翌朝、私がいつもよりかなり早く出社すると、コモンルームには疲労感を含んだ空気が漂っていた。締め切られた部屋の空気が淀み、徹夜組の存在を物語っている。
誰が残っていたのだろうと見渡すと、三人がけのソファに、
蓮さんの会社から依頼されたドラマのシナリオが佳境に入っているのだろうか。締め切りまでまだ余裕があるはずなのに、この時点で徹夜をしているということは……あまり順調に進んではいないのかも。
あいにく、そんな航をいたわる優しさを、私は持ち合わせていない。こっそりとコモンルームを通り抜けてオフィスに向かおうとした。
ソファの横を通り過ぎるとき、毛布の端から手が伸び、私のジャケットの裾を掴んだ。
「……薫、無視かよ」
疲労の色が滲む、かすれた声が聞こえた。私は足を止め、振り返る。
「無視じゃなくて、寝てると思ったから起こさないようにしてあげたの。おはよう」
航は毛布をどかし、重い動作で体を起こすとスマホを手にした。「まだ6時台じゃん。そんなに忙しいわけでもないだろ?」
「そうなんだけど、今日は待ち合わせがあるから、定時に帰りたいの。だから早めに来た」
「それって……出雲さんと?」
突然名前を言い当てられ、持っていたコーヒーのボトルを落としそうになった。そうか、中南米料理店で会った後も、航と蓮さんは仕事で何度か会っているはずだ。それでも、社内で蓮さんの名前を聞くと落ち着かなくなる。
「うん、まぁ、ね」
契約結婚という現実を思い出すと、つい話を避けたくなる。適当に答えると、航が居住まいを正し、真剣な目を向けてきた。
「薫、悪いことはいわないから、出雲さんはやめておけよ」
その言葉に思わずカチンときた。なんで、航にそんなことを言われなきゃいけないの?
「なぜ?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。それに気づいたのか、航は少しバツの悪そうな顔をする。
「薫とあの人とじゃ、住む世界が違うだろ。あんなハイスペのエリートだぜ? ひととき遊ばれて終わるだけだよ」
「あのね、蓮さんはそんな人じゃない。知りもしないで適当なことを言うのやめて」
私は航を真っすぐに見据えた。彼は両手で顔を覆い、深いため息をつく。
「……だよな、ごめん。最近、いろんなことがうまくいかなくて、イライラしてた」
「それって、脚本のこと?」
彼はぼんやりと宙を眺めた。否定も肯定もしなかったけれど、その沈黙がすべてを物語っている。航が書けないときの表情だ。
「……バチがあたったんだろうな。こんな大きなチャンス、俺の身の丈に合ってなかったんだ」
その言葉に、私は返す言葉を失った。もし航がこの仕事を正攻法で勝ち取っていたなら、「そんなことないよ」と励ませたかもしれない。でも現実は違う。このプレッシャーが、航の身の丈に合っていない可能性は否定できなかった。
実際に「田舎の生活」を書いた私ですら、こんなにプレッシャーのかかる仕事をやり遂げる自信はない。航が苦しんでいるのもわかるし、彼を責める気にも、到底なれない。
「航、何か楽になることを言ってあげたいけど、今の私にはそれができない。先生に相談するなり、自分で切り抜ける方法を見つけて」
「……薫と共同で書くっていう方法は、ナシか……?」
私は彼のそばにかがみ込み、航と目線を合わせた。あんなに強気だった彼の瞳が、不安で揺れている。
「ナシよりのナシ」私はわざと明るく言った。
「私は『田舎の生活』については諦めたけれど、だからといって、全部がすぐに元に戻れるわけじゃないよ」
そう言いながら、厳しいことを言っているかなと不安になった。だけど、これ以上航に頼られても、私は何もしてあげられない。
「……『すぐに元に戻れない』ってことは、ゆっくりとなら戻れるかもしれないってことか? 前みたいな、友達関係に」
その問いかけに、私は少し驚いた。航にとって、私との関係はもうどうでもいいものになっていると思っていたのに。
でも、友達に戻りたいと思ってもらえるのは正直嬉しかった。また友記子と航と3人で、夜のファミレスでどうでもいいことを話しまくりたい。
「……かもね。友記子も、航との仲がこじれたままだと寂しそうだったし」
航は目を閉じて、小さく頷いた。
