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第10話

 目が覚めると、わたしは自分のベッドの中だった。


 パリッと冷たいシーツが心地いい。わたしは夢見心地のまま腕と足を大きく動かして、しばらくその感触を楽しんでいた。


 だがしかし、すぐに我に返る。


 ……ミーはどうしてベッドの中に!?


 跳び起きて、周りを見回す。そこは蓮さんのテラスハウスの主寝室――わたしにあてがわれた部屋――だった。南東向きの大きな窓からは庭木の葉を通過した朝の光が入り、ブランケットの上に柔らかなフォルムの影をつくっている。


 ベッドの上からその向こうにあるウォークインクローゼットに視線を移すと、がらんとした空間の真ん中に、昨日着ていたジャケットとブラウスだけが吊るされているのが見えた。


 恐る恐る、ブランケットに包まれた自分の身体に目をやる。すぐに絶望のうめき声が口をついた。着ているのは下着とキャミソールだけ。キャミソールといっても、スリップ寄りのキャミソールだ。人様に見せるものではない。


 昨夜部屋に戻った記憶もなければ、服を脱いだ記憶も、シーツを敷いた記憶もない。服にいたっては、自分で脱いだとしたらそこら辺に投げ捨ててあるはずだ。ハンガーに吊るしてあるわけがない。


 一連の行動を、わたしがやっていないのであれば、やってくれたと思われる人は……ただひとり。


 あちゃー……。


 わたしはしばらく頭を抱えたあと、コソコソとバスルームへ行った。目を覚ますため、低温に設定したシャワーを浴びる。「自由に使って」と言われた厚手のタオルはどこまでもフカフカで、太陽をたっぷり浴びた生成りの香りがした。


 この匂い……。


 この匂いのする物体を、昨夜、抱きしめた覚えがある。タオルじゃない、どう考えても人だった。「いい匂い」とか言いながら、クンクンした記憶すらある。


 わたしは再び真っ青になって、タオルを抱きしめたままその場に座り込んだ。


 うわー、もう言い逃れできないくらいに変態さん認定だ、わたし。


 身支度を整えて、重い気分でリビングへ向かう。このまま自分の部屋に逃げ込んで引きこもり生活に入りたかったが、タダで住まわせてもらっている身としては、そんなことはできない。


 とりあえず、昨日の非礼を詫びなければ。


「おはようございます」


 わたしはおずおずと声をかけた。


 蓮さんはカーキ色のエプロンを付けて、キッチンに立っていた。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。


「おはよう。もう少しで朝食が用意できるから」


 どこまでも爽やかな笑顔が眩しい。


「あの……タオル、使わせてもらった。ありがとう。淡雪はんぺんみたいにフカフカだった」


 蓮さんは一瞬キョトンとして、それからクスクスと小さく笑った。


「スポンジケーキみたいにフワフワとは言われたことあったけど、なるほど、淡雪はんぺんのほうがぴったりな表現だね」


 ……ふぅん、スポンジケーキみたいにフワフワって言った人が、ここに来たことあるんだ。


 なんだかモヤモヤしているわたしには気付かず、彼はフライパンに卵を割り入れてから蓋をして、手早くテーブルの上に2人分のカトラリーを用意した。


「お手すきだったら、ベーグル係になってもらえる? もう焼けていると思うから、そこのバスケットに入れて。それからコーヒーも頼んだよ」


 わたしは「ベーグルとコーヒー係、やらせていただきます!」と宣言して、トースターを開けた。香ばしい香りとともに、カリッとリベイクされたベーグルが3種類あらわれた。リネンを敷いたバスケットにそれらを並べたら、高級ホテルの朝食テーブルに載っていそうな一品に見える。なんて美味しそう。


 それから準備されていたマグカップにコーヒーを注ぐ。こちらも、挽きたての豆を使ったとすぐに分かるほど鮮明な香りがした。ナッツとスパイスを合わせたような、好みの匂いだ。


「ベーグルは、シナモン、ほうれん草、それからローストオニオン。もしプレーンかブルーベリーがよかったら、あるから言ってくれ」


「あ、ありがとう。これで大丈夫……」


「今出来上がるから、イスにかけて待ってて」


 蓮さんはオレンジ色のポタージュをスープカップによそい、わたしの前に置く。次に皿を手片手で持って、フライパンの上のベーコンエッグをサラダの横に盛り付けた。レーズン入りのキャロットラペと、ひよこ豆のサラダも添えられている。見栄えよく、栄養バランスも考えられていそう。


「どんな朝食が好きか聞いていなかったから、洋食にしたんだけど。いつもは洋食? それとも和食?」


「和……かな?」


 納豆ご飯は和食だ。嘘はついていない。


「それじゃ、明日は和にしよう。焼き魚は何が好み?」


「一番はアジの開き……っていうか」


 わたしはイスから立ち上がり、頭を下げた。


「昨日は本当にごめんなさい!」


 蓮さんはキョトンとした顔でわたしを見る。


「ひとりで酔って、蓮さんに絡んじゃって……、ごめんなさい!」


 本当は、抱きついた挙げ句、クンクン匂いを嗅いでごめんなさいといいたかったけれど、さすがにそこまで言語化するのははばかられる。変態宣言にも等しい。


「しかも、部屋まで運んでくれて、シーツと、あと……」


 そこまで言って、わたしは耳まで赤くなった。


「こっちこそ、服を脱がしたりしてごめん。でも、誓って見てないから安心してくれ。それより、ポタージュが冷めないうちにどうぞ」


「それより」と言われたのが、なんだか地味にこたえる。


「バターナッツスクワッシュというカボチャでつくったんだ。クルトンもあるので、お好みで」


 わたしはシュンとなったまま、テーブルについた。いただきますと一礼して、ポタージュを口に運ぶ。


「なにこれ美味しい!」


 スープの湯気の向こうで、蓮さんがにっこり微笑む。


「気に入ってもらえた? 僕の得意料理なんだ。クルトンもパンから自家製だ」


「本気で!? じゃ、まさかこのベーグルも……」


「僕もつくれるけれど、これは朝の散歩のついでに買ってきたんだ。朝6時から開いていて、焼き立てベーグルが買える店が近くにあるから」


 わたしはもう少しでガクガクブルブルきそうになった。果てしなくグッドルッキングでスタイルもよく、大手企業のエリート。身のこなしに品があって、センスよく、優しく、朝の散歩を嗜んで、さらに料理までこなすなんて……、これは現実じゃない、ありえなさすぎる。


 そして、さらに信じられないことに、そんな完璧な人物がわたしの夫なのである。期間限定だけど。


 だけど期間限定ということは、1年経ったらわたしはこの味がもう食べられなくなるのか。


 巧みな餌付けテクニックにより蓮さんの手中に落ちたわたしは、すでに彼のご飯が食べられない将来を思って少しさみしくなっている。まるで、自分の好みドンピシャの定食屋さんを見つけたとたん、そこの大将に「1年後に店を閉めようと思ってるんですよ」と言われたかのような……。


「よかったら、ポタージュのおかわりどう? ベーグルもまだあるよ」


 蓮さんが、鍋を手にとって微笑む。


 でも、1年はまだ始まったばかりだ。この関係が終わるまで、この人がつくるいろいろな料理を食べて――この人のことを知れたらいいな。


 わたしはそう思いながら、「お願いします、大将!」と、空になったスープカップを蓮さんに差し出した。


 蓮さんは「なんで大将?」と笑いながら、わたしからカップを受け取った。

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