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第23話

 家に入ると、いつもより整えられた玄関に両親が立っていた。ふたりとも緊張しているのが一目瞭然だ。


 まず蓮さんが、さっきと同じように挨拶をした。やや緊張しているものの、彼の礼儀正しくフレンドリーな雰囲気は伝わってくる。


 声のトーンと表情から人となりがわかったのか、わたしのお父さんとお母さんはほっとした表情を浮かべ、急に饒舌になった。


「いらっしゃい。一瞬、俳優さんが訪問して来たのかと思ってドキドキしちゃったわ」


「本当だよ。さ、疲れたでしょう。どうぞ上がってください。うな重が冷めないうちに」


 客間に通されるかと思いきや、さっそく家族として受け入れたということなのか、ダイニングを案内された。上座に座るよう促された蓮さんが恐縮しながらイスを引くと、一緒にキジトラ猫のミオが姿を現した。


「ミオちゃん!」


 わたしが愛情たっぷりに呼びかけると、ミオはわかりやすく不愉快な顔になって、イスから飛び降りた。ミオはわたしが拾って世話をしたネコだが、甘やかしすぎたのか、わたしのことを召使だと思っているようだ。


「相変わらず、ミオに嫌われてるのね」


 シャワーを浴びたおばあちゃんが、ミオを抱きながらテーブルに来た。おばあちゃんはミオの世話は何ひとつしていないが、ミオは彼女にいちばん懐いている。理不尽だ。


「蓮くんは、ビールはいかがかね?」


 お父さんが、冷えた瓶ビールを抜栓しようと持ち上げた。蓮さんは申し訳なさそうに笑って断った。


「すみません、僕、お酒は飲まないんです」


「そうか、それは失礼。それじゃあ……お母さん、福袋に入ってた高級ウーロン茶、まだあっただろう?」


「あるけど、ああいうのって専門の茶器がないといけないんじゃないの?」


 夫婦の会話に割り込むように、おばあちゃんがガラス瓶と氷の入ったグラスを、テーブルにドンと置く。


「蓮さん、この間お取り寄せした九州のクラフトコーラあるから、特別に分けてあげるよ」


 そして、スパイシーな香りのするコーラ原液を豪快にグラスに注ぎ、冷えた炭酸水で割り、レモンスライスを載せて蓮さんの前に出した。


「ありがとうございます」


「蓮くんが飲まないなら、僕もビールじゃなくて、そのくらんどコーラをいただこうかな」


 お父さんはビールを冷蔵庫に戻して、自分たち用のグラスを持ってくる。


おばあちゃんは「くらんどじゃなくて、クラフト」と笑いながら訂正して、「はいはい、それじゃ今度、クラフトジンジャーエールのお取り寄せをおごりなさいよ」と、両親の分のコーラも注いであげた。


 わたしは甘い食べ物は好きだけど、甘い飲み物は苦手だ。だから自分用に緑茶を淹れようと、キッチンに立つ。茶葉を蒸らしながら、蓮さんも緑茶が好きなことを思い出し、お客様用の湯呑みに一煎目のお茶を注いだ。


「蓮さん、お茶もどうぞ」


「ありがとう」


蓮さんの前に湯呑みを置いた瞬間、彼の指先が動いて、ほんの一瞬わたしの手に触れた。電流みたいな波が全身を駆け抜けて、わたしはドキドキしながら慌てて手を引っ込めた。


 うちの家族は、お客さんが来たら精一杯のおもてなしをしようという考えで団結している。だからこそ、お客さんから話題を出さない限り、プライベートには一切踏み込まない。そういう意味で、安心できる人たちだ。


 蓮さんが家族、とくにお母さんのことを話したがらないのは、この1ヶ月の生活でわかっていた。そして、蓮さんが自分から家族の話をしなくても、気にせず接してくれる両親とおばあちゃんのことを、わたしは誇らしく思っている。


 子どもの頃からそうしているように、全員で声を揃えて「いただきます」と言い、箸を取る。


 自分の家族と蓮さんが一緒に食卓を囲んでいる状況を、ちょっと俯瞰して観察してみる。お父さんとお母さんは蓮さんをおもてなししようと一生懸命だけど、何だか嬉しそうな、ウキウキした感じ。おばあちゃんは、キャンプの話で蓮さんと盛り上がっていた。


