっているのは明らかだった。彼女の力なしでは、この大きなプロジェクトを切り抜けるのは難しいだろう。
私は、彼女に最低限の不快感を伝えるにとどめることにした。この話題を避けたいことが伝わればそれでいい。だけど広瀬さんは、まるで値踏みをするような冷たい視線を私に投げかけ続けた。
「……今回のテーマは、愛する人との別れよ。ある女性には愛する婚約者がいたけど、その彼が突然難病に侵される。彼女の夢を諦めさせたくない彼は、病気を打ち明けずに、彼女を振る。その彼女の絶望と再生を描くのが、あなたの仕事」
絶望と、再生……。
どう返事をすればいいのか分からず、私は眼の前に置いたノートをじっと見つめた。再生なら、わかる気がする。だけど、深い絶望からの再生なら、そもそも絶望の深さを描かなければ、再生も描けない。
愛する人から、何の前触れもなく別れを告げられる。その痛みを想像することもできる。諦めきれないだろう。何日も眠れない夜を過ごすだろう。でも……。
「あなた、そんな情熱的な恋、したことがあるの?」
広瀬さんの冷たい声が、まるで鋭いナイフのように突き刺さる。
蓮さんのことは好きだ。大好き……だと思っている。でも、彼と一緒にいるときの気持ちは、まるでひだまりに包まれているときのように、穏やかで心地いいものだ。名前をつけるとすれば、それは「燃え上がる情熱」というよりも、「優しい温もり」。
確かに今日、蓮さんが少し距離を置いているように感じて、不安が胸をかすめた。でも、たとえ彼が私に恋愛感情を持っていなくても、1年間一緒に暮らすという約束は守ってくれると信じている。そして今の私は、それでも十分だと思っていた。彼が私の気持ちに応えてくれなくても、期間限定でも……蓮さんと一緒にいられればそれでいいと。
……私に、この主人公の絶望が書けるのだろうか?
「何を考え込んでいるの? そんな余裕はもうないのよ。まずはプロットから始めなさい。思いつく限り書くのよ」
広瀬さんの声は冷徹そのもので、私を突き放すように響く。私は思わず顔を上げた。
「安斎が仕上げたプロットを使うのではないんですか?」
彼女は目を細め、口元に軽蔑の笑みを浮かべた。
「他人が書いたプロットを焼き直ししたいの? ガッカリだわ」
その言葉は、まるで雷のように私の胸に突き刺さった。そうだ、縮こまっている場合じゃない。蓮さんが待っていると言ったのはきっと、私が一から作り上げた脚本だ。
時間がないのだから、走りながら考えるしかない。私はラップトップを広げて、広瀬さんをまっすぐ見据えた。
「やります。広瀬さん、お付き合いください」
広瀬さんは、長い脚を組み替え、椅子に深くもたれた。
「当たり前よ。脳が空っぽになるまでアイデアをだしてもらうから」
日が次第に傾き、会議室の窓から差し込む光がオレンジ色に染まっていく。私は無言でキーボードに向かい、ひたすらプロットのアイデア出しを続けた。一つ書き終えるごとに印刷し、広瀬さんの元へ持っていく。しかし、彼女はその紙に目を走らせると、何も言わず無造作に丸め、ゴミ箱へと放り投げる。
いくつのアイデアが、こうして投げ捨てられただろう。広瀬さんの視線は緩むことなく、私に次のアイデアを求めてくる。まるで、弱った草食動物を狙うコヨーテのように、鋭い目を光らせて。
「……エルネストEPはホワイト企業だから、そんなパワハラみたいなことはしないと思っていました」
13枚目の出力が投げ捨てられたとき、つい、我慢できずに口に出してしまった。広瀬さんは鼻で笑った。
「うちのホワイトな部分は、安斎さんが全部食い尽くしたわ。あなたにはもう、時間も甘いサポートも残されてないの。無駄口叩いてないでさっさと書きなさい」
鋭い言葉が刺さる。私は深く息を吐いて、再びパソコンに向かい直した。
16番目のアイデアを出した時、広瀬さんは初めてそれを手元に残した。彼女の表情に変化はなく、もちろん何も言わない。私も何も言わず、再びキーボードに手を置いた。
プロット出しを始めてから、もう7時間以上が過ぎていた。ゴミ箱の周りには、無言で却下されたプロットが山のように積み上がり、まるで墓場のようだった。広瀬さんの手元には、4枚の紙が残されている。
時計の針が18時30分を指したとき、広瀬さんは静かに立ち上がり、残された4枚の紙を私の前に置いた。
画面を長時間見つめすぎて、目がヒリヒリと痛み、いつの間にか呼吸も浅くなっている。脳は限界を超えたようにぼんやりとしていた。
「この中から選んで、さらにブラッシュアップしなさい」
ぼんやりとした視界の中、私は彼女を見上げた。
「……終わった……?」
「勘違いしないで。満足なんてしていないから。これから合コンがあるから帰るだけよ」
ハイヒールの音を響かせながら、広瀬さんは会議室のドアへと向かった。ドアの前で一度だけ振り返り、冷たい声で告げる。
「主人公の絶望を描くために何をすべきか、自分で考えて決めなさい」
彼女が去り、会議室には静寂が戻った。私は一人、席に残されたまま、ふと気づいて愕然とする。
この7時間、彼女は一度も私から目をそらさなかった。スマホさえ見ることなく、ただひたすら私を見つめ、監視し、極限までのプレッシャーを与え続けていたのだ。
「……広瀬さん、プロフェッショナルだ」
自然と乾いた笑いが込み上げてきた。あの人も、覚悟が決まっている。
会議室を出てほっと息をついた私の前に、友記子が小走りで近づいてきた。彼女は心配そうに私を見つめながら、マグカップを差し出す。中には、私が疲れたときの定番のほうじ茶が、たっぷり注がれていた。
「薫、大丈夫?」
彼女の優しい声に、私は腫れぼったくなった目をこすりながら、微笑んで答えた。
「ありがとう。疲れたけど、大丈夫だよ」
「お昼も食べてないよね? 今日はもう帰れるんでしょう? ご飯食べに行こうよ」
私は頷いた。広瀬さんが去った後、しばらく考えて、あることで友記子に協力をお願いすることに決めていた。書いている間は緊張のあまり気づかなかったが、お腹はかなりペコペコだ。
帰り支度をしようとデスクに戻ると、後ろから「薫」と静かな声が聞こえた。振り返ると、そこには航が立っていた。
「……さっきはありがとう」
一瞬、何のことかわからなかったが、すぐに思い出した。『田舎の生活』を書いたのは自分ではないと宣言したことだろう。ついさっきのことなのに、まるで何日も経ったかのように遠く感じる。
「いいよ、そんなこと。それより……」
航だけに聞こえるように、声をひそめる。
「……出雲さんって、仕事ではいつもあんな感じなの?」
航は少し不思議そうな表情を浮かべ、答えた。
「ああ、そうだよ。堂々としていて、礼儀正しくて、厳しい」
なるほど。前に航が、「出雲さんに弄ばれて捨てられるだけだ」と言ったのは、あのビジネスモードの蓮さんしか知らなかったからか……。確かにあの強気な蓮さんなら、そう誤解されても仕方ないかも。
「薫……本当にごめん。時間も全然ないし、何か俺にできることがあったら……」
「大丈夫」私は即答した。「豪雪地帯育ちの人間は、強いんだから」
それに、今の私には覚悟がある。
もう迷わない。やるべきことは、もう決まっていた。