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第20話

 リングを選んでから1週間後、私たちは新幹線で長野へ向かっていた。


 あれから毎晩、蓮さんとは同じベッドで眠っている。最初はどこかぎこちなく、互いに少し距離を取っていたけれど、夜の冷え込みが増すにつれて、いつの間にか触れるほど近くで朝を迎える日が増えてきた。


 ――いや、嘘だ。「いつの間にか」なんて曖昧なものじゃない。私はときどき夜中にふと目を覚まし、寝ぼけた蓮さんが腕を伸ばして私を包み込む瞬間を、ドキドキしながら感じている。そして、彼が眠っているのをいいことに、私も寝ぼけたふりをしながら、その手にそっと自分の手を重ねたりしている。


 私の中で蓮さんの存在が急速に大きくなっていることは、もうごまかしようがなかった。




 新幹線の座席では、そんな蓮さんが私に寄りかかり、気持ちよさそうに眠っている。窓の外には田園風景が流れ、車輪がレールを滑るかすかな振動が、眠る蓮さんの肩越しに優しく伝わってきた。その寝顔には柔らかな光が降り注ぎ、静かな美しさに満ちていた。


 最近は仕事が不規則で、蓮さんは少し疲れているようだ。その原因の一つが航のシナリオの進捗にあるのだろうと思い、申し訳ない気持ちになる。徹夜明けの航と話して以来、彼はどうにかシナリオを書き進めているようだが、打ち合わせ室から出てくる彼と先生の顔はどこか曇ったままだった。


 ふと、肩に寄りかかっていた蓮さんの頭がかすかに動いた。寝心地が悪いのかと思って姿勢を直そうとした瞬間、彼が不明瞭な声で何かつぶやいた。一瞬、私の名前を呼んだような気がして、私は小さく問いかけた。


「何?」


 返ってくるのは規則正しい寝息だけ。私は自分に「聞き間違いだ」と言い聞かせる。「薫」ではなく「カオス」とか「カボス」とか、別の言葉だったに違いない。変な期待はしないほうがいい、と心の中で自分を戒める。


 そのまま穏やかに眠っていた蓮さんが、体勢を変えた拍子に私の手をそっと握りしめた。その瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がして――本当はずっと前から気づいていたことを、私はようやく認めた。


 私はこの人のことが、どうしようもなく好きになっている。


「蓮さん……」


 小さく名前を呼んでみたけれど、彼は起きない。絡まった手が伝えるぬくもりに、鼓動が早くなった。自由なほうの手で彼の髪に触れると、少しクセのある柔らかな黒髪がそっと指に絡まった。


 指先をそっと下ろして、彼の頬に触れる。私よりも高めの体温が指先に伝わり、甘い痺れが胸に広がった。この人のすべてが愛おしくて、切なさに似た焦燥感が胸を占めていく。


 この人に、キスしたい――。


 そんな衝動に駆られた瞬間、到着駅を知らせるアナウンスが流れ、私は我に返った。周囲の乗客が降りる準備を始める。蓮さんもそれにつられるように頭を上げ、小さく伸びをした。


「ごめん、寝てた。肩、借りちゃってたね」


 少し赤くなった目で、私を見る。何度見ても見慣れないほど整った顔立ち。そのまっすぐな視線を受け止めきれず、私は電光掲示板に目を移した。


「まだ着いてないよ。でも、あと1時間もかからないくらい」


 とりあえず、蓮さんを襲わなくて良かった。理性を失ってキスするなんて、もはや犯罪行為だ。


 蓮さんは、自分の手が私の手を握っていることに気付き、「ごめん」と言いながら手を離した。


「気にしないで」


 ――だって私なんて、あと10秒であなたにキスしてたかもしれないのだから。それに比べれば、手を握るなんて条例違反にも満たない。自転車の二人乗りよりも軽い罪だ。


「ご挨拶に行くのに、本当に普段着でよかった?」


 蓮さんの言葉に私は力強く頷く。スーツ姿の蓮さんなんて連れて行ったら「薫ちゃんが俳優さんを連れてきた!」と瞬く間に近所中の噂になって、我が家の玄関先にはサインを貰いに来る人の行列ができるに違いない。


 それに――スーツ姿の蓮さんは完璧だけど、普段着の蓮さんは、もっと素敵だから。


 今日の彼は、オフホワイトのシャツとニットを重ね、グレーの上質なメルトンコートを合わせている。カジュアルとフォーマルのちょうど中間くらいのスタイルが、蓮さんに一番似合う。そのことに気づいたときには、本人に伝えたくてウズウズしたけど、恥ずかしくて結局言えなかった。


「蓮さんなら、祭りのハッピを着てもサマになるから大丈夫」


 そんな冗談交じりの言葉なら気兼ねなく伝えられる。彼は微笑みながら「それじゃ、来年の夏祭りは一緒にハッピを着よう」と提案してくれた。その未来の約束が、少しだけ胸を温かくした。


「薫のご実家、駅からは近い?」


「少し離れているけど、駅まで明日香ちゃんが迎えに来てくれるの。明日香ちゃん、飲み会の前に蓮さんに会いたいって」


「薫の友達ならいい人に決まってるから、会えるのが楽しみだ」


 その言葉に、後回しにしていたことを思い出す。


「東京で、もう一人紹介したい友達がいるの。会社の同僚で、友記子っていうんだけど……まだ蓮さんのこと話してなくて」


 うちの会社と蓮さんの間には、偶然にもシナリオの繋がりが出来てしまったため、なんとなく友記子にも話していなかった。それで私は、必殺技「先送り&放置」を発動していたのだ。


「もちろん構わないよ。そろそろ『本当に婚約者か?』なんて疑われることもないだろうし」


 その言葉を聞いて少し恥ずかしくなる。私にとって、蓮さんは眩しすぎて……恋人だと思われる自信なんて、まだほとんどない。


 とりあえず今夜のプチ同窓会で、みんなに恋人だと信じてもらえるかどうかが第一関門だ。その席には和樹も来る。私がとってもとっても幸せだと、和樹に思ってもらえるなら一石二鳥だ。


 新幹線は滑らかに飯山駅のホームに滑り込む。たった1泊2日の予定とはいえ、これからの行程と、多くの人に「偽り」の関係を見せることになるプレッシャーが、胸を締め付けてくる。


 そんな私の心情に気づいたのか、蓮さんが柔らかく笑った。


「大丈夫だよ」


 その言葉は温かく、私の緊張を少しだけ解いてくれる。彼は先に立ち上がり、私に手を差し出した。


「ありがとう」


 その手を取って立ち上がりながら、私は心の中でそっと願った――蓮さんにもっと触れていたい。もっと近くで、この温もりを感じていたいと。

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