その後の会話で蓮さんが大手企業のエリートと知った途端、駅まで見送りに行きたい、なんなら蓮さんと名刺交換したいといい出した和樹を断って、わたしと明日香ちゃんは一旦家に戻ることにした。

　運転しながら明日香ちゃんは、「和樹も都会の荒波に揉まれて、肩書を重要視する大人になってしまったのか……」と、少しさみしそうにつぶやいた。ちなみに明日香ちゃんの職場は、地元の就活生なら誰もが羨む信用金庫の窓口。ホワイト企業で、給料も地元トップクラスという噂だ。

　明日香ちゃんには言わなかったが……ブラックな環境でこき使われているわたしには、和樹の気持ちがちょっとだけわかった。

　和樹は勉強とスポーツができて人望があり、ずっと話題の中心にいた。大学時代もきっと、そんな環境だったのだろう。だけど会社に入った途端、周りには自分と同じくらい、いや、もしかすると自分以上に優秀な人がわんさかいることに気付かされてしまう。

　それに、会社の成績は能力だけではなく、どんなコネを持っているのか、どんな人とどんなタイミングで出会ったのかなど、運にも大きく左右される。決して努力だけで報われる世界ではない。

　それは、自分のストーリーテリングの能力を信じてシナリオ業界に飛び込んだわたしにも当てはまる。まさかここまで、チャンスが巡ってこないとは……思いもしなかった。

　恋人と別れたことでいろいろな負の感情に飲み込まれた和樹が、「そういえば薫、俺のこと好きだったじゃん！ こりゃワンチャンあるかもよ？」と、軽い感じにわたしのことを思い出したとしても……。まぁ、それはそれでありうるのかもしれない。ムカつきはするけれど。

　家に着くと、おばあちゃんは昨日と同様、ボルダリングウォールの前に立っていた。ウォールの最上部で手を止めて振り返り、おばあちゃんと楽しそうに話しているのは、蓮さんだ。

「おや、薫！ 明日香ちゃん！」

　わたしたちに気づいて、おばあちゃんが手を振った。明日香ちゃんも手を振って「相変わらずお元気ですね！」と挨拶を返す。

「おばあちゃん！ 蓮さんにクライミング教えてるの？」

　飛び降りようとした蓮さんを、おばあちゃんは静止して「ここが断崖絶壁だと思って降りといで！」と言った。蓮さんは「はい、師匠」と頷いて、丁寧な足さばきで下りてきた。

　彼の動きは力強く、それでいてしなやか……。まるで美しい野生動物のようだ。わたしは蓮さんから目を離すことができなかった。

「思ったとおり、蓮くんはスジがいいね。あと1週間、わたしがつきっきりで特訓したら、北岳バットレスくらい楽勝で登れるようになるよ」

「いやいや、そこまでは」

　降りながら、蓮さんが笑う。

「蓮くんならできるわよ。ただし、わたしの特訓は戸隠忍者養成所よりも厳しいからね。蓮くんが1週間後に生きて訓練終了できたら、北岳バットレスは楽勝」

「そういうことなら、僕は辞退させていただこうかな」

　蓮さんは楽しそうに答えた。

　地面に足をつけると、蓮さんは上半身のストレッチをしながら「すごく楽しかったです。おばあちゃん、ありがとう」と笑った。全身の筋肉を使った直後だからだろうか、スーツやスウェットのときは細く見える蓮さんの体が、エネルギーに溢れたようにたくましく見えた。少しだけ呼吸が乱れて、肩が上下している。太陽を受けた汗が頬から喉元へ流れ落ちて……。

　思わず息をのむほどの色気だ。わたしは呼吸を止めて見とれてしまった。

「蓮さん、ヤバい、セクシーすぎる！ 上半身ハダカの写真で来年のカレンダーつくったらぜったい売れる」

　自分の心の声が漏れてしまったかと焦ったが（いや、ヌードカレンダーまでは思っていないが）、言葉を発したのは隣にいる明日香ちゃんだった。ミーハーを装って明日香ちゃんに同意しようと思ったけれど、どう茶化しても蓮さんに自分の気持が伝わってしまいそうで、うまくはしゃげなかった。

