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#34 simple


 そのドアを叩くと、カリカリとペンを走らせる音が聞こえた。

「……入るぞ」

 その呼びかけにも、反応しているのかわからなかった。

 両開きのドアを押して開けると、ようやく彼女も気づいたようで、こちらに顔を向け睨み付けてくる。

「どうしたんですの……奉景さん」

「顔赤いじゃねぇか。無理したってどうにもなんないぜ、朔月。――コーヒーでも入れようか」


 灼苑のメイド、芹矢は紅茶の国――たぶん「向こう」で言うイギリス的な国出身らしく、紅茶やコーヒーなどに詳しいそうだった。

「だから、あいついいコーヒーの仕入れ先を知っててさ」

「……その豆挽き機ミルはどうしましたの?」

 目の前の彼女――朔月は、そう言いつつ俺の手つきを眺めていた。

「カトルに頼んで輸入してもらった。いやー、人脈ってすげえや」

 ごりごりとハンドルを回して、豆を粉にしていく俺。厨房。辺りには特有の香ばしい香りが漂う。

「コーヒー、好きなんですの?」

「ああ。……淹れてると、ちょっとだけ心が安らぐんだ」

 沸いたお湯。泡が収まるまで待ち、注ぎ口が細いポッドに移し替え、ドリッパーにフィルターをセットし、その中に粉を入れる。

 そして、粉にお湯を落とすと、一気に香りが華やいだ。

「いい匂い、ですわ」


 マグカップの中には濃い褐色の液体。

「……なんか意外ですわね。こういう、お洒落な雰囲気の……あなた」

「そうかな。普段どう思ってんだよ、俺のこと」

 笑いながら告げると、彼女は少しだけ咳き込んだ。

「無茶すんなよ。……身体、よくないんだろ?」

「な、なんでわかるのですの? 私はこの通り、元気ですわよおーっほっほゲホゲホッ」

 彼女はらしくない笑い方をしようとして、大きく咳き込んだ。

「……あの場で、俺と同じお茶を――毒を飲んだんだもんな。俺と同じく、風邪のような症状が出ていると考えるのが自然だ」

「そう、ですのね」

 言いつつ、彼女はため息をついた。


「……なんで、絵を描いてるんだ?」

 ふと気になって、口をついて出た疑問。

 彼女はノータイムで、笑いながら答えた。

「考えたこともありませんわ。なんででしょうね」

 ……俺は唖然として……首を少し横に振った。

「どうしてこんなに具合が悪くても、絵を描いていられるんだ?」

「具合が悪いことは、描かない理由にはなりませんわ」

 さも当たり前のように言ってのける彼女に、俺は戦慄する。

 ……やっぱ、俺って偽物なんだ。

 そう、確信できた気がした。


「……このコーヒーには、毒消しを仕込んである。飲んでくれ」

 願いの力で生み出された――転生ポイントを交換して作った、二つと無いその薬。お湯に溶いて仕込んでいた。

 けれど、彼女は「いりませんわ」と答える。

「風邪なんて気合いで治しますわ。そもそも、風邪でも絵は描けますの。それよりも――」

 言い訳なんて聞かず、俺はコーヒーを口にひとくち含み。

「――んぅっ」

 彼女の唇に、自分の唇をつけた。


 目を見開いた彼女。しかし、俺の目を――真剣な眼差しを見て、目を細める。

 呼吸を止めて一秒。口移しで飲ませるコーヒー。

「……っ、は」

 すぐに離した唇。呼吸音だけの空間。

 ――涙目の朔月。俺は間違いを悟った。


 偽物ごときが出しゃばってはいけなかった。……「俺」は彼女の「お姉さま」ではない。

 同じ姿をした別人。偽物。中途半端な模造品。代替品。気持ち悪いもの。

 いくら必死だったからとはいえ、唇を奪うなんて――彼女の想いを穢すようなことなんて、してはいけなかった。

「…………ごめん。――ただ、君に死んでほしくなかった。……それだけ」

 絞り出した言葉。朔月は。

「……必死、でしたのね。私のために」

 そう呟いた。


「……俺、帰るよ。今度こそ、原稿があるんだ」

 原稿を言い訳にして、逃げようとする俺。

 その服の裾を、彼女は握った。

 胸が締め付けられるような思い。それに任せて振り返ると。

 彼女の眼差しは真剣だった。……俺はそれを信じるように「どうした」と尋ねる。


「灼苑も、同じ毒を飲まされたと聞きますわ。……私を助けるのなら、あの子も助けてくださいまし」

「ああ。わかった」


 俺は目を細めた。

 安請け合いなのはわかっている。

 でも、助けないという選択肢はなかった。

 ――俺なんかよりも生きるべき人を、どうして助けずにいられるだろうか。


    *


 ――あつい。くるしい。

「灼苑様、水です」

 芹矢がかいがいしく世話を焼く。

 動こうにも動けない――動こうとしても、身体の節々が痛くて動けないわたしは、ただ世話されるばかりで。

 わたし、このまま死ぬのかなぁ。

 そんなことを思うと、少しだけ視界がぼやけて。

「……どうしたのですか」

「なんでもない。ただ、ただ――」


「死ぬのが怖いから、とか?」


 そこには、芹矢とは違う長身の女性が見えた。

「……いわないでよ、奉景おねえちゃん」

 視界がさらにぼやけた。

 頬にしずくが零れた。


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