先生と営業部長が去った後の打ち合わせ室には、まるで楽しみにしていた初デートで『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観てしまったかのような重苦しい空気が漂っていた。
航は視線を床に落としたまま、一言も発しない。怒りを抑えきれず、私は航に詰め寄った。
「本気なの? また私に書かせようっていうの?」
彼はポケットに手を突っ込み、天井を見上げて大きく息を吐き出した。
「……俺ひとりじゃ不安なんだよ。でも、これは大きなチャンスなんだ」
少し躊躇してから、航は何かを振り切るように立ち上がり、姿勢を正して私に向かって深々と頭を下げた。
「成功させたいんだ。頼む、力を貸してほしい!」
呆れて言葉を失いそうになる。どこまで自分本位なんだ、この人は。
「いろんな意味で無理。それに、私は優れた脚本家なんかじゃないよ。あなたも言ったじゃない、『田舎の生活』を私の名前で出していたら、誰も見向きもしなかったって」
航はバツが悪そうに首元に手をやり、「ごめん」と小さくつぶやいた。
「……薫のシナリオを預かった日、『イングル』で取材があったんだ。『イケメンクリエーター』とかなんとか、小さな記事なんだけど、その時にみのり――浅川さんと初めて会ったんだ」
この話がどこへ向かおうとしているのか分からないまま、私は頷いた。航と浅川さんのなりそめには興味がないけれど、とりあえず聞いてみるしかない。
「取材の一環で、将来やりたいことを話しているうちに、みのりに『オリジナルの脚本はないんですか?』って聞かれて。本当に馬鹿だけど、俺、そのとき持ってた薫の原稿を渡しちゃったんだ……」
それを聞いて、怒りでこめかみが熱くなる。
「なんでそんなこと……!」
航はその場にしゃがみこんで頭を抱えた。
「薫の脚本、いつもすごく良くて。トリッキーなことは何もしてないし、語彙力だって大したことないのに、薫の脚本は読んでて心にすっと入ってくる……」
端正な顔を今にも泣きそうに歪めた航は、見たことがないくらい苦しそうだった。
「俺……薫のことが好きだった。いつか共作でオリジナルを書けたらいいなって思ってた」
そんな告白は、私にとって何の意味もない。航は最初から最後まで、私にとって友達だったから。……大切な、友達だったから。
涙で鼻の奥がツンと痛くなる。
「取材の時、みのりが俺のこと気に入ってるんだろうなって、すぐに分かった。脚本を渡したのも、俺の脚本ってことにすれば、もっとみのりの気を引けるだろうと思って、軽い気持ちで渡してしまったんだ。そしたら、知り合いの映像制作会社に売り込んであげるって言われて」
「まさか航、それを条件になんて……」
「いや、誤解しないでくれ。その引き換えに付き合ったわけじゃない。みのりはあくまで俺の夢に協力してくれただけだ。彼女は何も求めなかったし、何度か会ううちに、俺もみのりのことを好きになった。打算とかじゃない」
よかった。そんな取引みたいな恋愛は誰も幸せにしないし、間に入った私の脚本にも申し訳が立たない。
そこまで話して、航は両手で頭を覆った。表情は、両肘で隠されていて見ることはできない。
彼は……目の前に降ってきた大きなチャンスを、とっさに掴んでしまったんだろうな。
間違いだったのは、その脚本が私の書いたものだったという点だけ……これは大きすぎる間違いだけど。
自分の中で、折り合いをつけるポイントが見えたような気がした。ついでに、さっきから気になっていたことも聞いてみる。
「ねぇ、なんで私がエルネストEP社の出雲さんと一緒にいたこと、先生に言わなかったの?」
航の苦しげな表情が消え、困惑したような顔になった。
「そりゃだって……薫のプライベートが、先生に食い物にされるのが、目に見えてるから」
ああ、そうだった……。私は、航のこういうところが好きで友達になったんだ。
素直で子どもっぽくて、すぐに調子に乗る。でも、ばかみたいに真面目で、優しい。
恋愛対象にはならないけど、大切な大切な、友達だった。
航もそんな性格だから、初めて犯した大きな過ちに、どう対処すればいいのか分からなかったのだろう。
「航」
私は彼の顔を覗き込んだ。
「そんなことを聞いても全然許せないし、今でも『田舎の生活』を取り戻したい気持ちはあるよ。でも……あれはもうあなたの作品だよ」
航は唇を噛んだ。なんだか、彼の方が悔しそうに見える。
「あなたは私に、『田舎の生活』を超える脚本を書けって言った。それは正しい。私はあれを超えなければいけないと思う。ただ……」
私は深呼吸をした。
「あなたも、あの作品を超えるものを書かなきゃいけないんだよ」
さらに強く唇を噛んで、航は言った。
「ひとりでやれってことか?」
そう。私は頷く。
「『田舎の生活』について褒められたら、俺が書きましたってドヤ顔していい。質問されそうなことは事前に調べて、そつなく答えて。その間に実績を積んで、あの脚本を過去のものにしていこう。私たちは2人とも、あの脚本を乗り越えて、次に進まなきゃいけないんだよ」
「薫……」
航が私の手を取ろうとする。私はそれを振り払った。
「あなたのアシスタントの件は正式にお断りいたします。もし先生が許さなければ、私は事務所を辞めます」
うっすらと涙の浮かんだ目で、航は私を見つめる。――見捨てているんじゃないって、彼が分かってくれればいいけど。
オフィスへ繋がるドアを開けると、さっきまでの重苦しい空気が嘘のように軽くなった。私は自分の席に付くと、バッグから手帳を取り出し、ペンを走らせた。
――最善の選択は、さまざまな試行錯誤を重ねた末にたどり着くものだ。
なかなかいい。書き終えたら、なんだか誇らしい気持ちになった。そして不意に、蓮さんの笑顔を思い出した。
ああ、今日も家に帰ったら蓮さんがいる。とびきりのご褒美だ。
私は1秒でも早く仕事を終わらせるため、キーボードに両手を置いた。