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第11話

 朝食の片付けを終えてから、蓮さんは緑茶を淹れてくれた。良い茶葉なのだろう、とても濃い緑色で、甘みのあるふくよかな香りがする。


 気持ちのいい秋晴れの日だったので、蓮さんとわたしは、縁側に並んで座っていた。なんだか本当の夫婦みたい――定年退職した後の。


 わたしはちらりと蓮さんの横顔を盗み見た。


 彫りの深い端正な顔立ちは、湯呑みを持っていてもさまになる。やっぱり、蓮さんはとてつもないハンサムだ。


 ふと、思いもよらなかった気持ちが沸き上がってきた。


 ――頬に触れてみたい。


 その瞬間、わたしのよこしまな考えを見透かしたかのように、その整った顔がこちらを向く。わたしは口から心臓が飛び出すのではないかと思った。


「これからのことを、いろいろ決めないとね」


 どこまでも涼しい顔の蓮さん。


 わたしは真っ赤になって、今頭に浮かんだ邪念を振り払おうとしながら「う、うん」と返事をした。


「薫には、いずれ僕の実家で挨拶をしてもらいたい。もちろん、僕も薫の実家に挨拶に行くよ。それが終わったら婚姻届を出して、1年後には離婚届。もちろん、それなりの慰謝料は払わせてもらうよ」


 なんだか気持ちがチクチクする。やっぱり、離婚が前提なんだな……。


「それから、僕は離婚しても家族には報告しないつもりだ。だけど、君に迷惑を掛けることはないから安心してくれ。それでいいかい?」


「うん。……うちの実家はゆるいからいいけれど、蓮さんの家は先に同居を始めて大丈夫なの?」


 蓮さんは、腕を組んでソファの背にもたれかかった。


「同居する前にこの話をすると、ありとあらゆる手を使って妨害されそうな気がするんだ。幸い、父はしばらくアメリカ出張だし、兄も不在だ、妹はカナダの大学に行っている。しばらくは気楽にルームシェア生活をしよう」


 インターナショナルな一家だ。話を聞いているだけで、めちゃくちゃまぶしい。


「蓮さんのお母さんだけでも、先に挨拶をしたほうがいいんじゃない?」


 彼の顔から、またしても表情が消えた。


 僅かな間、凍りつくような冷たい視線で一点を見据えたあと、彼はゆっくり目を閉じた。


「その心配はいらないよ。とにかく、僕の実家のことは僕がなんとかする。薫こそ、挨拶が必要だったらいつでも言ってくれ」


 再び目を開いたときには、いつもの連さんが戻ってきていた。


「ご実家は、長野だったよね?」


「うん。新潟に近くで、雪がすごく降るところ」


 それを聞いて、蓮さんは何かを思い出したようにしばらく考えてから、口を開いた。


「そういえば、『田舎の生活』の安斎さん、薫と同じ職場だったんだね。薫の会社名、聞いてなかったから気付かなかった」


 会社名を言ってもピンとこない人が多いので、わたしはいつも自分の会社を説明するときには、「ドラマの『きみの愛だけは失くせない』の脚本をつくっているところ」と言うことにしていた。


「僕が『田舎の生活』の話をしたときに、言ってくれればよかったのに」


 蓮さんはわたしの顔を覗き込む。


「そ、そうだね、ごめん」


 ぎこちなさがバレないように、笑顔で答える。「それにしても」と、蓮さんは続けた。


「これを機にスターダムを駆け上がることだってできるだろうに、安斎さん、『インスタント・グルーヴ』以外のインタビューには応じないんだよな。どうしてだろう」


 射抜くような瞳で、蓮さんはわたしをまっすぐ見つめた。


「もしかして安斎さん、何か事情を抱えている?」


 ここで、わたしは本当のことを言うことができた。「あれはわたしが書いた脚本で、熟読したいというのでヤツに預けたら、どこかで自分の作品だと言って出しちゃったんです」と。


 だけどそれを言ってしまったら、航だけではなく、倉本先生や映像化したスタッフ、キャストなどに多大な迷惑がかかってしまうだろう。盗作にはセンシティブな業界だ。いくら同じ会社内であったにしろ、スタジオ・マンサニージャの信頼はガタ落ちになってしまう。


