そのドアを叩くと、カリカリとペンを走らせる音が聞こえた。
「……入るぞ」
その呼びかけにも、反応しているのかわからなかった。
両開きのドアを押して開けると、ようやく彼女も気づいたようで、こちらに顔を向け睨み付けてくる。
「どうしたんですの……奉景さん」
「顔赤いじゃねぇか。無理したってどうにもなんないぜ、朔月。――コーヒーでも入れようか」
灼苑のメイド、芹矢は紅茶の国――たぶん「向こう」で言うイギリス的な国出身らしく、紅茶やコーヒーなどに詳しいそうだった。
「だから、あいついいコーヒーの仕入れ先を知っててさ」
「……その
目の前の彼女――朔月は、そう言いつつ俺の手つきを眺めていた。
「カトルに頼んで輸入してもらった。いやー、人脈ってすげえや」
ごりごりとハンドルを回して、豆を粉にしていく俺。厨房。辺りには特有の香ばしい香りが漂う。
「コーヒー、好きなんですの?」
「ああ。……淹れてると、ちょっとだけ心が安らぐんだ」
沸いたお湯。泡が収まるまで待ち、注ぎ口が細いポッドに移し替え、ドリッパーにフィルターをセットし、その中に粉を入れる。
そして、粉にお湯を落とすと、一気に香りが華やいだ。
「いい匂い、ですわ」
マグカップの中には濃い褐色の液体。
「……なんか意外ですわね。こういう、お洒落な雰囲気の……あなた」
「そうかな。普段どう思ってんだよ、俺のこと」
笑いながら告げると、彼女は少しだけ咳き込んだ。
「無茶すんなよ。……身体、よくないんだろ?」
「な、なんでわかるのですの? 私はこの通り、元気ですわよおーっほっほゲホゲホッ」
彼女はらしくない笑い方をしようとして、大きく咳き込んだ。
「……あの場で、俺と同じお茶を――毒を飲んだんだもんな。俺と同じく、風邪のような症状が出ていると考えるのが自然だ」
「そう、ですのね」
言いつつ、彼女はため息をついた。
「……なんで、絵を描いてるんだ?」
ふと気になって、口をついて出た疑問。
彼女はノータイムで、笑いながら答えた。
「考えたこともありませんわ。なんででしょうね」
……俺は唖然として……首を少し横に振った。
「どうしてこんなに具合が悪くても、絵を描いていられるんだ?」
「具合が悪いことは、描かない理由にはなりませんわ」
さも当たり前のように言ってのける彼女に、俺は戦慄する。
……やっぱ、俺って偽物なんだ。
そう、確信できた気がした。
「……このコーヒーには、毒消しを仕込んである。飲んでくれ」
願いの力で生み出された――転生ポイントを交換して作った、二つと無いその薬。お湯に溶いて仕込んでいた。
けれど、彼女は「いりませんわ」と答える。
「風邪なんて気合いで治しますわ。そもそも、風邪でも絵は描けますの。それよりも――」
言い訳なんて聞かず、俺はコーヒーを口にひとくち含み。
「――んぅっ」
彼女の唇に、自分の唇をつけた。
目を見開いた彼女。しかし、俺の目を――真剣な眼差しを見て、目を細める。
呼吸を止めて一秒。口移しで飲ませるコーヒー。
「……っ、は」
すぐに離した唇。呼吸音だけの空間。
――涙目の朔月。俺は間違いを悟った。
偽物ごときが出しゃばってはいけなかった。……「俺」は彼女の「お姉さま」ではない。
同じ姿をした別人。偽物。中途半端な模造品。代替品。気持ち悪いもの。
いくら必死だったからとはいえ、唇を奪うなんて――彼女の想いを穢すようなことなんて、してはいけなかった。
「…………ごめん。――ただ、君に死んでほしくなかった。……それだけ」
絞り出した言葉。朔月は。
「……必死、でしたのね。私のために」
そう呟いた。
「……俺、帰るよ。今度こそ、原稿があるんだ」
原稿を言い訳にして、逃げようとする俺。
その服の裾を、彼女は握った。
胸が締め付けられるような思い。それに任せて振り返ると。
彼女の眼差しは真剣だった。……俺はそれを信じるように「どうした」と尋ねる。
「灼苑も、同じ毒を飲まされたと聞きますわ。……私を助けるのなら、あの子も助けてくださいまし」
「ああ。わかった」
俺は目を細めた。
安請け合いなのはわかっている。
でも、助けないという選択肢はなかった。
――俺なんかよりも生きるべき人を、どうして助けずにいられるだろうか。
*
――あつい。くるしい。
「灼苑様、水です」
芹矢がかいがいしく世話を焼く。
動こうにも動けない――動こうとしても、身体の節々が痛くて動けないわたしは、ただ世話されるばかりで。
わたし、このまま死ぬのかなぁ。
そんなことを思うと、少しだけ視界がぼやけて。
「……どうしたのですか」
「なんでもない。ただ、ただ――」
「死ぬのが怖いから、とか?」
そこには、芹矢とは違う長身の女性が見えた。
「……いわないでよ、奉景おねえちゃん」
視界がさらにぼやけた。
頬にしずくが零れた。