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第2話

 締め切りまであと24時間、わたしのパソコンの周りには、エナジードリンクの空き瓶が散乱していた。


 シナリオは9割がた完成した。うん、なかなかいいペース。この調子なら今夜は終電前に帰宅して、ゆっくりお風呂に浸かって、ちゃんとベッドで眠れそうだ。それで明日9時に出社して推敲すれば、締め切りより何時間か早く提出できるはず。


 けれど今、セリフの続きを打ち込もうとしても、言葉が出てこない。目と脳が限界に達しているようだ。


 埒が開かないので小休止を入れようと、わたしは休憩用のコモンスペースに向かった。「さすがにカフェイン摂り過ぎだな」と、ひとりごちながら急須でほうじ茶を淹れていると、コーヒースタンドのタンブラーを片手に、ゼブラ柄のシャツに身を包んだ倉本先生がやってきた。


 つばの大きなリゾート向けのストローハットと、顔の半分くらいありそうな大きなサングラス、そしてどこで買ったのか、クロコダイル柄のアームカバーをしたままで、オフィスに着いたばかりのようだ。


「あらぁ、椿井ちゃん。おはよ」


 社内での挨拶は、何時であっても「おはよう」と決まっている。わたしは頭を下げた。


「おはようございます、倉本先生」


「シナリオの進行はどう? 『きみの愛だけは失くせない』第9話」


「あと少しで書き上がります。あとは一度、チェックしてから提出しますね。明日18時の締め切りより早く出せると思います」


 先生はコーヒーに口をつけながら少し考えて、とても良いことを思いついたように明るく言った。


「それなら、明日の朝イチでお願い」


 予想外の言葉だったので、わたしは一瞬、目を見開いたまま凍りついた。


 わたしは先生の言葉を反すうした。聞き間違い? 明後日の朝イチでいいわよの間違い?


 いや、先生は確かに、明日の朝イチと言った。そして、先生は笑顔で前倒し指示をしてくる人だ……。


「でも、先生、明日の18時ということだったので、そのつもりで作業を進めてたのですが」


 先生の顔から一瞬で笑顔が消え、和製ホラーに出てきそうな能面のような表情になる。氷点下の無表情で首をやや後ろにかしげ、わたしを見下ろすような視線を向け、大きなため息をついた。先生が不機嫌をアピールするときのポーズだ。


「……椿井さんに説明する義務はないんだけどさぁ」


 能面のようでいて、その目には苛立ちの感情が溢れている。


「明日、雑誌の編集長と食事会があるのよ。次号インタビューの打ち合わせも兼ねて。だから、『きみあい』のチェックはチャチャッと終わらせたいの。わかる?」


 倉本先生は、おろしていた右手をわたしに向けて翻してみせた。まるで、今すぐ出せというようなしぐさだ。


「明日の朝イチ、9時までにデータを送信してね。1分でも遅れちゃだめよ」


 わたしは唇を噛みながら、「はい」と返事をした。他に選択肢は無い。


 倉本先生は光の速さで機嫌をなおして満面の笑みをうかべ、


「分かったならいいのよ。椿井ちゃんには期待してるんだから」


 そう言い残して去っていった。


 ――薫はそれでいいの?


 友記子の言葉が頭に響く。


 いいわけない。


 でも、今諦めたら、夢は夢のままじゃん。


 わたしはまぶたをもみほぐしながら、デスクに戻った。


 急須の中に入ったままのほうじ茶のことを思い出したのは、その日の深夜。結局家には帰れず、目をしょぼしょぼさせながら推敲をしているときだった。







 開けない夜と終わらない仕事はないと、誰かが言っていた。


 その法則は真理で、わたしの仕事も朝8時に完了した。


 データを倉本先生へ送信したあと、私はよたよたと歩いて駅へと向かった。『きみあい』の第9話は終わったが、すぐ後ろには第10話が控えている。だけど今は家に帰ってシャワーを浴び、1時間でもいいから自分のベッドで眠りたかった。


