海沿いの国道をしばらく走り、海に臨む駐車場に車を停めた。ドアを開けた瞬間、冷たい風とともに、潮の香りが一気に車内に満ちた。辺りは静かで、規則正しい波の音だけが響いている。

　月のない夜だった。

　駐車場には心もとないオレンジ色の光を灯す古い街灯しかない。海は暗くて見えなかったけれど、波の音から察するに、浜辺はすぐ近いようだった。

「寒い？」

　蓮さんが尋ねた。

「コートを着ているから、大丈夫」

　蓮さんは頷いて、街灯横のベンチに腰掛けた。そして自分のコートを脱いで、隣のスペースに敷く。

「ここどうぞ」

「いいよ、蓮さんのコートが汚れちゃう」

「せっかく薫がおしゃれして来てくれたのに、汚せないよ」

「――あはは、今日おしゃれしてるの、蓮さん気づいてないかと思ってた」

　卑屈に聞こえないように、わたしは笑いながら言った。蓮さんはわたしの手を取って、自分のコートの上に座らせてくれた。

「気づいてないわけないよ。言葉が出なかっただけだ……きれいで」

　最後の方は消え入りそうな声で、蓮さんは言った。驚いて蓮さんのほうを見ると、彼は耳まで赤くなり、視線をそらして横を向いた。

　しばらく無言のまま、ただ座っていた。潮風が髪を揺らす。規則的に押し寄せる波の音だけが、この世界の唯一の音なんじゃないか――そう感じるほどの静けさだった。

　沈黙を破ったのはわたしの方だった。今日の出来事を思い出していたら、自然と伝えたい言葉が見つかった。

「蓮さんのお母さん、とっても素敵な人だった」

　彼が、静かに息を吐く音が聞こえた。

「薫、聞いてほしいことがあるんだ。――母のことで」

　蓮さんの方を向く。憂いを帯びた蓮さんの視線とぶつかった。わたしは思い切って尋ねた。

「蓮さん、もしかして……あの人は継母で、禁断の恋人なの？」

　蓮さんが驚いたように目を見開く。そして次の瞬間、弾けたように笑い出した。

「ちょっと……！ 人が真剣に聞いてるのに」

　笑い涙を拭いながら、「薫の想像力……本当にすごいな」と、とぎれとぎれに言う。

「あの人は僕の本当の母親で間違いないよ。……あー、なんか吹っ切れた」

　蓮さんが大笑いしたことで、わたしたちの間の空気は、さっきよりも軽くなった。そして、それに背中を押されたかのように、蓮さんは言った。

「母は……アルコール依存症なんだ」

　その声は、かすかに震えていた。静かな波音だけが響き渡り、時間が止まったかのようだ。

　わたしはただ、凍りついたように蓮さんを見つめた。

「アルコール……依存症？」

「そう……今は断酒できているけどね。一番ひどかったのは、僕が高校生から大学卒業にかけての頃」

　蓮さんは、視線を海に戻す。

「最初は、隠れて飲んでいたらしいんだ。旧家に嫁いだ重圧と、僕たち3人きょうだいの子育てが重なったうえ、父は仕事で全然家にいなかった。そんな中で、母さんはこっそり飲み続けて、周りが気づいたときには……本人の意思ではコントロールできないところまで来てしまっていた」

　そこまで話すと、蓮さんは言葉を止めた。唇がかすかに震えている。海風に吹かれるその横顔は、これまで見たことがないほど孤独に感じられた。

「僕たちに悪い影響があると言って、父は母さんを大磯の別荘へ住まわせた。お手伝いさんもつけてね。でも……母さんはそこでも飲み続けていた。しかも、料理をしなきゃって包丁や熱湯を使って……本当に危なっかしかったんだ」

　蓮さんがわたしを見た。その瞳の奥に見え隠れする悲しみが、わたしに重くのしかかる。

「僕が就職してすぐの頃、母さんの様子を見に行ったんだ。でも、またひどく酔っていてね。それでも、僕が来たことを喜んで、僕が好きだった煮物を作ってあげると言いながら、震えている手で包丁を握ったんだ。それがあまりに危なっかしくて、包丁を取り上げようとしたら振り払われて……この通り」

