蓮さんは確かにエリートだが、普段の生活では庶民的な感覚を持ち合わせている。そのため、彼の別荘を目にするまで、わたしはすっかり忘れていた。
蓮さんが本当に、ハイソでハイスペな人だということを……。
蓮さんが「大磯の別荘」と呼ぶその家は、たまらなく素敵なロケーションに立っていた。
高台にある晩秋の高級別荘地。木々の葉はすっかり色づいて、
見慣れた故郷の自然とは違って、ところどころにミカンの木が顔を出しているのも興味深かった。時折、冷たく乾いた海風が吹き、ほんのわずかに潮の香りを運んできた。
ゲスト用の駐車場は少し離れたところにあったので、わたしたちはその道を並んで歩いた。別荘地の通りは、落ち葉が降り積もるときに小さな音を立てる以外はひっそりとしている。道路沿いには重厚感ある日本家屋の別荘が多く、ノスタルジックな風景に馴染んでいた。まるで、ここだけ時間がゆっくりと流れているみたいだ。
「ここだよ」
蓮さんが足を止めたのは、それまで道すがら見てきた豪邸に比べると、ややこぢんまりとした和風建築の前だった。柱や壁を見るに、しっかりと手入れがされた古民家のようだ。門から家までは30メートルほどで、庭もさほど広くはない。けれど、庶民のわたしにはこのくらいの方がむしろ落ち着けそうだ。
しかし、家に一歩足を踏み入れた瞬間、「庶民のわたしにはこれくらいがピッタリ」などと考えた自分をぐるぐる巻きにして太平洋に沈めたくなった。
玄関を一歩入ると、広々としたリビングが現れた。30畳……いや、きっともっと広い。外観は古民家風だけど内装はモダンにまとめられており、磨き込まれたブラウンのフローリングがしっとりと足に馴染む。外からは平屋か2階建てか判別しづらかったが、どうやら元は2階建てだった建物を吹き抜けにして、天井の高い平屋に改装したみたいだ。
何より驚いたのは、玄関の反対側に大きな窓があり、その外には広々とした芝生が広がっていたこと。芝生の先には紅葉した広葉樹の森が続き、そのさらに向こうには太陽の光を浴びて輝く太平洋が広がっていた。水平線まで続く青のグラデーションが、わたしの視線を釘付けにして離さない。
「う……わぁ」
わたしは言葉を失った。あの古民家の引き戸を開けた先にこんな絶景が広がっているなんて、誰が想像できただろう。
「この景色、薫なら絶対に気に入ってくれると思った」
蓮さんが嬉しそうに笑いながら、わたしのコートを預かってくれる。気に入ったなんてものじゃない、この空間と一体化したいとまで思ってしまった。
「何だか感激しすぎて、うまく呼吸ができなくなりそう」
コートをクローゼットにしまいながら、蓮さんが笑顔で教えてくれる。
「もともとは、明治期の作家の別荘だったんだ。取り壊して近代的な別荘を建てるという話が出たとき、母さんがどうしてもこの家と風景を残したいと言って、買い取ったんだ」
「作家さんの……。うん、ここでなら、いい文章が書けそうな気がする」
「それからは、別荘として家族で使っていたけれど……僕が高校生のときに、母さんはここにひとりで住み始めたんだ」
わたしは蓮さんを見た。彼の表情はさっきよりも和らいでいて、わたしは少し安心した。
そのとき、リビングのテラス窓が静かに開き、一人の女性が入ってきた。細身で、透き通るような白い肌を持った、とても美しい女性だ。手には小さな竹籠があり、中には青々としたミントが詰められている。彼女が部屋に入ると、瞬く間に清涼感のある香りが広がった。
その女性はまず、「早かったのね」と蓮さんに声をかけた。それからわたしに向き直り、柔らかい笑顔で言った。
「はじめまして。蓮の母です」
蓮さんの母親なら50代を過ぎていると思っていたが、どう見ても40代にしか思えない。とても若々しく……女のわたしでも目を奪われてしまうほど、美しいひとだ。
「母さん。彼女が薫。僕が結婚しようと思っている人だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、甘く締めつけられるように痛んだ。もしそれが現実なら、どれほど嬉しいだろう――そんな思いが、抑えきれなくなってしまいそうだ。
「はじめまして。椿井薫と申します」
わたしはお土産の紙袋をお母さんに渡しながら言った。
「これ、故郷のふじリンゴと、わたしが好きな和菓子店の最中です。蓮さんから、リンゴがお好きだと伺って……」
お母さんは、細い顔立ちに優しい笑顔を浮かべた。その笑顔には、不思議と安心感がある。
「ありがとう、薫さん。リンゴも最中も大好きよ」
