目次
ブックマーク
応援する
17
コメント
シェア
通報
第13話

 鳴り物入りで始まるかのように思われた、『見ざる、言わざる、聞かざるプロジェクト』だったが、その勢いは翌日にはあっけなく崩れ去った。


 月曜の朝、珍しく早く出社した倉本先生は、『ツイスター』のF5級トルネードのごとく航と営業部長を巻き込み、ガラス張りの会議室へと引きずり込んでいった。ドアが閉まると同時にブラインドが降ろされる。前々から会議室の予約を入れていた社員たちは、気の毒なことに、コモンルームの隅に追いやられることとなった。


 きっと、蓮さんに聞いた話の打ち合わせに違いない。


 職場には、結婚のことは話していない。それはひとえに、籍を入れるまでは面倒なことは避けたいという、私にとって重要な理由があるからだ。それに、倉本先生は仕事になると飢えたハイエナのような姿勢に変わる。もし私が蓮さんの妻になると知れば、「椿井ちゃ〜ん」と猫なで声で近づき、自分の都合のいいように利用してくるだろう。


 私はスマホの待ち受け画面をフリー素材の三猿に変え、彼らに励まされながら『きみの愛だけは失くせない』の最終話の脚本を書いていた。


「ねぇ薫、その待ち受け何?」


 顔を上げると、友記子が立っていた。


「私の仲間の三猿。近いうちに日光に行こうと思っててね。お土産は湯葉でいい?」


 友記子は私の腕に飛びつき、声を落とした。


「それより、航どうしたんだろう。先生たちとずっと会議室にこもりっきりじゃん」


 少し心配そうに、「あいつ、何かやらかしたのかな……」と、友記子はつぶやいた。いまや注目の脚本家なのだから、航にいい話が舞い込む可能性のほうが高いだろうに、友記子の中で彼は、いつも悪い方に想像される。


 『田舎の生活』が私の脚本だということは、友記子は知らない。脚本を書き上げた頃、友記子はすでに総務部に移っていた。だから、まずは同じ部署の航に読んでもらい、その後に友記子に見てもらうつもりだった。


「航、『田舎の生活』がヒットしてから、美人編集者と付き合い出したでしょ。それはいいんだけど、急に私たちに冷たくなって……。私、ずっと航の恋愛相談に乗ってたのよ? 本当に、時間返してほしいくらいだわ」


 友記子が怒っているのは、航が脚本家として認められた途端、手のひらを返したかのように私たちを無視し始めたと思っているからだ。だけど実際のところは、「航くん、盗作しておいて逆ギレの巻」なのだから、もっと根深いのだけれど。


 航が友記子にしていたという「恋愛相談」は――あのときの航の告白が本当なら――私のことだったのだろう。こんな状況でも航の秘密を守ろうとする友記子は、本当に信頼できる友だ。


 今となっては、『田舎の生活』のことを友記子にも話すつもりはない。新しい脚本を書くと決めた以上、余計なことは引きずりたくない。


 だけど――と、私は思う。蓮さんのことなら、友記子に話してもいいかもしれない。


「ねぇ、友記子。今夜さ……」


 私が友記子を飲みに誘おうとしたそのとき、会議室のドアが勢いよく開いた。そして、満面の笑みを浮かべた倉本先生が顔をのぞかせた。


「椿井ちゃ〜ん、ちょっとこっちにいらっしゃ〜い」


 ゾワッと鳥肌が立つ。だけどもちろん、私に拒否権はない。


 友記子も「あの笑顔はヤバい」と思ったらしく、心配そうに私を見た。


「は、はい……」


 私が丸腰で会議室に入ると、後ろで扉がバタンと閉じられた。ああ、逃げ道は失われた。


 航が、蓮さんと私が食事に出かけていたことをチクったのだろうか? だとしたら、とんでもなく厄介なことになりそうだ。


 しかし、倉本先生の意図は別のところにあった。先生は喜びに満ちた声で話し始めた。


「椿井ちゃん、聞いて! 安斎くん、やってくれたわよ。なんとゲットフリックスのドラマの脚本に抜擢されたの!」


 先生は目を輝かせながらグイグイ迫ってくる。私は思わず後ずさりした。


「そ、それは、すごいですね……」


「でしょ? 45分の単発だけど、予算もかなり大きいらしいの。この実績があれば、うちの事務所にも箔が付くわ」


「は、はぁ」


 曖昧に相槌を打つ。


「脚本はもちろん安斎くんに任せるけれど、椿井ちゃん、今の『きみあい』のシナリオ、もう終わりそうでしょ?」


「はい、あと少しで……」


「それなら、終わり次第、安斎くんのアシスタントに入ってちょうだい」


 私は驚きで目を見開いた。アシスタント? 航の?


 倉本先生が私の反応を見て、笑顔を浮かべながら続けた。


「悔しいわよね、わかるわ。椿井ちゃんは安斎くんと同期だし、これまでずっと一緒に頑張ってきたんだものね」


 航がちらっとこちらを見て、すぐに目をそらした。その仕草に苛立ちが増幅する。


「これまで、椿井ちゃんの下書きした脚本のほうが視聴者の反響あったものね。アシスタントなんてやりたくないでしょう、わかるわぁ。でもね、椿井ちゃんにはぜひ参画してもらいたいのよ」


「どういうことですか? 単発ですよね? 安斎くんひとりでできる案件なんじゃないんですか?」


 先生はちらりと航を見て、それから、なだめるように私を見た。


「安斎くんは自分だけじゃ不安とか言ってるんだけど、私にはわかる。彼はきっと、あなたに世界を舞台にしたショーの製作現場を見せてあげたいんだと思うのよ。ゲットフリックスのドラマは字幕が付いて世界中に配信される。つまり、あなたの書く脚本が6大陸に羽ばたくのよ!」


 先生は舞台女優のように両手を広げ、得意げにポーズを決めた。


「私は……できません。申し訳ありません」


 そう言って、私は45度の角度まで頭を下げた。どんなことがあっても、やるつもりはない。


 しかし、先生はまるで意に介さない。。


「いきなり世界とか言われたら、いくら図太い椿井ちゃんでも不安になっちゃうわよねぇ。でも大丈夫よ。私も力いっぱい応援するし、椿井ちゃん的にも絶対に勉強になるから!」


「先生、今回ばかりは、本当にできません」


 顔を上げて、今度は先生の目をしっかりと見据えて言った。その瞬間、先生の顔から笑みが消え、怒りに満ちた冷たい視線が私を刺した。


「椿井さん、あなた、本気でそんなことを言っているの?」


「はい」


 先生は苛立ちのオーラを全身に纏い、仁王立ちになった。その冷たく鋭い声が、室内の空気を凍りつかせる。


「そろそろ分かってもらいたいわ。私があなたに何かを打診する時、それは意見を求めているわけでも、お願いをしているわけでもないの」


 私は一瞬も目を逸らさず、先生をまっすぐに見返した。


「椿井さん、私が伝えているのは決定事項よ。『きみあい』を早く終わらせて、アシスタントに回りなさい」


 先生は顎をしゃくり、営業部長に合図を送ると、ふたりは私を横切ってドアへ向かった。振り返りざま、先生は冷ややかな視線を投げかけ、最後の言葉を突き刺すように告げた。


「これからは安斎くんが、あなたの上司よ」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?