　蓮さんはセーターとシャツをめくり、脇腹を見せた。そこには、刃物で深く切られた傷跡が残っていた。古い傷だったが、見た瞬間にその深さと痛々しさが伝わってきた。

　思わず息を呑むわたしに、蓮さんは聞いた。

「驚いた？」

　……驚きを通り越していた。蓮さんは、幸せな家庭で何不自由なく、大切に育てられたのだと思い込んでいた。

　それが、こんなにも浅はかな思い込みだったなんて……。わたしは無知な自分を責めたくなった。

「母さんも、事故とはいえ、僕を怪我させたことが相当ショックだったみたいでね。それから、病院やいろいろな人の助けを借りて、ようやく断酒することができたんだ」

　一筋の希望を感じて、「今はもう治ったの？」と尋ねた。蓮さんは静かに首を振る。

「アルコール依存症は、回復はできても、完治はしない病気と言われている。どんなに長く断酒していても、たった一口のビールでまたコントロールが効かなくなる……そんな病気なんだよ」

　遠くを見ていた目をゆっくりわたしに戻して、蓮さんは微笑む。

「つまり、母さんは今でもアルコール依存症で、断酒し続けるしかないんだ」

　わたしは、これまで蓮さんと過ごした時間を振り返った。昔は人並みに飲んでいたと話していたけれど、今は全くお酒から離れていた蓮さん。その裏側にはきっと――お母さんに断酒し続けてほしいという願いがあったんだろう。

　しばらく沈黙が続いた。潮の香りが濃くなり、海から聞こえる波の音が大きくなった気がする。

　どれだけ時間が流れただろうか。蓮さんがおもむろに口を開いた。

「薫と始めて出会った日」

　わたしは蓮さんを見た。

「もう何年も断酒していた母が、スリップ――再飲酒してしまったんだ」

　蓮さんの瞳は、真っ暗な海を見つめ続けている。

「大磯の別荘地で友達ができて、ホームパーティのワイン会に誘われたんだ。母は飲まないつもりだったらしいけど、テイスティングくらいならと言われて……。でも、一口でも飲んだら、止まるわけがなかった」

　涙をこらえるように空を見上げ、言葉を続ける。

「気づいたら、友人の家で泥酔して、余ったお酒を大量に持ち帰って……全て飲み干して、リビングの床で眠っていたそうだ」

　わたしは唇を噛んで、ただ蓮さんの言葉を聞いていた。

「お手伝いさんから、母がまた飲んだと聞かされて……。あの日の僕には、絶望しかなかった。そんな時、駅で女の子が酔っぱらいに絡まれているのを見かけて、助けなきゃって思った。でも、僕より早く……君が間に入ったんだよ」

　その瞬間、出会ったときの蓮さんの氷のように冷たい視線が鮮明に蘇った。

　一緒に暮らし始めてからの彼は穏やかで温かい人だったから、すっかり忘れていた。だけどそうだ、あの日の蓮さんは、すべての感情を押し殺して、他人を拒絶するかのような、冷たい瞳をしていた。

「スリップしてしまうのは、母さん自身の問題であって、僕がどうこうできるものじゃない。母さんがまた飲まないように見張るなんて、間違えた対応なんだ。でも、今でも彼女がひとりでパントリーに行くと、不安になってしまう。――ひとりで飲んで、何事もなかったように戻って来るんじゃないかって」

　だからさっき、蓮さんはお母さんに顔を近づけていたのか。……お酒を飲んでいないか、確かめるために。

　蓮さんの手が、そっとわたしの頬に触れた。

「薫が泣くことじゃない」

　そのとき初めて、わたしは自分が泣いていることに気がついた。

「ごめん、蓮さん。泣きたいのは蓮さんの方なのに……」

　蓮さんは優しく微笑んで、わたしを包むように見つめた。思わず両手を伸ばし、口を開いた。

「蓮さん……抱きしめてもいい？」

　わたしが言い終わる前に、蓮さんの両腕がわたしを強く引き寄せた。わたしの髪に、蓮さんが頬をうずめる。蓮さんの不安や傷が少しでも癒えるように、わたしも力いっぱい抱きしめ返した。

