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第31話

 大磯の別荘を訪問した翌日の月曜の朝、私は主寝室のベッドで目を覚ました。――ひとりで。


 海沿いの駐車場で久しぶりに泣きじゃくったせいか、昨夜は妙にすっきりとした疲労感に包まれて、帰りの車内で私は泥のように眠りこけてしまったのだ。


 家に着いた時のことは、おぼろげに覚えている。蓮さんは家の前に車を停め、玄関のドアを開けてから、私を抱き上げようとした。その振動で目を覚ました私は、「自分で歩ける……」と彼の手から逃れた。


 私は身長があって骨太だから見た目よりも重い。それがバレるのが嫌なので、抱き上げられるのは……ちょっと困るのだ。だけど、家の中に入ったところで記憶はまた途切れてしまった。


 そして朝になり、私は最近使っていなかった主寝室のベッドで、ひとりで目を覚ました。けたたましい電子音がするのでサイドテーブルに目をやると、スマホのアラームが午前7時を知らせていた。


 ベッドには清潔なシーツが敷かれており、ブランケットと羽布団も冬仕様のものが掛かっていた。あれから蓮さんがシーツを敷いてくれたのだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 まさか、また――。


 私はシーツを持ち上げて、恐る恐る自分の服を確認した。だけど、以前のように下着姿ではなく、昨日着た服のままだった。せっかく友記子とユリさんに選んでもらった服が、しわくちゃで悲しい状態になっていた。


 何だか無視できない違和感を抱きながら、私は主寝室を後にした。昨日、あんなに蓮さんを近くに感じた後なので、彼に会うのは少し気恥ずかしい。


 だけど部屋から出てみると、家の中は静まり返っていた。隣の蓮さんの部屋のドアは、いつも彼が不在の時そうしているように、全開になっている。中には誰もいない。


 キッチンのカウンターには1枚のメモが置かれている。手に取って見ると、蓮さんらしい角張った丁寧な文字が並んでいた。


――MTGミーティングがあるので先に出ます。パン、スープ、サラダは作り置きがあるので、適当に食べてください。これからしばらくの間、仕事が忙しくなり、帰りの時間も不規則になります。しばらくは主寝室を使ってください――


 ……これ、業務連絡?


 いやに他人行儀なメモを見ながら、「別々に寝ようってことか」と、ひとり呟いた。


 昨晩、静かな波の音を聞きながら蓮さんを抱きしめた感触。それはまだ、私の両腕に鮮明に残っていた。私が抱きしめたよりも強い力で、彼は私を抱き返した。蓮さんの体温と心臓の鼓動を思い出して、体が熱くなる。


 あんなに近くに感じて、蓮さんのことを今までよりも理解できたと思ったのに――。


 私の中で違和感が大きくなってくる。シャワーを浴びても、コーヒーを飲んでも、心の中のモヤモヤは消えなかった。いくら打ち消そうとしても、ひとつの可能性に行き着いてしまうのだ。


 もしかして……私、蓮さんに距離を置かれている?


 その考えが頭をよぎった瞬間、心がきゅっと締め付けられた。別々のベッドを用意してくれたのも、ビジネスライクなメモを残したのも、……今回は服を脱がさなかったのも、私にこれ以上近づかないようにしているから、だろうか?


 私は名探偵が推理をまとめるようなポーズをしてみた。腕を組み、顎に手を添えて、考えを整理してみる。うん、頭が冴えてきた気がするぞ。私の推理によると――。


 ……蓮さんは、私に変な期待を持たせたくないと考えてる。


 天井を仰いだ。全身の力が抜けたようになる。


 長野へ行ったこと、蓮さんのお母さんに会ったこと、――そして昨日の海でのこと。この1週間ちょっとの時間で、彼を近くに感じられたと思っていたのは、私だけだったのだろうか? もしかしたら彼は――近づきすぎたとか、知られすぎたとか、思っているのだろうか?


 私はダイニングチェアから立ち上がった。そろそろ会社に行く時間だ。とりあえず、気持ちを切り替えよう。行くべき職場があり、やらなければならない仕事があるのは、今はとってもありがたい。


 会社に行くことで救われると思ったのは――多分これが初めてだった。



 スタジオ・マンサニージャではフレックスタイム制が採用されている。ただし、午前中に出社していないと先生の機嫌が悪くなるため、午前11時にはほぼすべての社員が揃っている。もちろん私たち制作部は、それ以前に出社していないと、そもそも仕事が間に合わないのだけれど。


 友記子はすでに出社していた。エントランスで私を見つけた途端、ロックオンして満面の笑みで近づいて来たので、私は思わず踵を返して逃げそうになった。だけどそれより早く、彼女は私の両肩を捕まえた。


「か・お・る・ちゃ〜ん。週末はどうだった?」


 ハッピーな報告しか思い浮かべていない顔だ。私は目をそらしながら、「うーん、どうだったっけ。ほら、最近私、記憶が短いから……」と言葉を濁した。


 それだけで友記子は何かを察したようだった。急に真剣な顔になって、「薫、何かあった?」と目を覗き込んでくる。私は笑いながら、さり気なく彼女の眉あたりに視線を置いた。今、彼女の目を見たら、今日1日を強く過ごせなくなるかもしれないから。


 今作業しているのは、新しい恋愛ドラマの幸せいっぱいなシーン。私はそのシナリオを、自分自身も幸せな気分で描たいと思っているのだ。


「まさか……やっぱり詐欺……」


 私は笑って、「それはないから」と言った。よし、一度笑っちゃえば、今日は乗り切れる。


「メイクと服はとても素敵だったよ。彼も、彼のお母さんも喜んでくれた。ありがとう、友記子。仕事が落ち着いたら話すから、またご飯に行こう」


 そう言って席に戻ろうとしたその時、にわかにエントランスが騒がしくなった。黒塗りの高級車が横付けされ、倉本先生と営業部長、そして航がそちらへ走って行くのが見えた。


「何、どうしたの?」


 友記子に聞いたが、彼女も知らないというジェスチャーで首を振る。倉本先生がコモンルームにいた青木くんを捕まえて耳元で何かをつぶやき、彼は大急ぎで私たちのほうへやってきた。


「椿井さん、先生が、制作部は後で全員打ち合わせ室に来てもらうけど、指示があるまでとりあえずオフィス内にいろとのことっす。村杉さんと僕は、お客様のために一番いい豆でコーヒーを準備するようにって言われました」


 オフィス内に緊張が走る中、エントランスの向こうで黒塗りの車が走り去るのが見えた。先ほど車から下りてきたとおぼしき3人が、先生と部長の案内で、こちらへ向かってくる。


 一瞬、社内が――特に女子社員たちが――色めき立った。


 3人の先頭に立つ、チャコールグレーのスーツをまとったその男性は、まるで風を切るように力強く歩いてきた。背筋はまっすぐに伸び、軽やかで無駄のない動きには自信と余裕が溢れ、洗練された雰囲気を漂わせている。


 一瞬で静まり返ったフロアに、靴音が響き渡る。彼の一挙一動は、その場にいる全員の視線を釘付けにしていた。まるで――時間がゆっくりと流れているかのようだった。


「うゎ……俳優さん? 誰、かっこよすぎる!」


 友記子が耳打ちしてきたが、その声すらも遠くに聞こえた。私は息を飲み、彼の姿に釘付けになっていた。


 スーツがぴったりとフィットした長身の体躯、彫刻のように整った顔立ち、そしてその目には……見たことがないような、強い自信が宿っている。


 蓮さん……ユーはどうして私の職場へ?

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