 足早に歩く出勤中のサラリーマンの群れに逆走しながら駅へ向かう。エディターズバッグからスマホを取り出すと、ランプが点滅していることに気付いた。新着LINE、母さんからだ。


――調子はどう? 小学校が一緒だった隣のゆうちゃん、結婚が決まったみたい。薫はどうなの? シナリオライターなんかなれるわけないんだから、この間のお見合いの話、受けてみたらどう――


 全部読み終わる前に、私はスマホの画面を消した。


 LINEの文面を読み上げる母の声を聞いていたような気分になり、疲労感がさらに重くのしかかってきた。


 とにかく寝て、後のことはそれから考えよう。どうかどうか、電車が空いてますように。ゆっくり座れますように……。


 駅の改札への階段を上がろうとしたとき、ビルの隅でろれつの回らない怒号が聞こえた。目をやると、朝だというのに見るからに泥酔しているサラリーマンが、出勤途中と思われる女性の腕を掴んでいた。


「や、やめてください!」


「うっせーな! おめぇ、俺のこと見てただろうよ、ああんっ?」


「見てなんかいません、離して!」


 女性は涙声になっている。


 ぐるりと回りを見ると、みんなチラチラみているだけで、誰も間に入ろうとしない。


「どうせお前もよぉ、俺のことくだらねぇ酒浸りだと思って見てたんだろう、どうなんだゴルァ!」


 ああ、こういうの黙っておけない。


 わたしは2人にツカツカと近づき、「やめなさい!」と言って酔っぱらいから女性を引き離した。自由になった女性は、振り返りもせず逃げていく。


「あんだぁお前は。何してくれてんだよ、俺ぁあの女と話してたんだよ!」


 酔っ払いは、今度はわたしの手首を掴んできた。折れそうなほど痛い、すごい力だ。


「離して!」


 男はますます力を強めてくる。寝不足の脳に酒の匂いが到達し、頭がクラクラした。吐き気までこみ上げてくる。


 誰か警察を呼んで! そう叫ぼうとした瞬間。


 男の身体がわたしから引き離されて、鈍い音を立てて後ろに弾き飛ばされた。


 何が起こったのかわからず、恐怖で目を閉じたままでいると、大きな手がわたしの肩にやさしく触れた。


「大丈夫ですか?」


 恐る恐る目を開ける。そこに立っていたのは……息を呑むほど美しい男性だった。


 彫刻のように整った顔立ちで、長いまつ毛が影を落とす瞳は、宇宙のように深い色をしていた。細身でありながら引き締まった体つきと、高身長が際立って、まるで……映画のワンシーンから飛び出してきたかのようだ。


「怪我はないですか?」


 彼はそう言いながら、わたしの顔を覗き込む。わずかに癖のある黒髪が額の上でゆっくりと揺れ、彼をさらに魅力的に彩った。わたしは思わず息を呑んだ。


「ちくしょう、覚えてろ!」


 鍛えていそうなその男性を見て、勝ち目がないと悟ったようで、酔っぱらいはクリエイティブでない捨て台詞を残して去っていった。


 助かったと思い、緊張が解けて足の力が抜けそうになる。


 男性が素早く腕を回し、わたしを支えた。彼の顔がさらに至近距離になり、さっきとは違う意味で頭がクラクラする。


「本当に……大丈夫?」


 わたしはただ首を縦に振るしかなかった。シナリオでは恋愛の上級キャラを描いていても、こんなに魅惑的な人との出会いが実際にあるなんて、想像もしていなかった。


 そう、わたしはそのときまで忘れていた。誰かにときめくことが、こんなにも甘く切ない気持ちになるものだということを。


「怪我がないようなら、これで」


 彼は踵を返そうとした。思わずわたしは、そのスーツの裾をつかんでしまった。


 なぜあのとき、あんな言葉が口から出たのか。わたし自身のことなのに、今だに理解できないでいる。


 それでもわたしは確かに言った。言ってしまった。







「わたしと……結婚して」

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