 そして蓮さんは、いつもより一段とリラックスして見えた。おばあちゃんのジョークに笑う顔にも、気負いはまったく見えない。


 ミオがやってきて、蓮さんの膝に飛び乗った。お母さんがイスから立ち上がり「ダメよ、ミオちゃん」と引き剥がそうとする。


「大丈夫ですよ、ネコは好きなんで」


 ミオは喉をゴロゴロ鳴らしながら、蓮さんの膝の上で、前足をフミフミ動かし始めた。


「蓮くん、ミオに気に入られちゃったみたいね」と、おばあちゃん。


 ふと、蓮さんと目があった。目じりにシワをよせながらとても幸せそうに笑って、まるで親密な合図のように、目を合わせたまま小さく2回頷いた。


 ああ、来てもらえてよかったなと、わたしは思った。


 クラフトコーラと緑茶の宴は、飲み会の時間ギリギリまで続いた。







 約束した時間の少し前、再び明日香ちゃんが車でやってきた。さっき着ていたパーカーとデニムとは打って変わり、フレアシルエットのフェミニンな服に身を包んでいる。おしゃれが大好きな明日香ちゃんは、居酒屋での同級生飲み会にも、とびきり可愛い服を着てくる。


 今日の会場は、高校の近くにある昔ながらの居酒屋「だぐらす」。昼は定食屋として営業しており、高校時代にはみんな、ここの学生ラーメン(300円)のお世話になった。わたしたちが成人してからは、地元の飲み会の定番店となっている。


 明日香ちゃんは慣れたハンドルさばきで店の駐車場に車を入れた。この店では、予約時に伝えておけば翌朝まで車を置いておくことができる。飲んだあとはタクシーで帰り、翌朝、家族の車に同乗して車を取りに来ればいい。


 暖簾をくぐって引き戸を開けると、店内の喧騒をかき分けて、「らっしゃあい!」という威勢のいい大将の声が響いた。店内も、カウンターの中で包丁を握る大将も、何も変わっていない。カウンターや小上がり席は地元のお客さんでいっぱいで、相変わらずの人気店なのだと嬉しくなる。


 大将の愛称はそのまま「ダグラス」。タテにもヨコにも大きくて、プロレスラーを引退して山小屋のあるじになったような風貌だ。そういえば、高校時代の明日香ちゃんは大将のことを「ストリートファイター・ダグラス」と呼んでいたっけ。


「おう、毎度。みんな奥にいるぞ」


 ダグラスは親指で奥のふすまを指した。


「お待たせー!」と言いながら、明日香ちゃんが奥の座敷のふすまを開けた。懐かしい高校時代の顔ぶれが一気に現れて、わたしのテンションは一気に上がった。


「おおー! 薫! 久しぶり」といろいろなところで声が上がる。わたしは高校生にもどったかのようにはしゃぎながら、みんなと手のひらを打ち合わせて挨拶をして回った。


 蓮さんを見て「誰?」「モデル?」とささやき合いながらソワソワしている女子たちに気がついて、明日香ちゃんが蓮さんの横に立った。


「みなさん! 紹介します。こちらのイケメンは蓮さん。なななんと、薫の婚約者です!」


「ええーっ!」という驚きの声が一斉に響き渡った。「すごいイケメン!」「彼の周りだけ都会の風が吹いてる」「スタイルも完璧じゃない?」と、冷やかしとも羨望ともつかない声があちこちから飛び交う。


 その中心で、蓮さんは少し困ったように微笑みながら会釈をした。その仕草もまるでモデルのように洗練されていて、女子たちは再び「きゃー」と感嘆の声をあげる。彼は「出雲と申します。よろしくお願いします」と、手短に挨拶を済ませ、わたしの隣に座った。


「蓮さん、ごめん。わたしが紹介するべきなのに、一瞬ほったらかしちゃった」


 賑やかな中、蓮さんに聞こえるように顔を近づけてそう謝ると、蓮さんもわたしの耳に唇を近づけて「大丈夫だよ。久しぶりに友達に会えてよかったね」と返した。


 蓮さんの吐息が耳に触れ、心臓が一瞬止まったかと思った。顔が火照り、うるさく鳴り響く鼓動が、自分でも抑えられない。このドキドキが蓮さんに伝わらないようにと、わたしは願った。


 明日香ちゃんとわたしはビールを注文した。蓮さんは、注文を取りに来たダグラスの娘のアマンダ(もちろん愛称だ)に頼んで、メニューにはない炭酸水を注文した。


 料理とドリンクが次々に運ばれてきて、全員で今一度乾杯する。いつの間にか蓮さんは、わたしの友達でもある男性陣に囲まれて、何だか楽しそうに話している。彼にとっては完全にアウェイな場だけど、意外にもすぐに馴染んだようだ。安心して、わたしも別の友人たちとのおしゃべりに花を咲かせた。


 1時間ほど経っただろうか。メインディッシュのほうとう鍋が運ばれてきた。ダグラスの奥さんのケイティ(これも愛称だ)が山梨県出身という繋がりで始まったメニューで、今では「だぐらす」の看板商品となっている。


