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第27話

 蓮さんのご実家は、緑豊かな鎌倉の住宅街にあると聞いていた。


 だからわたしは、水曜日の仕事終わりに友記子を飲みに誘った。おしゃれ番長の友記子にお願いして、「鎌倉に住む彼の母親に、会ってすぐに気に入ってもらえるコーデ」をレクチャーしてもらおうと思ったのだ。


「ちょっと、どういうこと?」


 友記子は1杯目のビールを飲み干してから、わたしに詰め寄った。


「いつの間にそんな人ができたのよ! しかも、彼の母に会うって……もうそんな段階なの!?」


 冬以外の季節ならファサードがフルオープンになるビストロで、友記子はテーブルとして使われているワインの熟成樽を手のひらで叩いた。ビールの泡が、彼女の唇の上にヒゲのようについていたが、そんなことはまったく気にしていない様子だった。


 まだウィークディの折り返し地点で、週の半分は手つかずで残されている。にもかかわらず、店内はワインと会話を楽しむ笑顔のビジネスパーソンやフリーランサー風の人たちで賑わっていた。彼らの雑踏は適度なホワイトノイズとなって、友記子の演技がかった狼狽すらも柔らかく吸収してくれていた。


「ごめん友記子、わたしもね、何度も言おうと思ったんだけど」


 嘘ではない。でも、言えるチャンスは何度かあったにも関わらず、今まで言ってなかったのも事実だ。わたしは心のなかで友記子に手を合わせて詫びた。


 酒なしではやってられないとでもいうように、友記子は厨房に向かって「いつものメルロー、ボトルでちょうだい! 前菜はシェフのおすすめで」と注文した。この店の常連客は、わたしたちも含め誰もがシェフに絶大な信頼を置いている。そして、このようなアバウトな注文をすれば、ジャズのセッションのように、即興でつくられた一番楽しい料理が出てくることを知っているのだ。


「で、どんな人なの?」


 すぐに、コールドデリの盛り合わせプレートがテーブルに置かれた。グリーンオリーブとタコとモッツアレラチーズのサラダをフォークで突き刺しながら、友記子は言った。


「穏やかで紳士的で優しい人。料理が上手」


 わたしは2人分のグラスにワインを注ぎながら言った。濃厚なメルローの香りが立ちのぼり、それだけで少し酔いそうになる。


 友記子は、テーブルに置かれたわたしのスマホを指差した。


「その人、今から出てこられない? ずっと仕事が恋人だった薫を落とした人に会ってみたい」


 わたしは秋鮭のリエットをスライスしたバケットに塗り、たっぷり添えられているディルを載せてからレモンを搾った。味変のために、カシューナッツのディップとジェノバソースも添えて、友記子の取り分け皿に置いてあげた。すぐに友記子がそれを頬張る。


 もうちょっと味わって食べてよねと思いながら、わたしは友記子の質問に答えた。


「残念だけど、しばらくは忙しくなるって言ってた。ほら、航が必死で書いてるあの脚本、蓮さんの会社がクライアントなんだ」


 これは本当のことだ。長野から戻った翌日から、蓮さんは連日深夜をまわってから帰るようになった。わたしを起こさないようにするためか、寝室には来ずに、ソファで眠っている。


「え、それじゃ、エルネストエンタープライズの人? すごい、ホワイトな大企業社員じゃん」


「まぁ……そうだね」


 ただの社員でなく、30歳の若さで今回のプロジェクトを任されているチームリーダー――すなわちエリート――だとはとても言えない。


 わたしはいつの間にか、蓮さんのことを誰かに伝えるとき、「イケメン」とか「エリート」などの表現を使わなくなっていることに気づいた。蓮さんは間違いなくイケメンでエリートだけど、彼の内面には容姿や役職以上に素晴らしい何かがたくさんあって――蓮さんの特徴を挙げろと言われたら、まずそっちが思い浮かぶからだ。


「どこで出会ったの?」


 今度は友記子がカナッペをつくって香辛料をたっぷりかけ、わたしのプレートに置いた。さっきわたしが作ったカナッペのお礼のつもりかもしれないが、どう見ても辛そうだ。


「駅で……酔っ払いに絡まれているところを助けてもらったの」


 友記子は、「ありえん」と言いながら、現実じゃないと表現するように頭を振った。


「正直言うと、その人が薫の妄想でないのなら……詐欺の可能性とかも心配してるんだけど」


 友記子は言い切った。そういえば、明日香ちゃんにもまったく同じことを言われたのを思い出す。わたしはそんなに、妄想癖があるとか、騙されやすいタイプだと思われてるのだろうか……。


