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第11話

 朝食の片付けが終わると、蓮さんが緑茶を淹れてくれた。


 蓮さん愛用の湯呑みは、土肌に青いビードロ釉が少しだけ掛けられた信楽焼。本人は「お茶の緑色がよく映えるから気に入っている」と言っていたが、その温かみと洗練は、まるで彼自身を表しているように感じられた。


 一度湯を沸かし、少し冷ました後、急須に静かに注ぐ。茶葉がゆっくりと開くのを待って、湯呑みに移した。その流れるような所作は、思わず見とれてしまうほど美しかった。


 渡されたお茶からは、上質な茶葉の甘くふくよかな香りが漂っている。私は目を閉じてその香りを深く吸い込んだ。


 気持ちのいい秋晴れの日。蓮さんと私は、縁側に並んで緑茶を飲む。まるで本当の夫婦みたい――定年退職した後の。


 私はちらりと蓮さんの横顔を盗み見た。


 彫りの深い端正な顔立ちは、湯呑みを持つ姿も絵になる。改めて、蓮さんはとてつもなくハンサムだと感じた。


 ふと、思いもよらなかった気持ちが沸き上がってきた。


 ……頬に、触れてみたい。


 その瞬間、私のよこしまな考えを見透かしたかのように、蓮さんが振り向いた。口から心臓が飛び出しそうだった。


「これからのことを、いろいろ決めないとね」


 穏やかな口調で蓮さんが言う。彼は何も気にしていない、涼しい顔をしていた。


 私は真っ赤になって、今頭に浮かんだ邪念を振り払おうとしながら「う、うん」と返事をした。


「薫には、いずれ僕の実家で挨拶をしてもらいたい。もちろん、僕も薫の実家に挨拶に行くよ。それが終わったら婚姻届を出して、1年後には離婚届。もちろん、それなりの慰謝料は払わせてもらう」


 なんだか胸の奥がチクチクする。やっぱり、離婚が前提なんだな……。


「それから、僕は離婚しても家族には報告しないつもりだ。でも、君に迷惑を掛けることはないから、安心してほしい。それでいい?」


「うん。……うちの実家はゆるいからいいけれど、蓮さんの家は先に同居を始めて大丈夫なの?」


 蓮さんは腕を組み、ソファに深くもたれかかった。


「同居する前にこの話をすると、ありとあらゆる手を使って妨害されそうな気がするんだ。幸い、父はしばらくアメリカ出張だし、兄も不在だ、妹はカナダの大学院に行っている。しばらくは気楽にルームシェア生活をしよう」


 なんてインターナショナルな家族なんだろう。話を聞いているだけで、めちゃくちゃまぶしい。


「蓮さんのお母さんだけでも、先に挨拶をしたほうがいいんじゃない?」


 彼の顔から、ふと表情が消えた。


 少しの間、蓮さんは凍りつくような冷たい視線で一点を見据えた。最初に会った日の、拒絶するようなあの瞳だ。それから彼は、ゆっくりと目を閉じた。


「その心配はいらないよ。とにかく、僕の実家のことは僕がなんとかする。薫こそ、挨拶が必要だったらいつでも言ってくれ」


 再び目を開いたときには、いつもの連さんが戻ってきていた。


「ご実家は、長野だったよね?」


「うん。新潟に近くで、雪がすごく降るところ」


 それを聞いて、蓮さんは何かを思い出したようにしばらく考えてから、口を開いた。


「そういえば、『田舎の生活』の安斎さん、薫と同じ職場だったんだね。薫の会社名、聞いてなかったから気付かなかった」


 会社名を言ってもピンとこない人が多いので、私はいつも自分の会社を説明するときには、「ドラマの『きみの愛だけは失くせない』の脚本をつくっているところ」と言うことにしていた。


「僕が『田舎の生活』の話をしたときに、言ってくれればよかったのに」


 蓮さんは私の顔を覗き込む。


「そ、そうだね、ごめん」


 ぎこちなさがバレないように、笑顔で答える。「それにしても」と、蓮さんは続けた。


「これを機にスターダムを駆け上がることだってできるだろうに、安斎さん、『インスタント・グルーヴ』以外のインタビューには応じないんだよな。どうしてだろう」


 射抜くような瞳で、蓮さんは私をまっすぐ見つめた。


「もしかして安斎さん、何か事情を抱えている?」


 ここで、私は本当のことを言うことができた。「あれは、私が書いた脚本で、熟読したいというのでヤツに預けたら、どこかで自分の作品だと言って出しちゃったんです」と。


 だけどそれを言ってしまったら、航だけではなく、倉本先生や映像化したスタッフ、キャストなどに多大な迷惑がかかってしまうだろう。盗作にはセンシティブな業界だ。いくら同じ会社内であったことでも、スタジオ・マンサニージャの信頼はガタ落ちになってしまう。