 とっても美味しい鍋なので、蓮さんに食べてもらいたい。そう思って彼の姿を探すと、蓮さんは男友達に促されて別のテーブルに付いたところだった。クラスのムードメーカー的存在だった亮くんが、ドヤ顔で鍋の説明をしているのが見えた。


 蓮さんは、亮くんたちと向こうの席で食べるのか。


 蓮さんはきっと、ほうとうを食べて「うわ、美味しい!」と笑顔で言うだろう。その顔を見て、わたしは「でしょう?」と自慢げに言いたかったけど、今回はその役目は亮くんに譲ることにしよう。


 そう思った矢先、蓮さんの隣に、細いシルエットがすっと座るのが見えた。あれは……学校一の美女として有名だった果歩ちゃんだ。


 話している内容までは聞こえなかったが、果歩ちゃんは可愛らしく小首をかしげながら蓮さんに挨拶している。それから、ほうとうを取り分けた小鉢を差し出し、にっこり微笑みながら何かを囁いた。そのとき、果歩ちゃんの手が蓮さんの腕を甘えるようにつかんだ瞬間を、わたしははっきりと目撃してしまった。


 すぐ横で同じように見ていた明日香ちゃんが、わたしの袖を引っ張る。


「ちょっと、果歩がまたちょっかい出してるよ」


 果歩ちゃんは、とにかく恋愛体質だ。本人曰く「ビビっとくると気持ちが抑えられなくなる」とのことで、噂によると狙った獲物を手に入れるためならどんな手段でも使う。ターゲットが彼女持ちでもまったく気にしない強靭なメンタルを持っており、愛らしい顔に似合わず、これまで何度も修羅場を繰り返してきたらしい。


「蓮さん、果歩のボディタッチの餌食になってるよ。隣に行ってくれば?」


 明日香ちゃんはそう言ったが、正直わたしはこういうケースがかなり苦手だ。もちろん、ふたりを見ていてモヤモヤそわそわする気持ちはあるけれど、恋愛がらみで自ら乗り込んでいくなんて、わたしにはハードルが高すぎる。


 それに、蓮さんもボディタッチで落ちるような人ではないことを、わたしは知っている。


 蓮さんの反対側の隣に座った亮くんが、「果歩、蓮さんは今俺たちと話してんの!」と抗議してくれている。ありがたい、亮くん頑張れ!


「きっと亮くんがなんとかしてくれる。とりあえず、わたしはお手洗い行っていってくるね」


「ちょっと薫!」


 呆れる明日香ちゃんを残して、わたしはトイレへと退散した。チキンと呼びたければ呼んでくれ。こちとら恋愛経験ほぼ皆無なのだ。


 トイレから戻ると、通路に寄りかかっている人影が見えた。他のグループのお客さんだろうと思い、そのまま通過しようとしたところで、「薫」と声をかけられた。


 懐かしい声。


 見上げるとそこには……高校時代の面影を残しながらも少し精悍な顔つきになった、和樹が立っていた。


「和樹!」


「久しぶり! 元気そうだな」


 これまでも地元の飲み会は何度かあったが、名古屋で暮らす和樹はあまり参加していなかった。だから、わたしたちが会うのは卒業式以来だ。


 あまりに急すぎて、そして懐かしすぎて、言葉がまったく出てこない。


「いつ来たの? 全然気付かなかった」


「今回出張でこっちに来てるんだけどさ、月曜のプレゼンの準備していたらちょっと遅れちゃって、今着いたばっかり」


 片方の口角だけ上げる笑い方は、まったく変わっていない。


「ちょうど薫が座敷から出てくるのが見えたから、ここで待ってたんだ」


「そうなんだ。和樹が元気そうで嬉しいよ。早くお座敷に行こう、みんな和樹に会いたがってたよ」


 早くみんなに和樹の到着を報告したくて、わたしはお座敷の方へ足を向けた。その瞬間、和樹の手によってわたしの手首が捉えられた。そのまま壁のほうへ押しやられ、距離が一気に縮まる。