そう言いながら、お母さんは手に持っていた竹籠を持ち上げ、中のミントをわたしに見せた。
「今、ミントを育てるのが趣味なの。よかったら、ミントティーを一緒にどう?」
「ありがとうございます、ぜひいただきたいです。お手伝いしますね」
わたしはお母さんの方へ歩み寄り、竹籠を手に取った。ミントの香りが一層強くなり、それにつられてわたしの心が軽やかになる。母の庭で摘んだミントやレモンバーム、ホーリーバジルなどの野草茶は、うちの家族の大好物で、子供の頃から慣れ親しんできた味だ。
それを伝えると、お母さんは嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、ミントティーはお願いしちゃおうかしら。わたしはブレッドプディングの準備をするわ。薫さんが来るって聞いて、朝から張り切って作っておいたのよ」
「わぁ、おしゃれですね! ありがとうございます!」
キッチンは、映画に出てくるアメリカの高級住宅のように、リビングと一体化したアイランドタイプだった。わたしはシンクを借りてミントを洗い始める。その間に、蓮さんは南部鉄器のケトルを火にかけて、ティーポットとカップを用意してくれた。
お母さんが、地下のパントリーにメープルシロップを取りに行くと言って部屋を出る。蓮さんはしばらく、その後姿を見送っていた。
水切りカゴの場所を聞こうとして蓮さんの方を向いたわたしは、彼の姿に、何だか違和感を覚えた。蓮さんはうっすらと眉をしかめ――冷たさと不安が混ざったような目をして、お母さんが出ていったドアを見つめていたのだ。
「蓮さん? 水切りカゴ、ある?」
蓮さんは我に返り、「ああ、あるよ」と言ってカップボードからステンレスのザルを取り出す。それからわたしの背後に近づき、耳元でささやいた。
「そういえば、明日香ちゃんのリンゴ、会社でもすごく好評だったよ。ありがとう」
蓮さんの胸が、背中に触れそうなほど近くに感じられる。ドキドキするのを隠そうとして、わたしは洗い終わったミントを手に乗せ、強めに叩いた。
パン!と大きな音がして、蓮さんが驚いて顔を引いた。
「何してるの?」
「こうすると、ミントの香りが強くなるの。おばあちゃんがいつもやってるから」
蓮さんがこれ以上近づかないように、わたしは立て続けにミントの葉を手のひらで叩いた。お茶の香りが良くなるし、蓮さん避けにもなる。一石二鳥とはまさにこのことだ。
お母さんがパントリーから戻ってくると、蓮さんは彼女の隣に立ち、「お湯が沸くまでプディングの手伝いをするよ」と言った。
お母さんが冷蔵庫を開けようと背を向けた瞬間、わたしは思わぬ光景を見た。蓮さんが、さっきの不安そうな視線で――まるでお母さんの匂いを確認するかのように、顔を近づけたのだ。
――何、今の?
「蓮、それじゃあこれを取り分けてね。薫さん、プディングは温かいのと冷たいの、どちらが好き?」
お母さんが振り返り、蓮さんはすぐに顔を離した。突然話を振られて、わたしはハッと我に返る。
「……実は食べたことがないんです。どちらがおすすめですか?」
「夏は冷たいのが美味しいけれど、今の季節なら、温めてカスタードの香りを楽しむのがいいかな」
蓮さんの言葉が耳に入るものの、うまく頭に入ってこない。わたしの頭の中では、ビストロで友記子が言った言葉がぐるぐると渦を巻きはじめていた。
――その母親は、実は男の年上の恋人っていう設定にして、クライマックスの罪の告白シーンは、江の島の断崖絶壁で――
まさか、蓮さんに限って……。
でも、もしお母さんが継母だとしたら? それなら、お母さんが別居している理由もつじつまが合う気がする……。
「薫? 温かいのにする?」
蓮さんが不思議そうに顔を覗き込む。
「あ、うん、温かいのをお願いします」
彼は「了解」と言って、慣れた手つきでプディングをグラタン皿に盛り付け、予熱したオーブンに入れた。
わたしは、二人に気づかれないように深呼吸をする。
――蓮さんとお母さんの間にどんな事情があったとしても、今日わたしをここに連れてきてくれた。それは、今までより少しだけ蓮さんの心に触れられたということなんだ。
そう思い、余計な心配はしないと決めた。もし後でショックなことがあっても、そのときに取り乱せばいい。今から悲観する必要はない。わたしは、蓮さんとお母さんがカトラリーの用意をするためににキッチンを離れた隙に、ポケットからこっそり手帳を取り出してそう書き込んだ。