　どれくらいそうしていただろう。気づけば風は静まり、海も静かになっていた。蓮さんの腕の力が少し緩み、わたしはそっと彼の胸から顔を上げた。

　彼の頬にも、涙の跡が残っている。わたしは手を伸ばし、その涙をそっと拭ってあげた。

「ありがとう。……おばあちゃんが言ってたんだ、薫なら全部受け止めてくれるって」

　一瞬、何のことかわからなかったけれど、すぐに思い出した。長野の最終日、蓮さんがおばあちゃんにドナドナされた日だ。だけど……。

「なんで、おばあちゃんが……？」

　蓮さんはわたしの頬を両手で包んで、顔を近づけてきた。こんな時でも彼が近づくと、わたしの心臓は相変わらず早くなる。

「薫にこの話をしてほしいって、おばあちゃんから言われたんだ。よく聞いて」

　深い色の瞳を見つめて、わたしは頷いた。

「おばあちゃんも、僕と同じ……アルコール依存症の家族だったんだ」

　一瞬、頭が真っ白になった。

「それ……どういうこと？」

「おばあちゃんの旦那さん、つまり薫のおじいちゃんも、僕の母さんと同じ病気だったんだ」

　それから蓮さんは、あの日、おばあちゃんに聞いた話を教えてくれた。

　おじいちゃんは40代で事業に失敗し、借金をかかえ、大量の酒を飲んで家で暴れるようになった。おばあちゃんは何年も苦しんだ末、家族を守るために別居を決意した。みんなが出て行き、ひとりきりになったおじいちゃんは、やっと断酒を決意した。でも、その頃にはもう重度の肝硬変で……53歳で亡くなったそうだ。

「最期は断酒を続けられたから、家族ともまた繋がりを取り戻せたそうだ。小さかった薫のことも、すごく可愛がっていたらしいよ。……だから、薫、おじいちゃんは決して孤独の中で亡くなったわけじゃないから」

　わたしは放心したまま、蓮さんの話を聞いていた。

「薫はおじいちゃんのことをほとんど覚えていないから、今まで言うタイミングがなかったと言ってた。でも、おばあちゃんは僕の状況を察してくれて……。それで、この話を君にしてあげてと言われた」

　蓮さんは、とても悲しそうな目をしていた。

「ごめん……。おじいちゃんのこんな話、聞きたくなかった……？」

　その時、耳元でおばあちゃんの声が聞こえたような気がした。

「薫、おじいちゃんみたいないい男はなかなかいないよ」

「おじいちゃんに勝てるのは、アラン・ドロンくらいだね」

「死ぬこと？ そんなの怖いわけないよ。だって、おじいちゃんがあっちで待っててくれてるから」

　おばあちゃん……。

「聞けてよかった」

　そう呟いて、わたしは顔を覆って泣き崩れた。蓮さんは何も言わずに、ただわたしの肩を抱いていてくれた。

　涙が枯れるくらい泣いて、ようやく顔を上げた。そこには、いつものように優しく穏やかな蓮さんの視線があった。

「大丈夫？」

「うん、大丈夫。でも……」

　蓮さんはポケットからハンカチを取り出し、わたしの頬をそっと拭ってくれた。

「でも？」

「今すぐ、おばあちゃんを抱きしめてあげたい」

　蓮さんはわたしの肩を優しく撫でながら、「おばあちゃんが言った通りだ」と微笑んだ。

「薫は絶対にそう言うだろうから、代わりに……代わりに僕を抱きしめるようにと、おばあちゃんから伝言です」

　思わず吹き出してしまった。普段なら蓮さんには見せたくないくらいの、クシャクシャな泣き笑いの顔だったけど、彼の視線があまりにも温かくて、わたしはそのまま笑いながら泣き続けた。

「じゃあ、蓮さん。おばあちゃんの分も……抱きしめていい？」

　答える代わりに、蓮さんは両腕を広げた。

　わたしは彼の胸に飛び込んで、思い切り抱きしめた。蓮さんも、強い力でわたしをしっかりと受け止めてくれる。

　心が温かいもので満たされて、溢れて……わたしの涙は、いつまでも止まらなかった。