 びっくりして見上げると、まっすぐに見つめる和樹の視線とぶつかった。


「……どうしたの?」


「うん、なんかさ、卒業式ぶりに薫に会って」


 和樹は手を離してくれない。


「……薫が告白してくれたのに、あんな別れ方になっちゃったの、ずっと気になってたんだ」


 和樹がまるで別人のように見えて、わたしは少し怖くなった。


「そんなこと、全然気にしてないから。とりあえず手を離して。これって、いわゆる『壁ドン』だよ!」


 それでも、和樹は手を離さない。


 恐怖と不快感が一緒になってやってきて、わたしは眉根を寄せた。その瞬間、強い力がわたしの肩をつかみ、和樹から引き離すように後ろへと引っ張った。


 誰かの体にぶつかる。驚いて見上げると、そこには険しい表情を浮かべた蓮さんが立っていた。


「薫は嫌がっているだろう」


 表情とは裏腹に、落ち着いた低い声で蓮さんが言う。


 和樹はわたしを見て尋ねた。


「薫、この人誰?」


「この人は……」


 その瞬間、わたしは嘘をつきたくないと思った。婚約者ではなく、この人がわたしにとってどういう存在なのか、正直に言葉にしたかった。


「この人は……わたしのいちばん大切な人です」


 しばらくわたしと蓮さんを交互に見ていた和樹は、ため息をついて、諦めたように座敷へと向かった。和樹が後ろ手にふすまを閉めると、中から「おー、和樹が来たー!」という仲間たちの歓声が聞こえてくる。


 蓮さんに抱きしめられたままだということに気づいたわたしは、慌てて体を起こした。


「あ、ありがとう、蓮さん」


「彼が、10年間好きだった人?」


「……うん。でも、わたしの記憶にある和樹とはちょっと違ってた」


 友達として過ごした長い年月を思い出すと、何とも言えない切なさが胸に広がった。でも、時間は流れて、わたしたちはそれぞれ違う道を歩んでいる。変わってしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。


 ふと、蓮さんと目が合った。蓮さんは小さく微笑んで、わたしの額に自分の額をそっとぶつけた。


「な、何? 蓮さん、顔が近い……」


 耳まで赤くなっていると、蓮さんはわたしの髪に頬をうずめて囁いた。


「さっき……大切な人って、言ってくれた?」


 心臓がドキドキして、何て答えたらいいかわからず……わたしはただ固まることしかできなかった。


 お座敷からは、和樹の到着を祝って3回目の乾杯をする声が聞こえてくる。和樹は人気者だから、もうわたしに話しかけてくることはないだろう。


「れ、蓮さん。わたしたちも戻ろう……」


 そう言って背を向けた瞬間、蓮さんが突然、わたしに覆いかぶさってきた。あまりに突然で、何が起きたのか理解できない。


 抱きしめられている……?


 でも、何かおかしい。重いのだ。抱きしめられているというよりも、むしろ……。


「れ、蓮さん?」


 おそるおそる振り返ると、目を閉じて、眉間にしわを寄せている蓮さんの顔があった。少し気分が悪そうで……かすかにお酒の匂いがする。


 やっぱり。抱きしめてきたのではなく、もたれかかってきたのだ。


 蓮さんはスリムだけれど、筋肉質なので結構重い。とりあえず座らせたいたいけれど、どうしよう……。そう考えていると、お座敷のふすまが開いて、明日香ちゃんが顔を覗かせた。


「薫、和樹が来たからもう一度乾杯するって……って、どうしたの!?」


「どうやら蓮さん、お酒を飲んじゃったみたいで……。お酒飲まない人なのに」


 明日香ちゃんは驚いた顔で眉をひそめた。


「そういえばさっき、果歩のところに飲み物が2杯届いたんだけど、そのとき果歩がノンアルの目印のマドラーを抜いて、もう一杯のほうに入れてたわ」


 ということは、果歩ちゃん、お酒をノンアルだと言って蓮さんに飲ませたのか……。


「あー、わたしのバカバカバカ! 見てたのに、ただ見ていただけだった!」


「明日香ちゃんのせいじゃないよ。とりあえず、手伝ってくれる?」


 通路の脇の椅子に座らせると、蓮さんはゆっくり目を開けた。


「ごめん……。間違えて、お酒飲んじゃったかも……」


 蓮さんはこめかみを押さえていた。以前はお酒を飲んでいたらしいけど、長く飲んでいないから、アルコールに弱くなってしまったのだろう。


 おそらく果歩ちゃんは、お酒で蓮さんの理性を緩ませようとしたのだろう。でも、これは犯罪に等しい行為だ。蓮さんの側にいなかったことを、わたしは深く後悔した。


「薫、タクシーを呼ぶから、蓮さんと帰りなよ。みんなにはわたしが伝えておくから」


 そのとき、蓮さんの手がわたしの手を包んだ。温もりが伝わり、心がじんわりと温かくなる。同時に、胸の奥に広がる切なさに、わたしは目を閉じそうになった。


「薫、ごめん……」


「謝らないで。蓮さんのせいじゃないってわかってるから」


 もう一方の手で蓮さんの背中にそっと触れた。大切なその人を守りたい気持ちで、わたしは蓮さんを優しく包みこんだ。

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