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第24話

 タクシーを待つ間、わたしは近くのコンビニまで走って、ペットボトルのミネラルウォーターを買ってきた。「だぐらす」の前のベンチに座った蓮さんは、今まで見たことがないくらい憔悴した顔をしていた。


「蓮さん、大丈夫?」


 ペットボトルを渡しながら声をかけると、蓮さんは小さく「ごめん」とつぶやいた。頭痛がするのか、こめかみを抑えながら深いため息をついた。


「……もう7、8年くらい、お酒を飲んでないんだ。コーラとミントの匂いが強くて、お酒が入ってるなんて全然気づかなかった」


 そう言うと、蓮さんはキャップを開けて水を一気に飲み干した。こぼれた水が喉を伝っていく。とにかく早く、お酒を抜きたいみたいだった。


「ごめんね、蓮さん」


「薫のせいじゃない。気にしないで」


 まだ辛そうだったけれど、蓮さんはわずかに口元をゆるめて、わたしを見つめた。


「蓮さんは……お酒が苦手でソーバーキュリアスになったの?」


 蓮さんはわたしの方を見ずに、遠くを見つめて何かを考え込んでいる。何か言いたいけど、決められないような、そんな顔だった。


 冬の風が鋭く吹きつけ、冷たい空気が首元を切るようにかすめた。急に体温を奪われて、思わずコートの襟を押さえる。東京で着てるコートじゃ足りないな。長野の冬の寒さを、うっかり忘れていた。


 ふいに蓮さんが立ち上がり、わたしの前に立った。自分の大きなコートを、わたしの肩にかけてくれる。急に蓮さんの体温に包まれて、わたしの心臓は大きく波打つ。冷たい風に吹かれているのに、なぜか顔が熱くなった。思わず顔を伏せたけれど、ひだまりのような蓮さんの香りがふわりと鼻をかすめて、ますます落ち着かなくなった。


 こういう優しさには……いつまでたっても慣れない。


「いいよ、蓮さん。蓮さんが風邪ひいちゃう」


「今は、少し寒いほうが気持ちいいんだ」


 そう言いながら、コートの襟を軽く引き寄せて、そっとわたしを包み込んだ。いつもまっすぐな蓮さんの瞳が、なぜだろう、今日は少しだけ揺れているように見える。


 そんな彼を見て、胸がぎゅっと締め付けられた。蓮さん、わたしに何かを伝えたいの……? だけど彼は何も言わないまま、ただわたしを見つめているだけだ。


「薫……」


 蓮さんがわたしの名前を呼んだ。わたしは彼の次の言葉を待った。沈黙が続いて、蓮さんが口を開きかけたその瞬間……タクシーが止まった。


「蓮さん?」


 わたしは蓮さんを見上げた。何を言おうとしていたんだろう?


「いや……いいんだ。乗ろう」


 蓮さんはわたしの背中を軽く押して、先に乗るよう促した。そしてその後からタクシーに乗り込むと、蓮さんは窓に寄りかかってそのまま目を閉じてしまった。


 ――何を言おうとしていたんだろう……?


 まぶたを閉じたままの蓮さんが、わたしのことを遠ざけているように感じて、何だか胸の奥が痛む。まるで蓮さんが、遠くへ行ってしまうような、そんな気がした。







 今のわたしの部屋は、おばあちゃんのトレーニンググッズで半分埋まっているから、蓮さんには客間に寝具を用意した。家に戻ってから水をたくさん飲んだおかげで、蓮さんの顔色は少しよくなった。だけど、どこか沈んだような雰囲気は、むしろ強くなっている気がした。


「薫、迷惑をかけて本当にごめん」


 何度目だろう。蓮さんが謝るのは。こんなふうに謝ってほしくないけど、そう言ったら彼はまた謝るに決まってるから、わたしは笑って頷いた。


「気にしないで。わたしも迷惑かけたことあるし。ほら、蓮さんが初めてわたしの服を脱がせちゃったときとかさ」


 わざとおどけて言うと、蓮さんは少し笑った。でも、その笑顔はいつもの蓮さんとは違った。


 ふすまが少しだけ開いて、甘えた声で鳴きながらミオが入ってきた。そして当たり前のように、蓮さんのために敷いた布団の上に乗った。


「ちょっとミオちゃん、蓮さんがゆっくり寝られなくなるから、寝るならわたしと一緒に寝よう」


 ミオはちらっとわたしを見て、「ふん」と言わんばかりに蓮さんの隣で丸くなる。


「かわいくないミオちゃん。ミルクから育ててあげたわたしより、蓮さんの方がいいの?」


 そんなやり取りを見て、蓮さんの表情がようやく少しだけ緩んだ。


「僕は大丈夫だよ。ミオちゃん、一緒に寝ようか」


 ミオちゃんは、さっきまでのわたしへの態度とは打って変わって、蓮さんの手に頭を擦り付けた。


 ミオは急にご機嫌になって、蓮さんの手に頭を擦りつけている。わがままなミオにアニマルセラピーができるかは謎だけど、蓮さんがいいと言うなら、このままでいいか。一晩寝れば、きっといつもの蓮さんに戻ってるだろう。


