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第6話

 質問……。この人に、聞きたいことは……。


「なぜ、そんなに急いで結婚しなければならないんですか?」


 彼はゆっくり瞬きをした。一瞬、その目が冷たく光った気がした。昨日も垣間見た、すべてを拒絶するかのような冷たい瞳――。


 だけど、それはほんの刹那だった。すぐに、さっきまでの柔らかな笑顔が、何事もなかったかのように戻ってきた。


「……うちはいわゆる旧家でね、跡取り問題が常に付きまとっているんだ。兄は早々に逃げてしまって、僕に見合い話が来るようになった。だけど、家のために結婚させられるなんて、正直耐えられない」


 その言葉に、私は頷いた。私の田舎でも、たまにそういう話を聞く。時代遅れだとは思うけれど、現実にまだ残っている問題なのだ。


「でも、それって結局、家のための結婚と変わらない気が……」


「そう、だからこそ、1年間の契約結婚でどうだろう。ほとぼりが冷めるまでの間だけでいいんだ」


「はぁ?」


 あまりに唐突な提案に、思わず声が出てしまった。


 そういえば、さっき蓮さんは「1年間」がどうとか言っていた気がする。でもその時、茄子なす田楽でんがくのあまりの美味しさに、私の感覚はすっかり支配されていて、蓮さんの言葉は正直あまり耳に入ってこなかった……。


「結婚とはいっても、もちろん寝室は別だ。主寝室は君に譲るよ。僕は家事全般が得意だし、忙しいときには家事代行に頼むことにしている。君は家賃も生活費も払わなくていいし、家事からも解放される。どうだい、悪い話じゃないだろう?」


 蓮さんの提案を聞いているうちに、その生活をイメージしてしまっている自分がいた。家事の必要がなく、家賃もかからない。仕事が忙しくなっても、家に帰ると温かい灯りと食事が待っている。……確かに、悪くないように聞こえる。


「でも、私、家事が好きかもしれませんよ? 今だって、一人暮らしのアパートで、料理や掃除、洗濯を楽しんでいるし、不満なんて特に……」


 蓮さんは見透かしたように笑い、首を振った。


「さっき、『ほとんど家に帰れなくて、レトルトとコンビニ弁当で生きてる』って話していたじゃないか。それに、『片付ける時間がなくてエアコンのリモコンが見つからない、冬をどうやって乗り切ろう』とも」


 そんなこと……確かに言ったかも。美味しい料理を前にすると、つい喋りすぎてしまう。これが私の悪いクセだ。


「それに、僕が家事を引き受ければ、君は家でシナリオを書く時間を作れるだろう?」


 うん。それは確かに、そうだ。


 思わず両手で顔を覆った。料理が美味しすぎて、お酒を飲みすぎた自覚はある。普段なら、酔った状態で重要な決断はしないし、明日になればきっと、私はこの提案にノーと言うだろう。


 だけど……。


――悔しかったら、あの作品を超えるものを作ってみろ。それができるのなら。


 ふと、航の声が耳に響いた。こんなに傷ついた夜だからこそ、できる決断があるのかもしれない。


「もちろん、返事は今日じゃなくてかまわないよ。落ち着いて、少し考えてみてくれないか?」


 お会計のために女将を呼ぼうとした蓮さんを手で止めて、私は言った。


「もう一つだけ、質問してもいいですか?」


「もちろん」


「あなたの好きな映画、もしくはドラマは?」


 彼は一瞬驚いたような顔をして、それからまた少し笑った。


「君の質問は本当に予想がつかないな。映画かドラマ、そうだな……」


 私にとって、これが決断前の最後の審判。彼がもし、少しでも私の好みと違う作品を挙げたなら、迷わずノーと言おう。だけど、「それ大好き!」と心から言える作品だったなら、そのときは……。


「そうだな、最近見た『田舎の生活』。小さな配信会社のオリジナルで、これが一番好きというわけではないけれど……不思議と脚本に光るものがあって、気がつくと、いくつかのシーンとかセリフを思い出しているんだよ」 


 私の心は大きく揺れた。まさか、こんな答えが返ってくるなんて――。


 不意に、胸の奥から嬉しさが込み上げてきた。こんなに予想外で――それでいて心が弾むような答えを聞いた今日だからこそ、できる決断は確かにある。


 これが正しい選択かどうかは分からない。だけど、ほんの少しでも、新しい未来が見えてきたのなら……私はその流れに乗ってみたい。


 覚悟は決まった。私は静かに顔を上げて、まっすぐに蓮さんを見つめた。


「結婚しましょう」

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