3週間後の土曜日、私たちは一日かけて引っ越し作業を行った。
「荷物、意外と少ないんだね」
私のアパートの部屋に置かれた、運び出されるのを待っている3箱の段ボールを見て、蓮さんが驚いたように言う。
「片付けが苦手って聞いてたから、正直、テレビで見るような散らかった部屋を想像してたんだ。でも、これなら普通の人より少ないくらいだね」
そんなことまで想像していても結婚を決めた蓮さんの度胸には関心する。
「あのね、私は忙しいと片付けを後回しにしちゃうだけで、手放すことに関しては結構思い切りがいいんです。ちなみに、エアコンのリモコンも無事に見つかりました」
自慢げに言った後、ふと申し訳ない気持ちになった。
「でも、ごめんね。これくらいならタクシーでも運べたね。せっかくの休みの日を、引っ越しの手伝いに使わせちゃって」
「全然構わないよ、今はそんなに忙しくないし。もう少ししたら忙しくなるけどね」
蓮さんは、大手IT企業「エルネスト・エンタープライズ」でチームリーダーを務めている。ITからエンターテインメントまで総合的に手掛けており、上場企業として業績は順調。待遇や福利厚生の充実ぶりからホワイト企業として有名で、毎年、就職活動中の学生が殺到するほどの人気ぶりである。
彼は、私より3歳年上の30歳。その若さでチームリーダーに就いているということは、将来を嘱望されるエリートなのだろう。
ホワイト企業か……羨ましい。私の職場は残業が常態化していて、定時に帰った記憶なんてもうずいぶん昔のことだ。まさに天国と地獄。
しんみりしていると、蓮さんが一番上の段ボールを手に取った。
「さあ、まずは引っ越しを済ませよう。君の部屋もちゃんと用意してあるよ」
上流階級の雰囲気が漂う蓮さんだから、きっとタワーマンションの上層階あたりに住んでいるのだろう。ドラマみたいなマウント合戦が繰り広げられる世界かもしれない。でも、それも脚本の素材になるかも――。そう考えていた私の予想は、心地よく裏切られた。
都心にありながら、街路樹が短い間隔で植えられている落ち着いた環境のエリアに立つ、メゾネットタイプのテラスハウス。そこが、蓮さんの住まいだった。
部屋は南向きで、こぢんまりとした庭には落葉樹が柔らかな木陰を作っている。その光景は、どこか秘密基地を思い出させた。自立式ハンモックが置かれていて、そこで読書を楽しむ蓮さんの姿が目に浮かぶ。緑が多いせいだろうか、リビングの窓を開けると、都会とは思えないほど心地よい風がそっと吹き抜けていった。
室内は、まるでモデルルームのようにすっきりと整っていた。キッチンは作業効率を重視したアイランド式で、見たこともないハーブや調味料が、使い込まれた洋書のレシピブックと一緒に、造り付けのシェルフにきちんと並んでいる。キッチンとダイニング、リビングは一続きの空間になっていて、倉本先生のオフィスくらいの広さがありそうだ。
リビングの大きなテラス窓は庭に面し、横のフォールディングドアは縁側へと繋がっている。都会の真ん中だというのに、まるで避暑地の別荘にいるような感覚だ。私は思わず、その風景に見とれてしまった。
「気に入った?」
最後の段ボールを運び終えた蓮さんが、笑顔で声をかけてきた。
「とっても! 外と内との境界線が曖昧な家、すごく好きなの」
こんなところに1年間も住めるなんて、まるで夢のようだ。蓮さんを拝みたい気持ちすら湧いたが、さすがにそれはやめておいた。変な行動は控えよう。
蓮さんは段ボールを私の部屋に置くと、肩に掛けたタオルで汗を拭きながら私の隣に立った。その仕草がやけに色っぽく見えて、なんだか少し意識してしまう。
「境界線が曖昧……いい言葉だね。昔の家もそうだった。古民家は柱で支えられていて、ふすまや障子で空間を区切っていただけ。確か、『田舎の生活』でも、君が言ったような表現が出てきたな」
その言葉にドキッとして、思わず彼の横顔に視線を移す。
蓮さんには、この脚本を書いたのが私だということは話していない。結婚を決めたあの日、私は『田舎の生活』のことをひとまず心の奥へしまい、新たな脚本へ進むことを決心したのだ。
だけど、いつか――。
『田舎の生活』を好きでいてくれている蓮さんに、いつか伝えたい。ゆったりと蛇行する大きな川や、古民家が点在する田園風景、そしてそこに暮らす人々の物語は、私の生まれ育った町そのものだということを。