蓮さんと暮らすようになってから、自分でも驚くほど心が動くようになった。もともと自分のことを感情豊かなタイプだとは思っていたけど、蓮さんと一緒にいると、嬉しいことや楽しいことも、そして悲しいことも、すべてが今までよりも鮮やかに感じられるのだ。
だから最近は、すぐに書き留められるように手帳をポケットに入れている。脚本のヒントになるのはもちろん、自分の気持ちを整理するためにも書くことが役立つ。蓮さんと出会うずっと前から使ってきた手帳も、さらに特別な相棒的存在になってきていた。
キッチンタイマーが鳴り、オーブンの中でプディングが温まったことを知らせた。蓮さんに促されて、ふたりがけのソファに座る。彼はティーカップと、コルクマットに載せたグラタン皿を運んできてくれた。
「じゃあ、いただこうか」
蓮さんが自然にわたしの隣に座り、わたしの身体が少し彼の方に傾いた。それだけで、なんだかちょっと照れてしまう。
お母さんは一人がけのソファに腰掛けて、ミントティを口に運ぶ。そして目を丸くして「わたしが淹れたのより美味しいわ」と言った。わたしは、おばあちゃんから教わった葉の処理やお湯の温度について彼女に伝えた。
「そんなちょっとした工夫で、こんなに美味しくなるのね」
「そうなんです。今日使ったのはスペアミントだと思いますが、キャンディミントやニホンハッカも香りがよくて、とても美味しいんですよ」
お母さんは感激したように身を乗り出し、「薫さん、すごく詳しいのね」と言ってくれた。
「ふふ、山育ちですから。でも、ミントは繁殖力が強いので、プランターなどで区切って育てるのがいいですよ。実家では花壇に地植えしてるんですが、花が咲いたらハサミで切り戻して、周りに種が飛ばないようにしてるんです」
お母さんの作ったカスタード・ブレッド・プディングは、シナモンの香りが効いていて、まるで冬のヨーロッパで食べるお菓子を思わせた。表面に敷かれたパンはベイクされてカリカリ。その下にはカスタードのフィリングが隠れており、バニラだろうか、絶妙な香りが漂っていた。初めて食べるけれど、とても好きな味だった。
「これ、とっても美味しいです」
わたしが言うと、お母さんは安心したように笑った。
「アメリカの家庭料理なの。前はシナモンとバニラビーンズで作っていたんだけど、蓮がトンカビーンズをちょっと足してみるといいよって教えてくれて。その通りにしたら、香りが複雑になって、とても美味しくなったの」
「僕はマッドサイエンティストだからね」
蓮さんが笑いながら言った。
それからお母さんは、「薫さんが楽しんでくれると思って用意しておいたの」と言って、アルバムを持ってきた。最初のページを開くと、小学校低学年くらいの蓮さんが写っていて、思わず「わぁ!」と歓声をあげてしまった。
「ちょっと母さん、やめてくれよ」
蓮さんは照れながら、ブランコの前で半べそをかいている写真を隠そうとする。どんな表情でも、子どものころから蓮さんがとびきりのハンサムボーイだったというのは一目瞭然だ。
最初は緊張し、途中で疑惑まで抱いたお母さんとの時間だったけれど、その後はとても楽しいひとときに変わった。お母さんは話を引き出すのがとても上手で、わたしは心からリラックスして、まるで昔から知っている人と話すように会話を楽しんでいた。
気がつくと、すでに16時をまわっていた。窓の外には美しい夕焼けが広がっている。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
そう言って、蓮さんは立ち上がる。
「明日、アメリカの会社とオンラインミーティングがあるから、早めに出社して資料を準備しておきたいんだ」
お母さんは少し寂しそうに「そう」と言った。その姿が何だか気の毒に感じて、わたしは「また近いうちに来ます。ね、蓮さん」と、蓮さんを見上げた。彼も頷く。――よかった、いつもの温かい眼差しだ。
「わかったわ。それじゃ、暗くなるから気をつけてね。薫さん、またぜひ来てね。蓮がいないときでも、いつでもいらして」
お母さんも玄関を出て、門まで見送りに来てくれた。そしてわたしたちが最初の角を曲がるまで、夕闇の中、ずっと手を振り続けてくれた。
駐車場までの道を、わたしと蓮さんは無言で歩いた。周囲は静かで、点在する豪邸の窓から漏れる灯りと街灯だけが、わたしたちの足元を照らしていた。
車に乗り込むと、蓮さんがこちらに体を向ける。
「薫……今から海を見に行かない?」
わたしは頷いた。蓮さんには、何かわたしに伝えたいことがあるような気がしたのだ。