タクシーを待つ間、わたしは近くのコンビニまで走って、ペットボトルのミネラルウォーターを買ってきた。「だぐらす」の前のベンチに座った蓮さんは、今まで見たことがないくらい憔悴した顔をしていた。
「蓮さん、大丈夫?」
ペットボトルを渡しながら声をかけると、蓮さんは小さく「ごめん」とつぶやいた。頭痛がするのか、こめかみを抑えながら深いため息をつく。
「……もう7、8年くらい、お酒を飲んでないんだ。コーラとミントの匂いが強くて、お酒が入ってるなんて全然気づかなかった」
そう言うと、蓮さんはキャップを開けて水を一気に飲み干した。こぼれた水が喉を伝っていく。とにかく早く、お酒を抜きたいみたいだった。
「ごめんね、蓮さん」
「薫のせいじゃない。気にしないで」
まだ辛そうだったけれど、蓮さんはわずかに口元をゆるめて、わたしを見つめた。
「蓮さんは……お酒が苦手でソーバーキュリアスになったの?」
蓮さんはわたしから目を逸らして、遠くを見つめて何かを考え込んでいるようだった。何か言いたいけど、決められないような、そんな顔だ。
冬の風が鋭く吹きつけ、冷たい空気が首元を切るようにかすめた。急に体温を奪われて、思わずコートの襟を押さえる。東京で着てるコートじゃ足りないな。長野の冬の寒さを、うっかり忘れていた。
ふいに蓮さんが立ち上がり、わたしの前に立った。自分の大きなコートを、わたしの肩にかけてくれる。急に蓮さんの体温に包まれて、わたしの心臓は大きく波打った。
冷たい風に吹かれているのに、顔が熱くなる。思わず顔を伏せたけれど、ひだまりのような蓮さんの香りがふわりと鼻をかすめて、ますます落ち着かなくなった。
こういう優しさには……いつまでたっても慣れない。
「いいよ、蓮さん。蓮さんが風邪ひいちゃう」
「今は、少し寒いほうが気持ちいいんだ」
そう言いながらコートの襟を軽く引き寄せて、蓮さんは、そっとわたしを包み込んだ。いつもはまっすぐな蓮さんの瞳が、なぜだろう、今日は少しだけ揺れているように見える。そんな彼を見て、胸がぎゅっと締め付けられた。
わたしに、何かを伝えたいの……? だけど彼は何も言わない。ただわたしを見つめているだけだ。
「薫……」
蓮さんがわたしの名前をつぶやく。わたしは彼の次の言葉を待った。しばらく沈黙が続いて、蓮さんが口を開きかけたその瞬間……わたしたちの横にタクシーが止まった。
「蓮さん?」
わたしは蓮さんを見上げた。
「いや……いいんだ。乗ろう」
蓮さんはわたしの背中を軽く押して、先に乗るよう促した。そしてその後からタクシーに乗り込むと、窓に寄りかかり、そのまま目を閉じてしまった。
――何を言おうとしていたんだろう……?
まぶたを閉じたままの蓮さんが、わたしのことを遠ざけているように感じて、何だか胸の奥が痛む。
まるで蓮さんが、遠くへ行ってしまうような……そんな気がした。
わたしの部屋の半分はおばあちゃんのトレーニンググッズで埋まっているので、蓮さんには客間に寝具を用意した。家に戻ってから水をたくさん飲んだおかげで、蓮さんの顔色は少しよくなった。だけど、どこか沈んだような雰囲気は、むしろ強くなっている気がした。
「薫、迷惑をかけて本当にごめん」
何度目だろう。蓮さんが謝るのは。こんなふうに謝ってほしくないけど、そう言ったら彼はまた謝るに決まってるから、わたしは笑って頷いた。
「気にしないで。わたしも迷惑かけたことあるし。ほら、蓮さんが初めてわたしの服を脱がせたときとか」
わざとおどけて言うと、蓮さんは少し笑った。でもその笑顔は、いつもの蓮さんとは何かが決定的に違った。
ふすまが少しだけ開いて、甘えた声で鳴きながらミオが入ってきた。そして当たり前のように、蓮さんのために敷いた布団の上に乗った。
「ちょっとミオちゃん、蓮さんがゆっくり寝られなくなるから、寝るならわたしと一緒に寝よう」
ミオはちらっとわたしを見て、「ふん」と言わんばかりに蓮さんの隣で丸くなる。
「かわいくないミオちゃん。ミルクから育ててあげたわたしより、蓮さんの方がいいの?」
そんなやり取りを見て、蓮さんの表情がようやく少しだけ緩んだ。
「僕は大丈夫だよ。ミオちゃん、一緒に寝ようか」
ミオは急にご機嫌になって、蓮さんの手に頭を擦りつけている。わがままなミオにアニマルセラピーができるかは未知数だけど、蓮さんがいいと言うなら、このままでいいか。一晩寝れば、きっといつもの蓮さんに戻ってるだろう。
