蓮さんの提案で、夕食は中南米料理のレストランで取ることにした。私の引っ越し祝いも兼ねてくれるそうだ。
「出雲さま、お待ちしておりました」
タクシーが店の前で止まると、店内からウェイターが出てきて挨拶をした。ここも、蓮さん行きつけの店のようだ。
中南米料理と聞いてエスニックレストランのような店を想像していたけれど、蓮さんが連れてきてくれたのは、カジュアル寄りの高級といった感じの店だった。店内の雰囲気は軽やかで楽しげ、そしてホスピタリティにあふれている。最初の割烹のときも思ったけれど、蓮さんは店選びのセンスが抜群だ。
ラテン系のヘッドウェイターが流暢な日本語で私たちに挨拶をして、窓際の席に案内してくれた。
「君の性格だと、コースよりもアラカルトがいいと思ったんだけど、当たってる?」
「当たり!」
「それじゃ、好きな料理を選んでくれ。冷たい前菜のところに書いてあるセビッチェは必ず頼んで。ここのは絶品だから」
「ありがとう」
週末ということもあって、店はだいぶ混み合ってきた。最初のアペタイザーが運ばれてくるのと同じタイミングで、隣のテーブルに1組の男女が案内されてきた。何気なく目をやり、私は息が止まりそうになった。
今まさにメニューを広げようとしているのは、航と、『インスタント・グルーヴ』の編集者――航の恋人だ。
私は映画『ドント・ブリーズ』のように息を止めていたが、編集者が私たちのテーブルを見て「あら!」と声を上げた。その声につられて航もこちらを見て、ぎょっとした顔をする。
「出雲さんじゃない! すごい偶然ね!」
編集者は明るい声で、蓮さんの方に近づいてきた。蓮さんも立ち上がり、「浅川さん、その節はお世話になりました」と笑顔を浮かべる。
え、知り合い?
「あら、ステキな方とご一緒なんですね。今日はデートですか?」
蓮さんが曖昧に頷くのを見てから、彼女は私の方を向いて微笑んだ。まるで大輪のダリアが咲き誇ったかのように、周りが明るくなった気がした。
「私、『インスタント・グルーヴ』の
言い終わって、彼女はもう一度にっこり笑った。撮影のとき、モデルさんと間違えられてしまうのではと思うほど、きれいな人だ。
その隣で、航は眉をしかめて私を見ている。
私も立ち上がり、丁寧に一礼した。
「実は存じ上げております。わたくし、スタジオ・マンサニージャ制作部の椿井と申します。オフィスで浅川さんを何度かお見かけしたことがありまして……」
「あら、それじゃ、航の同僚?」
航がやや気まずそうに頷く。
「偶然ってすごいわねぇ」とつぶやいてから、浅川さんはまた蓮さんの方を向いて、航の肩に手をのせた。
「出雲さん、こちらの彼、誰だかわかる? 日本のエンターテインメント界の期待の星よ」
「と、いいますと?」
やめて欲しいというように、航は眉をしかめて顔の前で手を振る。それに構わず浅川さんは、よりいっそう華やかなダリアの笑みで続けた。
「この間放送されたドラマ『田舎の生活』、原案と脚本を手掛けたのはこの彼なのよ!」
蓮さんは目を見開いた。
「『田舎の生活』の脚本ですか。ということは、安斎さん?」
「大正解! さすがエルネスト・エンタープライズの若きチームリーダー!」
浅川さんは、拍手せんばかりの勢いで蓮さんを誉めたたえる。
「航、こちらはかのIT企業、エルネスト・エンタープライズにお勤めの出雲さん。守秘義務があるから詳しくは話せないけど、このタイミングでご挨拶できるなんて、あなた、とってもラッキーなのよ」
守秘義務? このタイミング?
少し引っかかったが、蓮さんは平穏な笑顔のまま、航に話しかけた。
「安斎さん、『田舎の生活』は素晴らしい脚本でした。見終わったあと、なんというかな、青空を背にしたひまわりを見た後のような残像が浮かびました」
青空を背にしたひまわり……。
私は嬉しさで自然と笑顔になり、それがバレないように下を向いた。蓮さんは航の作品を褒めたのだけど、実際にあの脚本を書いたのは私だから、心の底から嬉しくなる。
航はさらに気まずそうな顔になって、ちらりと私を見る。
「……ありがとうございます」
「それから『田舎の生活』の冬のエピソード、豪雪地帯に生きるというテーマが、僕の中でとても響いたんです。安斎さんも、雪が多い地域のご出身なのですか?」
蓮さんは嬉しそうに質問した。
「……いえ、神奈川です」
「そうなのですか。だとしたら、描写がとてもリアルで感動しました。さぞかし取材を多くされたのでしょう……」
「もういいですか!?」
蓮さんの声を遮るように、航は声を荒げた。
蓮さんも、浅川さんも、私も、その声に驚いて口をつぐんだ。さっきまでの和やかな雰囲気を押しのけて、緊張感を含んだ空気が、私たちの間に流れ込む。
「……すみません、僕たちは食事に来たので、話はこれくらいで……」
自分でその空気をつくったにもかかわらず、航は耐えきれなくなったように謝った。そしてウェイターを呼ぶ。
「席を変えてください」
「航! 失礼よ」
浅川さんは航の袖を引っ張る。航はその手を振り払うように踵を返して、ウェイターについて行った。
「ごめんなさい、出雲さん。いつもはあんな人じゃないんだけど」
困惑したような笑みを浮かべて、浅川さんも航の後を追った。
――そうか、航はあんな思いをしているのか。
私たちから離れていく航と浅川さんの背中を見送りながら、私は静かに考えた。『田舎の生活』の脚本を自分の名前で発表したことで、彼が得たものは大きかったかもしれない。ただし、失ったものも想像以上に多かったのだろう。
航は気鋭の脚本家として脚光を浴びつつも、浅川さん以外の取材を断っている。社内でも、その作品について語ることはほぼなかった。それはきっと、今のように物語の詳細やシーンの背景について聞かれたときに、ボロが出てしまうからなのだろう。
だとしたら、デビュー作が話題になっているというのに、彼はドヤ顔ひとつできないのかも。疲れるだろうな。もちろん同情なんてしないけれど。
私はその考察を手帳に書きたかったが、なんだか気分が沈んだのでやめておいた。この気持ちを文字にして残したくないような気がしたのだ。
「どうしたんだろう、安斎さん」
蓮さんが着席し直しながら、少し心配そうに言った。
「さぁ、……心配ごとでもあるのかもね。それよりも、お料理を食べましょう」
私は話題を変えるように、グリル野菜のピカディージョ・サラダを指差す。
彼は少し考えるような顔をしていたけれど、ふっといつもの笑顔を取り戻してフォークを手に取った。
「そうだね、食べようか。最初に来たのが冷たいアペタイザーでよかった」
蓮さんの優しい笑顔に、私もつられて笑う。今はただ、この穏やかな時間を大切にしたい、そんな気持ちになった。