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第32話

 スタジオ・マンサニージャは、倉本先生率いる少数精鋭のクリエイターが売りのシナリオ事務所だ。なので、会議室は7、8人が入ればいっぱいになってしまうほどの広さしかなかった。そこに、エルネスト・エンタープライズの3人と、倉本先生、営業部長、航、そしてなぜか、私を含めた制作部の5人まで集められた。


 人数分のチェアがなかったので、普段は玄関に置かれているアンティークのベンチが会議室に運び込まれた。私たち下っ端は、そのベンチに腰掛ける。


 蓮さんたちは、会議室の一番奥にあるミーティングチェアに、ゆったりと腰を下ろした。スーツ姿の蓮さんは毎日見ているが、こうして本格的なビジネスモードの彼を見るのは初めてだった。


 すらりとした長身に完璧にフィットしたスーツと、自信に満ちた佇まい。その姿は、まさに洗練されたビジネスパーソンそのものだ。私は普段とは違う彼に、何だかドキドキした。


 蓮さんの後ろに控えているのは、以前スーパーで会ったことのある女性、広瀬さん。そしてもう一人、シルクが混ざった光沢のあるスーツを着こなした、蓮さんと同世代くらいの男性だった。


「出雲さん、今日はわざわざお越しくださりありがとうございます」


 倉本先生が満面の笑みで言うと、蓮さんは穏やかに口角を上げ、品のある軽い会釈を返した。その所作には一切の無駄がなく、堂々としている。私の知っている、穏やかで優しく、のんびりとした蓮さんとは、まるで別人のようだった。


 ……本当に蓮さん?


 信じられない気持ちで見つめていたら、ちょうど蓮さんと目が合った。しかし、彼はすぐに視線を逸らす。まるで知らない人みたいに。


 私はうつむいた。――やっぱり、避けられてるのかも。


「制作部の皆さんも、このミーティングに参加されるのですか?」


 蓮さんの隣に立つ、光沢のあるスーツを着た男性が尋ねた。倉本先生は満面の笑みを崩さず「ええ、制作部のみんなにも、エルネスト・エンタープライズさんの仕事の仕方を学んでもらいたいですからね」と、誇らしげに答える。


 航は倉本先生たちとともにテーブル席に座っていたが、緊張のせいか青ざめて見えた。


 その時、扉が静かに開き、友記子と青木くんがコーヒーを持って入ってきた。エルネストEP組の前に丁寧にカップを並べる。蓮さんが小さく「ありがとう」というのが聞こえた。


 青木くんはすぐに退室したが、友記子は私の隣に腰を下ろした。どうやら彼女も、航のシナリオがどのように評価されるのか気になっているようだ。


 蓮さんは連れの二人と一瞬視線を交わし、それから倉本先生の方を向いた。


「安斎さん、倉本さん。素晴らしいドラフトをありがとうございます」


 先生はホクホクとした顔で頷く。蓮さんは一瞬の間を置き、それから航と倉本先生の顔を交互に見ながら言った。


「大変興味深く拝見し、通常のドラマとして完成度の高い作品だと感じました。しかしながらこのドラフトは、私たちの求めるクオリティには達していないと判断させていただきました」


 普段の穏やかな声からは想像もできない力強さで、蓮さんは言った。部屋の空気が一変し、全員が息を呑むのがわかった。


「……それは、どういう意味ですか?」


 先生の問いに、今度は広瀬さんが冷ややかに答える。


「不採用、ということです」


 先生と部長は、驚きのあまり言葉を失い、慌てて立ち上がった。航はまるですべてを悟ったかのように肩を落とし、深く俯いた。


 ――やっぱり、だめだったか。私は視線を伏せた。


 航が必死に書いた脚本が認められなかったことに、がっかりしている自分がいて、私は驚いた。……こんなときに「ざまぁ」と思えるくらい憎めていたら、私はもっと楽だったんだろうな。


「ちょ、ちょっとあなたたち、すぐにオフィスへ戻りなさい!」


 倉本先生は、まるで制作部が勝手に入り込んだかのように、私たちを追い出そうとした。私も立ち上がり、ドアへと向かおうとしたそのとき――。


「椿井さんは残ってください」


 澄んだ声が響き、振り返ると、蓮さんが真っすぐな瞳で私を見ていた。その声に名前を呼ばれたことは数え切れないほどあるが、名字で呼ばれたのは初めてかもしれない。


 なぜ私だけ……。一瞬不思議に思ったが、その理由はすぐに思い当たった。


 まさか……。


 制作部と一緒に去ろうとしていた友記子も足を止め、心配そうな顔で私を見る。私は友記子に頷いてみせた。大丈夫、なんとか生還するから!


