目次
ブックマーク
応援する
13
コメント
シェア
通報
第18話

 翌朝、木陰から漏れて揺れる太陽の眩しさで、私は目を覚ました。隣を見ると、蓮さんの姿はもうない。彼が寝ていた部分にそっと手を伸ばすと、かすかな温もりだけが残っている気がした。


 昨夜、蓮さんの腕に包まれて眠りについた胸の高鳴りを思い出しながら、それでもぐっすり眠れた自分の図太さに、思わず笑ってしまう。おそらく、いつもより心地よい眠りだった。


 キッチンから聞こえてくる、ボウルをかき混ぜる菜箸の音と、かすかに漂う出汁の香り。たぶん、いつもの薬味入り厚焼き玉子だ。


 バスルームで顔を洗ってから、私はダイニングへ向かった。


「おはよう、蓮さん」


 キッチンのカウンター越しに声をかける。振り返った蓮さんの微笑みが、朝の光に照らされてさらに輝いて見えた。その瞬間、昨夜の記憶がよみがえり、私はなんだか照れて俯いた。


 たしかに、恋人の雰囲気に近づくのには成功したかもしれない。いわゆる恋人たちがベッドの中でするようなアレコレは、何ひとつしていないんだけど。


「おはよう。もう少しで朝食ができるから」


 蓮さんは少しはにかむように微笑む。その表情に心が温かくなる一方で、彼の目元が少し赤く、眠そうなのが気になった。寝不足気味の蓮さんも、なんだかセクシーで絵になるけれど、彼はチームを率いるリーダーだ。仕事に影響が出たら、それはそれで困る。


「私、昨夜蓮さんのこと蹴飛ばしたりしてないよね? やっぱり、寝室は別々にしたほうがいい?」


 カウンター越しにコーヒーを注ぐ蓮さんの横顔に見とれながら、私は言った。「そうだね」と返事されたらどうしようと、少しドキドキしながら。


「それは大丈夫だよ。ちょっと、仕事のことで考え事をしてただけ。計画通りに進んでいない案件があって、僕がどこまで介入すべきか悩んでたんだ」


 コーヒーがなみなみと注がれたカップが手渡される。私はお礼を言って受け取った。これからも近くで寝ていいんだと思うと、心が浮き立つ。


「それじゃ、しばらく忙しいかな?」


「今はまだ落ち着いてる方だよ。どうして?」


 この間、明日香ちゃんと通話したときから聞かなくちゃと思っていたことを、ついに聞けるときがきた。


「長野の友達とこの間話して、来週、地元で集まろうってことになったんだけど。蓮さんも一緒にどうかな?」


 蓮さんは厚焼き玉子とガーデントスサラダが盛られたプレートを手渡してくれる。なんだか至れり尽くせりだ。お礼を言ってテーブルにつく。


「そうだね。薫のご家族にも挨拶したいし、友達にも会えるいい機会だ。一緒に行こう」


 その返事にほっとする。気が重かった案件が一つ片付くときのような気分だ。


 ふと、蓮さんは思い出したように言った。


「小道具を用意しなくちゃね」


「小道具?」


「婚約指輪」


 蓮さんがそう言いながら、私の薬指にそっと触れる。軽い冗談めかした言い方だったのに、その優しい感触に心臓が跳ねて手が滑り、傾けていたオリーブオイルをサラダにかけすぎてしまった。


 この人は本当に……どうしてこんなに簡単に私の心を掴んでしまうんだろう。


 だけど、その次の言葉で私の心に小さな棘が刺さる。


「指輪も、契約の報酬として受け取ってほしいんだ」


 穏やかで冗談めいた口調。でも……そうだ、蓮さんにとって私は「契約の妻」にすぎない。


「明日、会社の帰りに待ち合わせて、一緒に選ぼうか?」


 何でもないふうに、ぶっきらぼうを装って「了解、ボス」と答えたけれど、胸の奥に沈んだ小さな痛みがゆっくりと広がっていくのを止められなかった。


「ボスは君だよ。好きなのを選んでくれ」


 蓮さんは目を細めて微笑む。いつもの洗練された印象がふっとほどけて、どこか幼さを感じさせる笑顔だ。目じりが少し下がって、その表情の無防備さが、私の心をまた少しだけ揺らした。


 この人の中に、どれだけ触れたいと思っても触れられない部分がある。だけど……その深くに触れたいと、強く願ってしまう。


 私の中で、蓮さんという人間の輪郭が少しずつ形作られて、特別な存在になっていくのを感じた。なんだかくすぐったくて、嬉しくて……そして切なかった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?