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第13話

 鳴り物入りで始まるかのように思われた、わたしの『見ざる、言わざる、聞かざるプロジェクト』は、翌日には早々に打ち砕かれた。


 月曜の朝、珍しく早い時間から倉本先生が出社したと思ったら、『ツイスター』のF5級トルネードのように航と営業部長を巻き込み、ガラス張りの打ち合わせ室へと連れ去った。ドアが閉まると同時に、室内のブラインドがすべて降ろされる。前々から打ち合せ室の予約を入れていた社員たちは、気の毒なことに、コモンルームの隅に追いやられたようだ。


 きっと、蓮さんに聞いた話の打ち合わせだろう。


 職場には、結婚のことは話していない。それはひとえに、籍を入れるまでは面倒なことは後回しにしたいという、わたしにとって重要な理由からである。それに、倉本先生は仕事に関してはサバンナの飢えたハイエナと化す。わたしが蓮さんの妻だと知った途端、「椿井ちゃ〜ん」と猫なで声を出しながら、自分の都合のいいように利用しまくるだろう。


 わたしはスマホの待ち受け画面をフリー素材の三猿に変え、彼らに励まされながら『きみの愛だけは失くせない』の最終話の脚本を書いていた。


「ねぇ薫、その待ち受け何?」


 声がして、顔を上げると友記子がいた。


「わたしの仲間の三猿。近いうちに日光に行こうと思って。あ、友記子、お土産は湯葉でいい?」


 友記子はわたしに飛びつくようにして腕を組むと、声を落とした。


「それより、航どうしたんだろう。先生たちと、ずっと打ち合せ室にこもりっきりじゃん」


 あいつ、何かやらかしたかな……と、友記子はつぶやいた。いまや注目の脚本家なのだから、航にいい話が舞い込む可能性のほうが高いだろうに、友記子の中で彼は、いつも悪い方に想像される。


 『田舎の生活』がわたしの脚本だということは、友記子も知らない。脚本を書き上げた頃、友記子はすでに総務部に移っていた。だから、まずは同じ部署の航に読んでもらい、その後に友記子に見てもらうつもりだった。


「航、『田舎の生活』が当たって、美人編集者と付き合い出したでしょ。それはいいとして、急にわたしたちに冷たくなって……。わたしさ、ずっと航の恋愛相談に載ってたんだよ? 時間を返してほしいくらいだわ」


 友記子が航に対して怒っているのは、航が脚本家として認められた途端、手のひらを返すようにわたしたちを無視し始めたと思っているからだ。だけど真実としては「航くん、盗作しておいて逆ギレの巻」なのだから、もっと根深いのだけれど。


 航が友記子にしていたという「恋愛相談」は――あのときの航の告白が嘘じゃないのなら――わたしのことなんだろう。こんな状況になっても航の秘密を守ろうとする友記子は、とっても信頼できる友だちだ。


 今となっては、『田舎の生活』のことを友記子にも話すつもりはない。わたしは新しい脚本を書くと決めたし、余計なことは引きずりたくない。


 だけど――と、わたしは思う。蓮さんのことなら、友記子に話してもいいんじゃないかな。


「ねぇ、友記子。今夜……」


 わたしが友記子を飲みに誘おうとしたそのとき、打合せ室のドアが勢いよく開いた。そして、満面の笑みの倉本先生が顔をのぞかせた。


「椿井ちゃ〜ん、ちょっとこっちにいらっしゃ〜い」


 ゾワッと鳥肌が立ったが、もちろんわたしに拒否権はない。


 友記子も「あの笑顔はヤバい」と思ったらしく、心配そうにわたしを見る。


「は、はい……」


 わたしが丸腰で打合せ室に入ると、後ろで扉がバタンと閉じられた。ああ、逃げ道は失われた。


 航が、蓮さんとわたしが食事に出かけていたのをチクったのだろうか。だとしたら、とんでもなく面倒なことになりそうだ。


 しかし、倉本先生の思惑は別のところにあった。先生は喜びに満ち溢れた猫なで声で話し始めた。


「椿井ちゃん、聞いてちょうだい! 安斎くん、やってくれたわよ。まさかのゲットフリックスのドラマの脚本に抜擢されたの!」


 先生は目を輝かせながらグイグイ迫ってくる。わたしは思わず後ずさりした。


「そ、それは、すごいですね……」


「でしょ? 45分の単発だけど、予算もすごいらしいの。この実績があれば、うちの事務所も箔が付くってもんだわ」


「は、はぁ」


 曖昧に相槌を打つ。


「脚本はもちろん、期待のルーキー安斎くんに任せるけれど……。椿井ちゃん、今やっている『きみあい』のシナリオ、もう終わるわよね?」


「はい、あと少しで……」


「それなら、終わり次第安斎くんのアシスタントに入ってちょうだい」


 わたしは驚きで目を見開いた。アシスタント? 航の?


 倉本先生が私の反応を見て、笑顔を浮かべながら続けた。


「悔しいわよね、わかるわ。椿井ちゃんは安斎くんと同期だし、これまでずっと頑張ってきたんだものね」


 航がちらっとこちらを見て、目をそらした。その視線がさらに苛立たしさを増幅させる。


「今までは椿井ちゃんが下書きした脚本のほうが、視聴者の反響あったものね。アシスタントなんてやりたくないでしょう、わかるわぁ。でもね、椿井ちゃんにはぜひ参画してもらいたいのよ」


「どういうことですか? 単発ですよね? 安斎くんひとりでできる案件なんじゃないんですか?」


 先生はちらりと航を見て、なだめるようにわたしを見た。


「安斎くんは自分だけじゃ不安とか言ってるんだけど、わたしにはわかる。彼はきっと、あなたに世界を舞台にしたショーの製作現場を見せてあげたいのよ。ゲットフリックスのドラマは字幕が付いて世界中に配信される。つまり、あなたの書く脚本が6大陸に羽ばたくのよ!」


 先生は悦に入り、両手を広げて舞台女優ふうのポーズをつくり、静止した。


「わたしには……できません。申し訳ありません」


 そう言って、わたしは45度の角度まで頭を下げた。なにがあってもやらないという意思表明だ。


 できない。いろんな意味でできないし、やりたくもない。


 しかし、わたしの意思表明は先生をかすりもしなかった。


「いきなり世界とか言われたら、いくら図太い椿井ちゃんでも不安になっちゃうわよねぇ。でも大丈夫よ。わたしも力いっぱい応援するし、椿井ちゃん的にも絶対に勉強になるから!」


「先生、今回ばかりは、本当にできません」


 顔を上げて、今度は先生の目をしっかりと見据えて言った。その瞬間、先生の顔から表情が消え、怒りに満ちた冷たい視線を持つ能面が浮かび上がった。


「椿井さん、あなた、本気でそんなことを言っているの?」


「はい」


 先生の顔から、先ほどの笑顔が嘘のように消えた。苛立ちのオーラを纏いながら仁王立ちになり、冷たく鋭い声が室内に響く。


「そろそろ分かってもらいたいわ。わたしがあなたに何かを打診する時、あなたの意見を聞いているわけでも、お願いをしているわけでもないのよ」


 わたしも先生の目をまっすぐに見返す。


「椿井さん、わたしはあなたに決定事項を伝えているだけ。『きみあい』を早く終わらせて、アシスタントに回りなさい」


 先生は顎をしゃくって営業部長に合図を送り、ふたりは私を横切ってドアへと向かう。振り返りざま、先生は冷たい視線を投げかけながら言葉を突き刺してきた。


「これからは安斎くんがあなたの上司だから」

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