明日香ちゃんに頼んで、実家まで徒歩5分くらいのところで車を停めてもらった。蓮さんが車を降りると、明日香ちゃんが私に顔を近づけ、小声で囁く。
「ちょっと! 薫がイケメンエリートと結婚なんて、絶対にあんたの妄想か詐欺かと思ってたけど……ほんとに素敵な人じゃん! 幸せになりなよ」
いつもの軽口だけど、明日香ちゃんが心から祝福してくれているのが伝わってくる。良心がチクリと痛んで、私は小さな笑顔を返した。
「ありがとう、明日香ちゃん」
明日香ちゃんが「じゃあ、またあとでね」と手を振りながら走り去ったあと、蓮さんと目が合った。
「とても素敵な友達だね。薫と明日香ちゃんの子ども時代が目に浮かぶよ。すごく楽しかったんだろうね」
まるで子どもを見るような優しい目で、蓮さんは私を見つめる。
「うん。みんな仲良くてね。夏になると学校が終わってから神社に行って、カナチョロを捕まえたりしてたの」
「カナチョロ?」
「カナヘビ。ヘビって言っても、実はトカゲなんだけど」
少しノスタルジックな気持ちになりながら、私は話を続けた。蓮さんは小さく頷きながら、静かに耳を傾けてくれている。
「冬になると雪が1、2メートルは積もるから、みんなで大きな雪だるまやかまくらを作ったりしたの。そういえば、あまり車が通らない道に大きな雪だるまを並べてたら、たまたま通りかかったお巡りさんにひどく怒られたこともあったな」
蓮さんは面白そうに笑った。
「そうしたら明日香ちゃんが『雪だるまを移築しよう!』って言い出してね。ずっしり重い雪だるまを、みんなでヒィヒィ言いながら隣の畑まで運んだの。でもその夜から記録的な大雪になって、2日後に見に行ったら、雪だるまが全部埋もれてた」
蓮さんは目を細めて、くすくすと笑っている。その表情に、いつまでもここで話していたいような気分になった。
私たちが歩く道沿いには、昭和の住宅や大きな屋根の古民家、新築の家、リンゴ畑が点在している。それぞれの家の敷地は広く、庭木も多い。住宅の背後には森林と田園地帯が広がり、南側が開けているので日当たりも抜群だ。
「連さんにこのローカル風景も見てほしくて、少し手前で降ろしてもらったの。いい景色でしょう?」
「うん。すごく気持ちいいね」と蓮さんは微笑みながら、周囲を興味深そうに見回している。
「うちの家族のこと話すね。父は会社員で、母はスーパーのパートさん。弟がいるけど、今日は予定が合わなくて来てないの。うちで規格外なのは……おばあちゃんかな」
蓮さんは私を見た。
「おばあちゃん? どう規格外なの?」
「一言で言うと『活動的』かな。会えばわかるよ。活動的すぎてどこかに出かけてるかもしれないけど……」
実家の前で足を止めて、「ここがうちです」と伝えた。
私の実家は、祖父母が農業と駄菓子屋を営んでいた名残で敷地が広い。今では作業場も店舗もなくなり、代わりに母が丹精するナチュラルガーデンや、父が手入れする家庭菜園が広がっている。家は古民家を減築したモダンな平屋で、日当たりと風通しの良さが自慢だ。
蓮さんは庭を見渡し、ガーデンの奥で視線を止めた。そこには高さ4メートルほどの木製ボルダリングウォールがあり、カラフルなホールドを伝ってしなやかに壁を登る人影があった。
「あ、今日はジムじゃなかったんだ。おーい、おばあちゃん!」
クライマーが振り返り、動画を巻き戻すようにホールドを伝って地面に降りてきた。そして、汗ばんだ顔に満面の笑みを浮かべながら「薫!」と叫び、両手を広げて迎えてくれる。私はその腕に飛び込んだ。
前に会った時より少し痩せた気がするけれど、筋肉とシャキッと伸びた背筋は健在だ。私はもう一度、おばあちゃんを強く抱きしめた。
「薫、おかえり! 元気そうで何よりだよ」
「今年はまだ、ウォールを片付けてなかったんだね」
「雪が降る前にエイちゃんを呼んで、片付けてもらうつもりだよ」
エイちゃんはこの地域の頼れる大工さんで、冬支度の一環としてボルダリングウォールの撤去もお願いしている。
おばあちゃんが私の頬を両手で挟み、おでこをくっつけて言った。
「よく帰ってきたねぇ」
その愛情たっぷりの挨拶に、私は故郷に戻ってきたことをしみじみと感じた。そうだ、蓮さんを紹介しなきゃ。
「蓮さん、うちの規格外おばあちゃん、70歳です。おばあちゃん、こちらが……出雲蓮さん」
家族の前で「婚約者」と紹介するのは……少し照れくさいし、良心が痛むので、省略することにした。
「はじめまして。薫さんとお付き合いさせていただいております、出雲と申します」
蓮さんが丁寧に頭を下げると、おばあちゃんは首にかけたタオルで汗を拭きながら、ニンマリと笑った。
「えらく男前じゃないの。まぁ、おじいちゃんには勝てないけどね」
とびきりハンサムな人を見たときに言う、おばあちゃんの常套句だ。
「わかってるよ。おじいちゃんに勝てるのは、若かりし頃のアラン・ドロンだけなんでしょ」
「That's right!」
おばあちゃんは上手な発音で答えた。実は週2回、英会話レッスンにも通っているのだ。
「さ、入りなさい。うな重の出前も届いてるから」
「出前頼んだの? 明日香ちゃんのお稲荷さんを食べてから来るって言ったのに」
「そりゃ、明日香ちゃんのお稲荷さんには勝てないけど、うなぎなら別腹でしょ? ね、蓮くん」
「ありがとうございます。喜んでいただきます」
蓮さんの礼儀正しい笑顔に、おばあちゃんも嬉しそうに微笑む。スラリとした見た目とは裏腹に、蓮さんは食事をしっかり楽しむ人だ。それに気づけば、おもてなしが好きな私の家族とはすぐに打ち解けるだろう。
これから始まるひとときが、何だか楽しみになってきた。