「……あと1時間で新幹線の時間だから、蓮さん、シャワー浴びてくれば？」

　蓮さんはタオルで汗を拭きながら「了解」と答えた。いつも通りの、自信に溢れた穏やかな蓮さんだ。今朝の、不安そうな瞳をしていた彼は、もうどこにもいなかった。

　蓮さんが家の中に入るのを確認すると、わたしはおばあちゃんのところへ行った。

「おばあちゃん、蓮さん、すっかり元に戻ったみたい。どんな魔法を使ったの？」

　おばあちゃんは、優しい顔でゆっくり微笑んだ。

「薫、蓮くんはね……」

　そこまで言うと、おばあちゃんは目を伏せて下を向いた。豪快なおばあちゃんが言葉を濁すのは、珍しいことだ。

「おばあちゃん？」

「蓮くんは……とってもいい子だから、大切にしてあげなさい」

　そしていつもの力強い笑顔をわたしに向けて、「今日こそはウォールを片付けなくちゃ。来年は、蓮くんのために、もうすこし壁を高くしてもらおうかしら」と言いながら、家の中に入っていった。

　帰りの新幹線の車内で、蓮さんの様子は、また少しだけいつもと違った。今朝のように落ち込んでいるのではない。きちんと目を合わせてくれるし、その瞳は、いつもの芯のある蓮さんのものだった。

　ただ……普通に会話を交わしながらも、ゆっくりと、何かを決断しようとしている空気が感じられたのだ。

　――わたしに、何か大切なことを話そうとしている？

　蓮さんに訪ねてみようかとも思ったけれど、わたしは理性を総動員して質問を封じた。蓮さんがわたしに何か伝えたいのなら、蓮さんの意思で話してほしい、そう思ったからだ。

　もしかしたらいい話じゃないかもしれない。気づいていないフリをして、蓮さんが話してくれるのを待っているのは少しだけ怖くもある。だけど、悪い話ならなおのこと、蓮さんが話したいと思ったタイミングで、わたしに教えてほしい。

「薫の故郷、楽しかったよ。リンゴもいっぱいもらっちゃったね」

　明日香ちゃんが帰り際に、実家で採れたリンゴを大量に持たせてくれたのだ。特大サイズのビニール袋からは、蜜にも似たリンゴの芳香が漂ってくる。

　いいことを思いついた。

「せっかくこんなにあるんだから、明日会社に持っていって、蓮さんの仕事仲間に配って。わたしも、会社の友だちに持っていくから」

　蓮さんは「ありがとう」と言って頷く。

「ふじリンゴだからボケにくいけど、収穫したては格別に美味しいよ」

「ボケるって？」

「リンゴの水分が抜けてモサモサになることを、長野ではボケるって言うの」

　蓮さんは「そうなんだ、面白いね」と言って、またしばらく手元にあるリンゴを眺めていた。

　間もなく東京駅に到着するというアナウンスが流れた。蓮さんがわたしの方を向く。

「薫」

「はいはい」

　今日の夕食は何がいいかとでも聞かれるかと思い、わたしは気軽に返事をした。今日は蓮さんも疲れただろうから、さっきローカルスーパーで仕入れたご当地インスタント麺「ぽんちゃんラーメン」でもつくってあげよう。

　けれど蓮さんは、今日の夕食には言及しなかった。

「このリンゴ、いくつか貰っていってもいい？ リンゴが好きだった人がいるんだ」

「もちろん。いくつでもどうぞ」

　わたしがそう答えると、蓮さんは上体をひねってわたしに向き直り、大きな手でわたしの肩を掴んだ。彼の手が触れると、まるで電流が走ったかのように全身が熱くなる。やめて、距離が近い、息がかかるほど顔が近いから！

　わたしの心臓が早鐘を打つ。必死に平静を装ったけれど……距離が近いとそれすらも難しい。

　本当に、こういう距離感はわたしの心臓によくないってこと、わかってほしい。わたしのことを好きなら、もしくは、わたしが蓮さんのことを好きになっていいのなら大歓迎だけど、そうじゃないでしょう……。

　ひとこと文句を言ってやろうかと口を開きかけたとき、思ってもいなかった言葉がわたしの耳に飛び込んできた。

「来週、もしよかったら……母に会ってほしい」

　想像もしていない展開に、わたしは目と口を見開いたまま……蓮さんの顔を見つめ続けることしかできなかった。