「おやすみなさい」と言って、わたしは客間を出た。
ダイニングに行くと、おばあちゃんがいた。少し酔って帰ってきた蓮さんのことを心配していたらしい。
「蓮くん、飲めないって言ってたのに、なんで飲んじゃったんだろうね?」
わたしはおばあちゃんと自分の分のハーブティを用意しながら答える。
「それがね、蓮さんは『飲まない』って宣言してたんだけど、わたしのクラスメイトだった女子が、蓮さんの飲み物をこっそりアルコール入りにすり替えちゃったみたいなの」
おばあちゃんは両手を腰に当て、呆れたように眉をしかめた。
「それはひどいね」
わたしも頷いた。
「蓮さんは『飲めない』んじゃなくて『飲まないことにしている』っていつも言ってるから、たぶんその子、蓮さんにお酒を飲ませて気を引こうとしたんだと思う……」
おばあちゃんの顔はさらに険しくなった。
「ダブルでひどいね」
わたしも深く頷いた。本当に、ひどいとしか言えない。
「お酒に弱いせいもあるけれど、何だか蓮さん、自分を責めてるみたいで……見ていて辛かった」
おばあちゃんは顎に手を当てて、何かを考え込んでいる。
「ねぇ、薫。蓮くん、昔はお酒を飲んでたんだよね? なんで飲まなくなったんだろうね?」
わたしは首を傾げた。蓮さんが飲まなくなった理由までは聞いていない。
「就職した頃までは普通に飲んでたみたいだけど……。最近はソーバーキュリアスの人も増えてるみたいだし、あまり気にしなかった。」
もしかして、過去にお酒で何かあったのだろうか。でも、蓮さんがお酒で理性を失う姿なんて想像できない。それを伝えると、おばあちゃんは少し悲しげな、なにか言いたげな表情を浮かべた。
「おばあちゃん、どうかした?」
おばあちゃんゆっくりと首を横に振った。
「なんでもないよ。薫も、今日はもう寝なさい」
朝がやってきた。
向かいの家で飼われているウコッケイのぴーちゃんが鳴き声をあげると、それが合図となってみんなが起き出してくる。おばあちゃんはウォーキング、父さんは畑の手入れと収穫、母さんは父さんの野菜を使って朝食の用意。これが、積雪期以外の我が家の朝のルーティンだ。
わたしも高校生まではそのリズムに合わせて生活していた。そのせいか、実家に泊まる日は必ず、夜明けを少し過ぎた頃に目が覚めてしまう。都会では感じられない、自然との一体感みたいなものがなかなか心地いい。
おばあちゃんがウォーキングから帰って来たのと同じタイミングで、片手にミオを抱きながら、蓮さんがリビングにやってきた。まだ8時にもなっていないが、規則正しい早寝早起き生活をしている蓮さんにしてみたら、かなり遅い時間だ。
「おはよう、蓮くん」
「大丈夫? 頭、痛くない?」
「お茶飲む? それともお水?」
家族3人が心配そうに声をかける。
「大丈夫です……。昨日はご迷惑をおかけして、すみませんでした」
蓮さんは申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。その丁寧な言葉に、うちの家族の方が恐縮して、口々に「いいのいいの」と声をかけた。
「蓮さん。シャワー浴びてくる?」
お客さま用のバスタオルを蓮さんに渡した。彼は「ありがとう」と短く答えたけれど、わたしの目を見なかった。普段なら目を合わせて微笑んでくれるのに、今日はどこか違う。昨晩、タクシーを待っていたときのように、彼の瞳がわずかに揺れているのを感じた。
ああ、やっぱり様子が変だ。
蓮さんが実家に来たことを後悔したら……そう考えると、何だかとても悲しくなった。蓮さんには、わたしの育った町を好きになってほしかったのに。
「薫」
父さんと母さんがキッチンへ行ったタイミングで、おばあちゃんが声をかけてきた。
「帰る前に、ちょっと蓮くんと話をさせてもらえない? 二人きりで」
わたしはおばあちゃんを見た。おばあちゃんがこんなふうに言うということは、話す内容については聞くなという意味だ。
昨日のことで、蓮さんに説教でもするつもりなのだろうか? 女は怖いんだから、もっと用心しなさいとか?
けれど、さっきのおばあちゃんの表情を見る限り、そんな感じには見えなかった。嫌悪でも同情でもない……何か別の感情が浮かんでいる。
「わかった。蓮さんに伝えておくね」
おばあちゃんは、優しく、力強い笑顔で頷いた。