 航も、自業自得とはいえ、この先脚本を書き続けることができなくなるかもしれない。今ですら『田舎の生活』を評価されるたびに、どうやら彼のメンタルは削られているみたいなのに。


 それにーーわたしは自分の中で決断済みだ。『田舎の生活』のことは一旦脇において、さらにいい作品を書こうと。


 わたしは笑顔で蓮さんに向き直った。


「事情なんて何も聞いてないよ。彼とはあまり親しくないからよくわからないけど、急に有名になってびっくりしちゃったんじゃない?」


「そうか……」


 蓮さんはまだ少し何か考えているようだったけれど、自分を納得させるように頷いた。


 そして、わたしに「失礼」と断ってから、手元のスマートフォンに素早く何かを打ち込みはじめる。


「浅川さんと安斎さんに会った日、浅川さんが守秘義務と言っていたの、覚えてる?」


 そうだ、確かに言っていた。守秘義務ってなんのことだろうと思ったのだけれど、その後の航の態度ですっかり忘れていた。


「広報の関係もあって、浅川さんには話していたんだけれど、実はうちの会社で、エンターテインメントユニットを立ち上げる計画がある。その中心となっているのが、僕なんだ」


 わたしは顔を上げて蓮さんを見た。


「外資系の配信会社と連携して、ドラマなどをつくるプロジェクトだ。当面は社内のユニットという扱いで、軌道に乗ったら会社として分離させる予定もある。もちろん、その場合は上場を見据えるつもりでいる」


 蓮さんはわたしを見て、不敵な笑みを浮かべた。


「つまり、うちの社の一大プロジェクトってわけだ」


 わたしは息継ぎも忘れて頷いた。普段の穏やかな彼からは想像もつかない、熱っぽさが伝わってくる。


「その最初の作品を、まだそれほど有名ではなく、けれどしっかりとした実力を持った脚本家に任せたいと思っている。既存の作品とは、一線を画したものをつくることができる脚本家。どの業界にも、新陳代謝は必要だからね」


 わたしは首がもぎれるくらい頷く。異議なしだ。


「外資が入っていることで予算は潤沢だから、新人の脚本家でも大御所と同じくらいか、それ以上のギャランティを払うことができる。そこで……」


「安斎航に依頼しようと思ったのね」


 蓮さんは頷いた。


 だとしたら、マズい。航の脚本を読ませてもらったことは何度もあるが、なんとなく既視感のある物語が多かったのだ。


 まだ同期3人の仲が良かった頃、本音でお互いのシナリオを評価する機会が何度もあった。わたしや友記子が航のシナリオの弱点を指摘すると、航はいつも怒って拗ねた。


 そんな航に大役を任せて、もし航が期待に応えられなかったら……。


 採用した蓮さんの責任問題になる可能性もある。


 ピコンと、蓮さんのスマホの通知音が鳴った。蓮さんは画面を覗き込む。


 その隙に、わたしはどう言えば蓮さんに「それはグッドアイデアではない」ということが分かってもらえるか考えていた。


 もう正直に言っちゃう? 実はあれを書いたのはわたしなのテヘペロって言っちゃう?


 あれこれ逡巡しているわたしにさらに追い打ちをかけるように、スマホから顔を上げた蓮さんは、さらに衝撃的なことを言った。


「さっき、薫から問題なさそうと聞いて、すぐに浅川さんにメールを送ったんだ。社内ではもう、安斎さんを起用ということで話がついていたからね。彼女がすぐに安斎さんと倉本先生に連絡してくれて、2人からもぜひという返事をもらったそうだ」


 ……なんてこと。


 ああでも、そうだった。この業界の人達、こういう話を進めるのがめちゃくちゃ早いんだった……。


 だけど、倉本先生は事務所の名前が売れるから快諾するのは分かるとして、航はなんでOKするかな。あいつシナリオ書けるのかよ。


 嫌な予感を抱えながらも、わたしはどうすることもできずに、空になった湯呑み茶碗の中を眺めていた。

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