「航、何か言って欲しい言葉はある?」
「……一緒にシナリオを書くよって、言ってほしい」
その言葉に、私は思わず笑った。長い付き合いだからわかる。これは航の軽口だ。
「それは無理。ほかには?」
「あなたなら書けるって、言ってほしい」
航の言葉に、私は小さく頷いた。どうしたって切り捨てることのできない仲間だ。しょうがない。
「航になら書けるよ。大丈夫」
その言葉を聞いて、航はやっと小さく笑った。その瞳に、少しだけ生気が戻ってきた気がした。
「今日も脚本がんばろう。私もがんばるからさ」
軽く航の肩をたたいて、私は今度こそオフィスへと足を踏み入れた。
蓮さんから送られてきた待ち合わせ場所は、銀座にあるハイブランドのジュエリーショップだった。
LINEで何度も「まさかここで買うんじゃないよね?」「ハイブランドはやめて」「何かしら指にはまっていればいいから!」と送ったが、すべて既読スルーされた。
仕方なく、待ち合わせ時間に合わせてそのショップへ足を運ぶ。11月の銀座にはシックなイルミネーションが施され、着飾った人たちが楽しげに歩いている。その流れにリズムを合わせているうちに、私まで何だかわくわくした気分になってきた。
ブティックに近づくと、ひときわ目を引くスラリとした長身の男性がショーウィンドウを覗いているのが見えた。チャコールグレーのコートを羽織り、わずかにくせのある髪が夕暮れの街並みに映えている……蓮さんだ。
その隣にはモデル風の美女二人組がいて、ちらちらと蓮さんを見ながら何か楽しげに話している。私が蓮さんに向かって歩いていく途中で、彼女たちは彼に何か話しかけた。困ったような曖昧な笑顔で、蓮さんは断りのジェスチャーをする。そして、ふと彼が私を見つけた。
「薫、こっち」
その瞬間、私の気持ちがふわっと温かくなった。まるでランタンにオレンジ色の炎が灯ったみたいに、気持ちのすべてが、蓮さんの笑顔に引き寄せられるのがわかった。
モデル風の女性たちは私を見ると、笑顔で「恋人と待ち合わせだったのね」「お幸せに」と言い残し、機嫌を損ねた様子もなく立ち去っていった。
蓮さんは私の肩に手を回し、顔を近づけて小さな声で囁く。
「今日は恋人だって言われたね」
唇が頬に触れそうなほど近い距離に、不意に胸が高鳴る。ベッドの中でやさしく抱きしめられた感覚が蘇り、思わず顔が熱くなった。私はなんとか話題を反らそうと声を上げた。
「さ、さっき蓮さんに話しかけた人たち、お幸せにって言ってくれるなんて、美人なだけじゃなくてカッコいい人たちだね」
顔を近づけたまま、蓮さんはくすっと笑った。
「手帳に書きたい?」
「あとにしておきます。それより……本当にこのお店で買うの?」
彼は言葉の代わりに、私の左手をそっと掴む。その瞬間、またしても胸がドキドキと加速する。
「薫に一番似合うリングを見つけるから」
「私に似合うリングはここじゃなくて、もっと大衆的な店にあると思……」
そう言いかけたとき、ショップのエントランスが開き、店員が満面の笑みで私たちに近づいてきた。
「出雲さま、お待ちしておりました。ウェルカムドリンクをご用意しております。どうぞ中へ」
私は蓮さんを見上げた。彼は紳士的な笑みを浮かべ、エスコートするように手を差し出す。
予約していたのね……。
これが、蓮さんの妻となるために必要なステップなのか。
こんな華やかなジュエリーショップは私にふさわしくない。いや、それ以前に、そもそも私が蓮さんの隣に立つ資格なんて本当にあるのだろうか。
それでも。彼の隣にいるときに感じるこの温もりだけは、どうしても手放したくなかった。
迷いを振り払うように、私は静かに深呼吸した。そしてもう一度蓮さんを見上げると、彼は優しい笑顔で小さく2回頷いた。その仕草に背中を押され、私は蓮さんの手を取った。
「覚悟は決めました。指輪、お願いします、ダーリン」
「覚悟をありがとう、ハニー」
そう言って微笑む蓮さんの目じりが下がり、いちばん柔らかい表情になった。
この笑顔も、私たちのこの距離も、すべて「契約」の上に成り立っている。蓮さんの隣に立つために踏み出したこの一歩が、本当に正しかったのかは、まだわからない。
それでも、私はそっと彼の手を握り返した。