「どういうことですか? 椿井は今回の案件には関わっていませんが」


 制作部と友記子が退室したあと、先生は声を荒げて言った。シナリオが不採用になったことが、よほどショックだったのだろう。


 蓮さんはテーブルに肘を付き、長い指を組み合わせた。これはいつもの彼のクセだが、今、彼が纏っている雰囲気は、私が知っている蓮さんのそれとは確実に違っていた。


 私たちはしばらくの間、お互いが何を考えているのか探るように、黙ったまま視線を交わした。


 ……それにしても困ったことに、強気な蓮さんがあまりにも魅惑的に見える。自信に満ちた彼から目を離すことができない。


 沈黙を破ったのは、蓮さんの衝撃的な一言だった。


「椿井さん。『田舎の生活』を書いたのはあなたですね」


「……なっ!」


 先生と部長が声にならない叫びを上げ、立ち上がった。航は両手で顔を覆う。まるで「おしまいだ」とでも言うかのように。


 私は俯き、手をぎゅっと握りしめた。どう答えればいい?


「『田舎の生活』を書いたのは安斎です。どうして、椿井だと!?」


 先生はヒステリックに叫んだが、蓮さんは落ち着いた表情で答える。


「先週の水曜日、椿井さんの幼馴染である川島亮さんが東京にいらっしゃる機会があり、昼食をご一緒しました。その際、椿井さんが2年にわたり同級生に取材してきた内容について詳しくお話をうかがい、確信にいたりました」


 水曜……あの飲み会の3日後、亮くんは東京に来ていたのか。……亮くん、せめて私も一緒に誘ってくれれば、ごまかせたのに!


 私と蓮さんの関係を知らない先生と部長は、「カワシマ?」「幼馴染?」と言いながら顔を見合わせている。カワシマが誰かは分からないけれど、私が取材したネタが『田舎の生活』で使われていたということは理解したようだ。


 そのとき、没を出された脚本を握りしめる航の姿が目に入った。痛みに耐えるかようなその横顔を見て……身から出たサビだと思いながらも、胸が痛んだ。


 ……ああもう。そんな顔をされたら、肯定なんてできるわけないじゃん!


 私は顔を上げ、蓮さんをまっすぐ見据えてはっきりと答えた。


「違います」


 私は嘘は苦手だ。だから、余計な嘘を重ねるのではなく、ひとつの嘘を押し通すしかない。


 緊張で眉間にしわが寄るのが、自分でもわかった。念を押すように、もう一度繰り返す。


「あれを書いたのは、私ではありません」


 このことで航の将来を潰してしまうのは耐えられない。彼は確かに脚本家として罪を犯したけれど、『田舎の生活』が原因で航に脚本を辞めさせるのだけは、どうしても嫌だった。


 蓮さんは、すべてを見透かすかのように目を細め、口元に僅かな笑みを浮かべた。……余裕の表情。彼は状況を把握している。私が必死で嘘をついていることも、きっとお見通しだろう。


 そして……こんな場面でも、蓮さんに見つめられるとドキドキして、呼吸の仕方を忘れそうになる。ああ、恋ってやっかいだ。


 私たちの間に緊張が漂った。しばらくして、蓮さんはふっとその緊張を解き、口元に穏やかな笑みを浮かべた。


「わかりました。椿井さん。では、こちらの考えをお伝えしましょう」


 蓮さんは身を乗り出し、テーブルの上で両手を組んだ。


「もし、御社が再度のチャンスを望まれるのであれば……あなたをメインのシナリオライターとして、チームに迎え入れることを条件とさせていただきます」


 驚いて顔を上げると、蓮さんの視線が真っすぐに私を捉えた。彼の瞳は、挑戦を楽しんでいるかのように輝き、口元には控えめながらも自信に満ちた笑みが浮かんでいる。こんなに好戦的な表情の彼を見るのは、これが初めてだ。


「あなたが『田舎の生活』を書いていようがいまいが、どちらでも構いません。重要なのはこの後です。あなたがメインライターを引き受けるなら、この案件は引き続き、御社にお任せします。ただし、時間の猶予はもうありませんが」


 部屋の空気が凍りついたように静まり返った。先生と部長は、固唾をのんで私の返事を待っている。自分の鼓動がやけに大きく響き、緊張で息が詰まりそうだった。


 そんな私を見て、蓮さんは続けた。


「我々は、この案件に大きな期待を寄せています。――椿井さん、あなたが今ここで決めてください。お引き受けいただけますか?」


 ――この人は、私にわざとプレッシャーをかけている。


 自信なんて、これっぽっちもない。脚本に苦しんでいた航を見て、自分が脚本を任されなかったことに安堵していたくらいだ。


 自分の限界を知るのが怖くて、私はずっと逃げていた。誰かに期待され、それに応えられなかったときの失望の眼差しが――それが何よりも怖かった。


 だけど、蓮さん。あなたがそう言うのなら――。


 私の中で、何かがカチリと音を立てて動いた。蓮さんと出会って、覚悟を決めるのは何度目だろう。


 ――やってやろうじゃないの。


つつしんで、お受けいたします」


 蓮さんの唇に、「そう来なくちゃ」と言わんばかりの満足げな笑みが浮かぶ。それから彼は私をじっと見つめ、小さく2回頷いた。


 その時の彼の視線は……私が好きになった、いつもの蓮さんのものだった。

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