 航も、自業自得とはいえ、この先脚本を書き続けることができなくなるかもしれない。今ですら『田舎の生活』を評価されるたびに、彼のメンタルは少しずつ削られているみたいなのに。


 それに――私は自分の中で決断済みだ。『田舎の生活』のことは一旦脇において、さらにいい作品を書こうと。


 私は笑顔で蓮さんに向き直った。


「事情なんて何も聞いてないよ。彼とはあまり親しくないからよく知らないけど、急に有名になって、戸惑っているんじゃない?」


「そうか……」


 蓮さんはまだ少し何か考えているようだったけれど、自分を納得させるように頷いた。


 そして、私に「失礼」と断ってから、手元のスマートフォンに素早く何かを打ち込みはじめる。


「浅川さんと安斎さんに会った日、浅川さんが守秘義務と言っていたの、覚えてる?」


 そうだ、確かに言っていた。守秘義務ってなんのことだろうと思ったのだけれど、その後の航の態度ですっかり忘れていた。


「広報の関係もあって、浅川さんには話していたんだけれど、実はうちの会社で、エンターテインメントユニットを立ち上げる計画がある。その中心となっているのが、僕なんだ」


 私は顔を上げて蓮さんを見た。


「外資系の配信会社と連携して、ドラマなどをつくるプロジェクトだ。当面は社内のユニットという扱いで、軌道に乗ったら会社として分離させる予定もある。もちろん、その場合は上場を見据えるつもりでいる」


 蓮さんは私を見て、不敵な笑みを浮かべた。


「つまり、うちの社の一大プロジェクトってわけだ」


 私は息継ぎも忘れて頷いた。普段の穏やかな彼からは想像もつかない、熱っぽさが伝わってくる。


「その最初の作品を、まだそれほど有名ではなく、けれどしっかりとした実力を持った脚本家に任せたいと思っている。既存の作品とは、一線を画したものをつくることができる脚本家。どの業界にも、新陳代謝は必要だからね」


 私は首がもぎれるくらい頷く。異議なしだ。


「外資が入っていることで予算は潤沢だから、新人の脚本家でも大御所と同じくらいか、それ以上のギャランティを払うことができる。そこで……」


「安斎航に依頼しようと思ったのね」


 蓮さんは頷いた。


 だとしたら、マズい。航の脚本を読ませてもらったことは何度もあるが、なんとなく既視感のある物語が多かったのだ。


 まだ同期3人の仲が良かった頃、本音でお互いのシナリオを評価する機会が何度もあった。私や友記子が航のシナリオの弱点を指摘すると、航はいつも怒って拗ねた。


 そんな航に大役を任せて、もし航が期待に応えられなかったら……。


 採用した蓮さんの責任問題になる可能性もある。


 ピコンと、蓮さんのスマホの通知音が鳴った。蓮さんは画面を覗き込む。


 その隙に、私はどう言えば蓮さんに「それはグッドアイデアではない」ということが分かってもらえるか考えていた。


 もう正直に打ち明けちゃう? 実はあれを書いたのは私なのテヘペロって言っちゃう?


 あれこれ逡巡している私にさらに追い打ちをかけるように、スマホから顔を上げた蓮さんは、さらに衝撃的なことを言った。


「さっき、薫から問題なさそうと聞いて、すぐに浅川さんにメールを送ったんだ。社内ではもう、安斎さんを起用ということで話がついていたからね。彼女がすぐに安斎さんと倉本先生に連絡してくれて、2人からもぜひという返事をもらったそうだ」


 ……なんてこと。


 ああでも、そうだった。この業界の人達、こういう話を進めるのがめちゃくちゃ早いんだった……。


 だけど、倉本先生は事務所の名前が売れるから快諾するのは分かるとして、航はなんでOKするかな。ああ、航に「シナリオ書けるのかよ」って言ってやりたい。


 嫌な予感を抱えながらも、私はどうすることもできずに、空になった湯呑み茶碗の中を眺めていた。

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