こだわりの工程があるとかで、お好み焼きはすべて蓮さんが焼いてくれた。私は、食後のお茶係と洗い物係を引き受けたけれど、蓮さんも「手伝うよ」と言ってキッチンに残った。
私が洗った皿の水滴を、蓮さんがリネンで拭き取り、食器棚へと戻していく。その合間に彼は、ルイボスティの用意までしてくれた。
だけど、作業の間に交わす言葉には、いつもの軽やかさがなかった。蓮さんが何かを考え、それを私に伝えるべきか悩んでいる……そんな気がした。
「さっきの広瀬さんだけど」
蓮さんがおもむろに切り出す。
「彼女は、会社の同僚なんだ。仕事はできる人なんだけど、仕事以外ではあんな感じで……」
「……うん」
美しい同僚からボディタッチされて喜ぶ男性もいるかもしれないが、蓮さんがそういうタイプではないことは、この1ヶ月の生活でわかっていた。
「でもやっぱり、付け焼き刃の婚約者だと、不自然に見えるのかな……。少なくとも彼女は気付いていたと思う。僕たちの間の雰囲気が、恋人じゃないってことに」
確かにそうかもしれない。今の私と蓮さんの関係は、どちらかというと兄妹かルームメイトに近い気がする。
それに、今のままの関係で蓮さんを明日香ちゃんに紹介したら、勘のいい彼女のことだ、すぐに見抜かれそうな気がする。
私はルイボスティを一口飲み、「どうしたものか」と呟いた。蓮さんが選ぶお茶は私の好みにぴったり合っていて、この家の居心地をさらに良くしていた。
対策を考えているようで、実はお茶を楽しんでいるだけの私を、蓮さんはしばらく眺めていた。そして、意を決したように口を開く。
「薫とは、食べ物の好みだけじゃなく、価値観も合っていると思う。だから居心地が良すぎて……婚約者を通り越して、家族みたいな関係になっている気がする。あるいは、定年退職した夫婦みたいな関係」
「あはは、確かにね」
「定年退職した夫婦」という例えは、私も以前に思ったことがある。そのときは、それも悪くない気がしたけれど、広瀬さんの反応を見ると、やっぱり弊害もあるんだろうな。
「そこで、僕からひとつ提案があります」
「はい、何でしょう」
蓮さんは、私に顔を近づけて、まっすぐ目を覗き込む。端正な顔が突然至近距離になり、私は少し動揺した。
心臓の音、止まれ。いや、止まっちゃだめだけど、もう少し落ち着いて……。
だけど、蓮さんの形のいい唇から出てきた言葉に、私の心臓は本気で止まりかけた。
「今日から一緒に寝ま……せんか?」
その夜から、蓮さんのセミダブルベッドで一緒に眠ることが急遽決まった。
私は緊張でぎこちなく動きながら、枕を抱えて蓮さんの部屋に入る。さっき、一瞬止まったかのように思えた心臓は、再び早鐘を打っていた。
2日前に変えたばかりのシーツを、蓮さんは律儀にもまた交換してくれた。ベッドの端に座っていた彼は、私が姿を現すと羽布団をめくり、自分は奥側に潜り込む。手前半分が私のスペースということらしい。
いつも穏やかな蓮さんの表情が、今日はどこか硬く見える。その頬は、月明かりの下でほんのり赤くなっていた。私はそれを見て、慎重に唾を飲み込んだ。
彼の乱れた前髪が額にかかり、その整った横顔を引き立てている。いつもよりセクシーに見えるのは、気のせいだろうか。いや、そもそもこんな美しい人と同じベッドで寝るなんて……これは本当に現実?
「頼むから、そんなに緊張しないでくれ。別に変なことをするつもりはないから……」
立ち尽くす私に向かって、蓮さんがポンポンと羽布団を叩く。その仕草が妙に優しくて、逆に私の緊張を煽った。
妄想……じゃないよね? 何度も心の中で確認しながら、私はベッドに近づいた。
「もし、どうしても嫌だったら無理しないでいいから。自分の部屋に戻っても……」
「い、いえ、寝ます。大丈夫です」
大学時代に酔った勢いで雑魚寝したことが何度もあるじゃないか。そう自分に言い聞かせながら、ようやく布団に潜り込む。だけど、隣に感じる蓮さんの体温が、私をさらに緊張させた。
「えっと、ただ一緒に寝ればいいんだよね?」
「ただ一緒に寝るだけ、というか……」
蓮さんが体をひねってこちらを向き、サイドテーブルのランプを消した。月明かりがカーテンの隙間から差し込み、お互いの輪郭を浮かび上がらせる。
「恋人っぽく見せるために、これくらいは……」
そう言って、蓮さんは私の頭の後ろに腕を回し、やさしく引き寄せる。心臓が一瞬止まったような気がした。
「ちょ、ちょっと待って、蓮さん、無理……」
けれどその瞬間、私の耳に届いたのは、蓮さんの速い鼓動だった。あれ、緊張しているのって――私だけじゃない?
「……蓮さんも、緊張してる?」
「……そりゃ、するよ。こういうの、慣れてないんだ」
暗闇の中でもわかるほど、彼の顔は赤く染まっていた。それを隠すように、蓮さんは私の髪に顔を埋める。密着する体温に、呼吸が止まりそうなほど胸が高鳴った。
だけど――蓮さんが「完璧な人」じゃなく、どこか人間らしい一面を見せてくれたことが、何だか嬉しかった。
「そうなんだ……イケメンなのに」
「関係ないよ。学生時代は面白いやつのほうがモテたし、僕にアプローチしてくる子は積極的すぎて、付き合うのは無理だった」
いや、それ絶対、周りの女子たちが牽制し合ってただけじゃない? 私は心の中で突っ込みながら、静かに彼を見つめる。
「付き合った人もいたけれど、僕の内面を知って離れていくことが多くて」
「内面?」
むしろ蓮さんは、内面のほうが素敵だと思うけれど……。
「つまらないって言われたよ。本ばかり読んで、お酒も飲まないし、賑やかな場所も苦手。料理が趣味って言っても、実家みたいな地味な和食ばっかりだってがっかりされたり」
その言葉に、顔も知らない彼の元カノたちに怒りが湧いた。
「蓮さんはつまらなくなんかないよ。本を読んでいるから話題が豊富だし、居心地がいい縁側を半分私のために空けてくれるし、料理だって、和食にスパイスとかハーブをちょっと足して、美味しくするためにひっそり研究してるの知ってるよ! 蓮さんの料理はすごく美味しい。大好きだよ」
しばらく私を見つめていた蓮さんは、安心したように「そんな、孤独なマッドサイエンティストみたいな言い方」と笑い、それから私をそっと抱きしめた。
「ありがとう。この期限付き結婚の相手が薫で、本当によかった」
引き締まった体と高い体温を感じ、ひだまりのような香りに包まれる。私の心臓はドキドキしつつも、不思議な安心感に満たされた。
「この結婚生活が終わるまで、君を大切にしたい」
早かった蓮さんの鼓動が次第に落ち着いていく。それにつられるように、私も穏やかな気持ちで眠りに落ちていった。