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第9話

 タクシーでテラスハウスに戻ったのは、21時を少し過ぎた頃だった。


 ソムリエが選んだ中南米料理とワインのペアリングが絶妙で、普段あまりお酒を飲まない私は、つい飲みすぎてしまった。一方、ここでも蓮さんはお酒には手を付けず、ガス入りの水や、フルーツやスパイス、ハーブを使ったモクテルを注文していた。


 私をソファに座らせてから、蓮さんはキッチンに向かった。冷蔵庫を開ける音が響く。


「グラスで3杯飲んだだけなのに、結構酔ったみたいだね。お酒はそれほど強くないの?」


 冷えたミネラルウォーターをグラスに注いで、私に持たせてくれた。私の手にグラスが触れる瞬間、指先がかすかに蓮さんの手に触れ、一瞬、小さく電流が流れたような気がした。私はあわてて手を引っ込める。


「そういえば最初の割烹でも、日本酒が美味しいといいつつ、量は控えめにしていたよね」


「うん。お酒は嫌いじゃないけど、それほど飲めない」


 冷たいグラスを頬にくっつけると、肌が冷やされ、ひんやりと気持ちがよかった。


「蓮さんは、この間も今回も、全然飲んでなかったよね。お酒は飲まない人なの?」


 彼は少し悲しげに笑って、私の隣に座った。さっきより彼の体を近くに感じ、その存在が急に大きく感じられる。自分の心臓が、小さく跳ねるのが分かった。


「就職してすぐのころは人並みに飲んでいたけどね。今はもう止めたんだ」


 思考がだんだんと霧に覆われ、現実感がぼやけていく。どこか心地よい無力感に包まれる中、私は理性をたぐり寄せ、ぴったりくる単語を思い出そうとあがく。


「あー、あれね、ソバキュウリってやつ」


「ソーバーキュリアス」と、連さんは微笑を浮かべて言った。その声には優しさがにじみ出ていて、何だか心が温かくなった。


 私も小さい声で笑う。なんだか楽しい気分だ。ずっとこのまま話していたい。


 けれど、急に暗幕が降りるかのように睡魔が襲ってきた。ふらつきながら立ち上がり、手元がおぼつかないままグラスをローテーブルに置いた。


「……ねむい」


 私はすでに、夢と現実の狭間に入り込んでいた。私はソファに戻ろうとしたが、その瞬間、足元がふらついてバランスを失う。倒れそうなところで、蓮さんの腕が素早く私を支えてくれた。


 蓮さんの腕にしっかりと抱かれていることに気付いて、「ごめん」と言いながら体を起こした。蓮さんの筋肉質な体の余韻が残り、鼓動が速くなる。


「お茶でも入れてくるよ。ちょっと待ってて」


 蓮さんがキッチンに向かった。私はソファの背ににもたれかかる。彼がキッチンでお茶を用意する、カチャカチャという小さな音を聞いていると、何だか安心して、またしても睡魔が襲ってきた。


 ああ、ちゃんとベッドで寝なきゃ……。連さんの前で寝落ちなんて……。


 だけど、そうだ。ベッドにはまだシーツも敷いていない。レストランから帰ってきたらやればいいと、買ったばかりのシーツをベッドの上に投げたままだった……。


 眠りと覚醒のはざまに存在するのは、ネバーランドだっけ……。私は今にも消えそうな意識の中、ふとそう思った。だとしたら、私も今、ネバーランドにいるのかな。ふわふわして、なんだかとっても気持ちがいい場所だ。


 隣に誰かが座り、その重みで私の体が傾いて、肩にもたれかかった。心地よいぬくもりと、太陽をたっぷり含んだ木綿のようないい香りに包まれて、一瞬で安らぐ。私はそのぬくもりを優しく抱きしめて、息を深く吸い込んだ。


 ああ、手帳にメモしたい。覚えておきたいな、この匂い……。


 心の中ではそう思うけれど、体はもう動かず、意識はどんどん遠くへと流れていく。バッグから手帳とペンを出すこともできないまま、柔らかな温もりに包まれて、私は自然と目を閉じた。


 夢の中で……もう少しだけ、蓮さんと話せたらいいのに。

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