「おやすみなさい」と言って、わたしは客間を出た。


 ダイニングに行くと、テーブルにはおばあちゃんがいた。少し酔って帰ってきた蓮さんのことを心配していたらしい。


「蓮くん、飲めないって言ってたのに、なんで飲んじゃったんだろうね?」


 わたしはおばあちゃんと自分の分のハーブティを用意しながら答える。


「それがね、蓮さんは『飲まない』って宣言してたんだけど、わたしのクラスメイトだった女子が、蓮さんの飲み物をこっそりアルコール入りにすり替えちゃったみたいなの」


 おばあちゃんは両手を腰に当て、呆れたように眉をしかめた。


「それはひどいね」


 わたしも頷いた。


「蓮さんは『飲めない』んじゃなくて『飲まないことにしている』っていつも言ってるから、たぶんその子、蓮さんにお酒を飲ませて気を引こうとしたんだと思う……」


 おばあちゃんの顔はさらに険しくなった。


「ダブルでひどいね」


 わたしも深く頷いた。本当に、ひどいとしか言えない。


「お酒に弱いせいもあるけれど、何だか蓮さん、自分を責めてるみたいで見ていて辛かった」


 おばあちゃんは顎に手を当てて、何かを考え込んでいる。


「ねぇ、薫。蓮くん、昔はお酒を飲んでたんだよね? なんで飲まなくなったんだろうね?」


 わたしは首を傾げた。蓮さんが飲まなくなった理由までは聞いていない。


「就職した頃までは普通に飲んでたみたいだけど……。最近はソーバーキュリアスの人も増えてるみたいだし、あまり気にしなかった。」


 もしかして、過去にお酒で何かあったのだろうか。でも、蓮さんがお酒で理性を失う姿なんて想像できない。それを伝えると、おばあちゃんは少し悲しげな、なにか言いたげな表情を浮かべた。


「おばあちゃん、どうかした?」


 おばあちゃんゆっくりと首を横に振った。


「なんでもないよ。薫も、今日はもう寝なさい」







 朝がやってきた。 向かいの家で飼われているウコッケイのぴーちゃんが、朝一番に鳴き声をあげると、それが合図となってみんなが起き出してくる。おばあちゃんはウォーキング、父さんは畑の手入れと収穫、母さんは父さんの野菜を使って朝食の用意。これが、積雪期以外の我が家の朝のルーティンだ。


 わたしも高校生まではそのリズムに合わせて生活していた。そのせいか、実家に泊まる日は必ず、夜明けを少し過ぎた頃に目が覚めてしまう。都会では感じられない、自然との一体感みたいなものが心地よくて、わたしはこの感じが好きだ。


 おばあちゃんがウォーキングから帰って来たのと同じタイミングで、片手にミオを抱きながら、蓮さんがリビングにやってきた。まだ8時にもなっていないが、規則正しい早寝早起き生活をしている蓮さんにしてみたら、かなり遅い時間だ。


「おはよう、蓮くん」


「大丈夫? 頭、痛くない?」


「お茶飲む? それともお水?」


 家族3人が心配そうに声をかける。


「大丈夫です……。昨日はご迷惑をおかけして、すみませんでした」


 蓮さんは申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。その丁寧な言葉に、うちの家族の方が恐縮して、口々に「いいのいいの」と声をかけた。


「蓮さん。シャワー浴びてくる?」


 お客さま用のバスタオルを蓮さんに渡した。彼は「ありがとう」と短く答えたけれど、わたしの目を見なかった。普段なら、目を合わせて優しく微笑んでくれるのに、今日はどこか違う。昨晩、タクシーを待っていたときのように、彼の瞳がわずかに揺れているのを感じた。


 ああ、やっぱり様子が変だ。


 蓮さんが実家に来たことを後悔したら……そう考えると、何だかとても悲しくなった。蓮さんには、わたしの育った町を好きになってほしかったのに。


「薫」


 父さんと母さんがキッチンへ行ったタイミングで、おばあちゃんが声をかけてきた。


「帰る前に、ちょっと蓮くんと話をさせてもらえない? 二人きりで」


 わたしはおばあちゃんを見た。おばあちゃんがこんなふうに言うということは、話す内容については聞くなという意味だ。


 昨日のことで、蓮さんに説教でもするつもりなのだろうか? 女は怖いんだから、もっと用心しなさいとか?


 けれど、さっきのおばあちゃんの表情を見る限り、そんな感じには見えなかった。嫌悪でも同情でもない、何か別の感情が浮かんでいるような表情だ。


「わかった。蓮さんに伝えておくね」


 おばあちゃんは、優しく、力強い笑顔で頷いた。

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