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第7話

 3週間後の土曜日、私たちはまる1日かけて引っ越し作業を行った。


「荷物、意外と少ないんだな」


 わたしのアパートの部屋に置かれた、運び出されるのを待っている3箱の段ボールを見て、蓮さんが驚いたように言う。


「片付けられないって言ってたから、たまにテレビで見るようなゴミ屋敷的な部屋を覚悟していたんだけど、これじゃ普通の人より少ないくらいだ」


 そこまで想像しているのに結婚してくれるなんて、蓮さんはなかなかメンタルが強そうだ。


「あのね、わたしは忙しいと片付けを後回しにしちゃうだけであって、手放すことに関しては、結構思い切りがいいんです。ちなみに、エアコンのリモコンも無事見つかりました」


 わたしはちょっと自慢げに言ってから、ふと申し訳ない気持ちになった。


「でもごめん、これくらいならタクシーでも運べたね。車も出してもらっちゃって。せっかくの休みの日が、引っ越しの手伝いで終わっちゃう」


「それは構わないよ、今はそれほど忙しくないから。もう少ししたら、今より忙しくなると思うけど」


 蓮さんは、日本を代表する大企業の関連会社である、大手のIT企業でチームリーダーをしている。子会社とはいえ、蓮さんの会社もプライム市場に上場しており、業績は安定して伸びているうえ待遇や福利厚生が充実。ホワイト企業として有名で、毎年多くの学生が就職活動中に殺到する会社だ。


 蓮さんは、わたしより2歳上の30歳。その年で管理職ということは、彼はかなり将来を期待されているエリートなのだと思う。


 ホワイト企業、羨ましい……。わたしの職場環境とは、まさに天国と地獄ほどのの差だ。


 ひとりでしんみりしていると、蓮さんが一番上の段ボールを持った。


「さぁ、とりあえず引っ越しを済ませよう。君の部屋も用意してあるから」







 ハイソな雰囲気がにじみ出ている蓮さんのことだ。タワマンの上層階あたりに住んでいるのかな、ドラマみたいにマウントの取り合いに巻き込まれたら嫌だな、でも脚本のヒントになるかな、などといろいろ考えていたが、想像はいい方に裏切られた。


 都心であるにもかかわらず、街路樹が短い間隔で植えられている落ち着いた環境のエリアに、メゾネットタイプのテラスハウスが立っている。そこが蓮さんの住まいだった。部屋は南向き。常緑樹が木陰をつくる秘密基地のような小さな庭と、広めの縁側まで付いている。自立式ハンモックを置けば、外で読書が楽しめそうだ。緑が多いエリアだからか、リビングの窓を開けると、ビル風とは違った涼しい風が吹き抜けていった。


 室内は、まるでミニマリスト仕様のモデルルームのようにスッキリしていた。キッチンは作業効率を重視したアイランド式になっており、見たことのないハーブや調味料が、造り付けのシェルフにきちんと収納されている。キッチンとダイニング、リビングは一続きの部屋になっていて、倉本先生のオフィスくらいの広さはありそうだ。


 リビングの大きなテラス窓は庭に面し、横のフォールディングドアは縁側に通じている。都会の真ん中だというのに、まるで避暑地の別荘のような雰囲気で、わたしは思わず見とれてしまった。


「気に入った?」


 最後の段ボールを運びながら、蓮さんが聞いた。


「とっても! 外と内との境界線が曖昧な家、好きなの」


 こんなところに1年間も住めるのは、本当にありがたいことだ。わたしは蓮さんを拝みたいくらいの気持ちだったが、やめておいた。変な人っぽい行動は減らそう。


 蓮さんは段ボールをわたしの部屋に置くと、肩に掛けたタオルで汗を拭きながら、わたしの隣に立った。


「境界線が曖昧……、いい言葉だね。それこそ昔の家には、境界線がなかったよね。古民家は柱で建てられていて、ふすまや障子で区切っているだけ。確か『田舎の生活』でも、君が言ったような表現が出てきたな」


 ドキッとして、彼の横顔を見た。蓮さんには、この脚本を書いたのがわたしだということは話していない。結婚を決めた日、『田舎の生活』のことはひとまず忘れて、次の脚本に進むことを決心したのだ。


 だけど、いつか……。


 『田舎の生活』を好きでいてくれている蓮さんに、いつか知ってほしい。大きな川がゆったりと蛇行する景色や、古民家が点在する田園風景、そして作品に描かれている家族や友人とのやり取りは、わたしの生まれ育った町の物語だということを。

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