「大丈夫だよ。今週末、彼の家族にも会う予定だから」


「そっか、お母さんに会うんだもんね。……薫、『母が病気でお金が必要』とか言われても、ぜったい渡しちゃだめだからね」


 友記子は空になった自分のグラスにワインを注いだ。昔、友記子が脚本を考えるときにそうしていたように、両手の指を唇の前で合わせて天井を見上げる。


「わたしが久々にシナリオ書くとしたら……その母親は、実は男の年上の恋人っていう設定にして、クライマックスの罪の激白シーンの舞台は、江の島の断崖絶壁にする」


「ちょっと、いろいろ飛躍しすぎだし、端折はしょりすぎだから」


 妄想が激しいのはわたしだけじゃない。友記子も同じだ。だけどわたしたちは、たとえ端くれであってもクリエイターなんだなと思えて、ちょっと嬉しくなる。


「友記子。そのたくましい想像力が健在なら……またシナリオ書こうよ」


 友記子はちょっと何かを考えるように黙ってから、わたしと目を合わせて、にっこり笑った。


「そうだね。でもまずは、鎌倉コーデについてレクチャーを授けてあげよう」





 金曜、少しの残業を終えたあと、友記子に付き合ってもらって表参道のセレクトショップまで足を運んだ。本当は、昨日飲みながら教えてもらったコーデをメモし、ひとりで買いに行こうと思っていたのだが、友記子は呆れたようにわたしを止めた。


「薫は背が高いから、ほんの少しのシルエットの違いで、圧迫感が出ちゃうんだよ。色だって、茶色でもいろんなトーンがあって、少し間違えるだけで顔色が悪く見えたりすること、薫は知らないでしょ?」


「……そんな気はしていたよ?」


 そういうミステリアスな法則があることは、わたしでも薄々気づいていた。だけど服は、自分の好きな色と動きやすさ、あとお値段重視で選ぶのが一番――そう思っていた。


「気持ちはわかるよ。薫が素敵な服を買っても、会社と家の往復しかしていないんだから、着ていく場所なんてないもんね。だからこそ、義母に初めて会いに行くみたいなイベントでは、パーッとオシャレしないと!」


 友記子はそこまで一気に話したあと「それに、その彼がもし詐欺師だとしたら、おしゃれした薫を見て罪悪感のひとつでも覚えるかもしれないし」と付け足した。友記子、まだ全然信じていないのね……。


 友記子に連れて行かれたのは、メイン通りから少し入ったところにある、フレンチビンテージ風インテリアのセレクトショップだった。淡色を基調とした店内には、普段の自分なら絶対に試着しないような大人かわいい服ばかりが並んでいて、わたしは少し気後れした。確かに友記子がいなかったら、すでに逃げ帰っていたかもしれない。


 友記子はその店の常連だった。そして、スリムな身体にオーバーシルエットの白シャツを着こなす素敵な女性店主に、ファッションに関して全面的な信頼を置いているようだった。


「ユリさん、今日はこの子を、彼氏の母親に会えるようにしてあげてほしいの」


「もちろんでございます。磨きがいがありそうなお友達で、腕がなりますわ」


 ユリさんは自信たっぷりな笑顔で答えた。


 まずはパーソナルカラー診断なるものを受け、「ブルベ夏」に合うものを選ぶべしと宣言された。友記子とユリさんは、「圧迫的にならず、スラリと見せるシルエット……」とつぶやきながら、とっかえひっかえ服を持ってきては鏡の前に立つわたしにあてがい、ときおり試着を命じた。


 そうして、1時間以上が経過。友記子とユリさんが選んだのは、優しいグレーのニットにマキシ丈の黒いスカート、それに、ちょっとダスティなブラウンのVカラーコートだった。


 試着室から出てきたわたしを見て、ふたりは花が舞うような明るい歓声を上げた。


「とてもお似合いですわ!」

「いつもの10倍、いや100倍は垢抜けて見える!」


 わたしは、鏡の中の自分を見つめた。確かに、この人が街角に立っていたら、一瞬「きれいな人だな」と思うかも。


 普段買う服の数倍の値段はするが、この2ヶ月は蓮さんの家で暮らしているため、生活費はかなり抑えられている。すべて無償だとあまりに申し訳ないから、食費と光熱費として月に数万円を受け取ってもらっている。でも、それでも家賃はかからないので、かつてないほど貯金がはかどっていた。


 つまり、わたしは今、このお高い服を購入することができるのだ。


「友記子、ユリさん、ありがとう。それじゃ、これでお願いします」


 ユリさんが服を持って下がると、友記子はわたしの顔をじっと見て、それから言った。


「薫、まだ予算ある?」


「一大プロジェクトだからね、まだ大丈夫」


「それじゃ、次はメイクも変えよう。こうなったら薫を誰もが振り向く美女に変えて、詐欺師に目にもの見せてやろうじゃないの!」

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