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第3話

「あああああもう! どうしてあんなこと言っちゃったの、私!」


 翌朝、わたしはいつもよりも早く出社した。誰もいないオフィスでデスクに突っ伏して嘆く、ただそれだけのために。


「わたし、変な人じゃん、近寄っちゃだめな人じゃん!」


 資料のファイルで頭を覆って「あああ!」と呻きながら自分をバシバシ叩く。どれだけ自分を痛めつけても、恥ずかしさも後悔も、ちっとも薄れない。


 都心から少し離れた、緑豊かで閑静な住宅街。通りには、細部までこだわってデザインされたカフェやベーカリーが点在し、ハイブランドのシャツをさり気なく着こなしたビジネスパーソンたちが、コーヒーを飲みながらパソコンを覗き込んでいる。いまだベッドで眠りに包まれる世の大半の人たちを尻目に、機能的なシューズを履いたジョガーたちが、軽やかな足取りで街を駆け抜けていく。


 わたしが働く「スタジオ・マンサニージャ」は、そんな洗練された「意識ハイエンド」なエリアに立つ、3階建てのオフィスビルの中にあった。シンプルながらも計算し尽くされたデザインの建物で、コンクリート打ちっぱなしの壁にアイビーが差し色のように這う、倉本先生自慢の自社ビルだ。


「クリエイターたるもの、ごちゃごちゃした空間ではアイデアに恵まれることはない」。それが倉本先生の信条で、外観と同じくオフィス内部にも徹底したシンプル主義が貫かれていた。オフィス内の差し色は倉本先生本人で、クロコダイルやゼブラなど奇抜……いや、個性的なファッションが、白を基調としたインテリアでいつも浮き立っていた。


 ――それにしても。


 スマホを取り出してLINEを開く。昨日までは存在しなかった、青空のアイコンが現れた。その右側にはRen Izumoという文字。


 ――どうしてあの人は、即答で断らなかったのかな……。







「わたしと……結婚して」


 確かに、そのときはそう思った。100歩譲って、思うだけならタダ、全然オッケーだ。だがしかし、そのときのわたしは、はからずしもその思いを言葉にしてしまった。


 プロポーズの次の瞬間、わたしは我に返った。勢いよく立ち上がり、直立の姿勢になって両手を必死で振る。


「あの、違うの、母親から結婚しろってLINEが来てたから思わず言っちゃっただけであって、と、とくに意味のない言葉なの!」


 わたしは全身から変な汗が吹き出すのを感じた。言い訳になってる? なんか、恥の上塗りになってる気もするけれど。


 しどろもどろになって取り繕うわたしを前に、その人は小首をかしげて、何かを考えるような表情になった。


 冷たいほどに整った顔と、落ち着いた瞳――まるで、頭の中で何かのシミュレーションをしているかのようだ。


「ほんと、すみません、助けてくれてありがとう! じゃ、わたしはこれで……」


 踵を返そうとしたとき、彼の大きな手がわたしの手を取った。冷たい外見とは反対にその手は温かく、わたしの心臓は跳ね上がる。


 そして、予想外の言葉が続いた。


「結婚の前に、まずはお互いを知ることから始めませんか?」


 ――は?


 そのあとのことは、断片的にしか覚えていない。近くのシアトル系カフェに誘われたが、徹夜続きでグロッキーな上、さっきのプロポーズの羞恥からまだ立ち直れていなかったわたしは、顔を真っ赤にして「無理、無理です!」とつぶやき続けた。


 彼は気にする様子もなく、「じゃ、後日、改めて」と言ってLINEの画面を見せてきた。交換しようということらしい。


 それからどうやって帰ったのか覚えていないが、気づけば一人暮らしの部屋の真ん中に座り込んでいた。


 耳に残る「明日連絡します」という澄んだ声と、何よりこの見慣れないLINEアカウントによって、その出来事が妄想ではないということを思い知らされる。


「まぁ、LINE交換したとしても、連絡なんて来るわけないけどね」


 わたしは自分に言い聞かせるようにつぶやく。


 そう、ドラマのような出会いなんて、現実にはそう転がっていない。


 ふと思いついて、バッグから手帳を出した。「ある日突然、見覚えのあるLINEアイコンが現れた。興味本位でメッセージを送ると、相手は過去の自分だった」と書き記す。


 よし、シナリオのヒントになるかもしれない。昨日の失敗も、こうしてネタにできたぞ。


 失敗しても、そこから何かしらネタを得ることができるのなら、自分に起きていることは何ひとつ無駄にはならない。それがわたしの座右の銘だ。ちょっと長いけど。


 やっと気持ちに折り合いがついて、わたしは顔を上げた。今日も脚本の仕事がわたしを待っていて、それはとても幸せなことだと自分に言い聞かせる。


 その時、ドアが開く音がした。振り返ると、イタリアンブランドのジャケットをラフに着こなした安斎航が、こちらを見つめて立っていた。


「おはよう」


 航が何も言わないので、わたしから声をかける。


「……おはよう。早いな」


「今日は取材じゃないんだね。スーツじゃない姿、久しぶりに見たよ」


 言ってから、嫌味に聞こえたかなと後悔する。わたしには多少の嫌味を言う権利があるとは思うけど、今はただ、昔みたいに普通に話がしたいだけ。


「あ、ああ。今までは取材する側だったから、取材されるのはなんか変な気分だよ。脚本を褒められるのも、まだ慣れない」


 心の隅っこに芽生える、モヤッとした気持ち。


 いかんいかん。話題を変えなきゃ。


「今度また『インスタント・グルーヴ』でインタビューがあるんだって? あの雑誌、おしゃれだよね」


 わたしとしては、航が喜ぶと思って振った話題だったが、彼は少し唇を歪めて、こちらを見た。


「……悪かったと思ってるよ。その、俺の方から付き合ってとか言っておきながら、結局『イングル』の担当編集の子と付き合うことになったりとか……いろいろ環境が変わっちゃって」


「何それ? そんなこと考えてないよ」


 航のその言葉に、わたしは少し不愉快になる。わたしが航に対して怒っているとすれば、もっと別のことだ。心の奥に隠していたモヤモヤが、えぐり出される気がした。


「そんなつもりで言ったんじゃないし、第一、わたしに謝るべきはそこじゃないでしょう」


 航は、うんざりしたように首を振った。


「他に何を謝れって? 『田舎の生活』のことか?」


「そうよ、あれはわたしの」


「あれはもう俺の作品だ!」


 怒鳴りつけられて、わたしはビクッと萎縮した。


「悪いけど、あれはもう俺の作品だ。考えてみろよ、もしあの作品が薫の名前で出ていたら、それほど、いや、まったく反響はなかっただろうよ。それくらい微妙な作品なんだよ!」


 航は一呼吸置いてから、開き直ったようにわたしを睨みつけた。


「俺の取材とセットだったから、この脚本を採用しようということになったんだ。この作品だけを持ち込みしたって、すぐにはねのけられてたはずだ!」


 なにそれ、ずるい。


 わたしが自分の作品に自信を持てないでいることを、航は知っている。それを利用して、彼はわたしを一瞬で黙らせることができる。


「……だからといって、わたしの書いた脚本を盗んでいいことにはならない」


 その言葉には耳を貸さず、航は私の横を通り過ぎ、まだ誰も出社していないオフィスへ向かう。


 すれ違いざま、彼はわたしの耳元でささやいた。


「悔しいなら、あの作品を超えるものを作ってみろ。それができるなら」

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