こんこん、と誰かが訪ねてきた。
「奉景さん、『おはようございます』」
……おかしいな、と俺は感じた。今は夜なのに。
それ以来、無言。息を吐いた俺。何も言われないことを少し不思議に感じた俺は、ドアを開けてみることにする。
そこには、正座した猫がいた。
「奉景さん、おはようございます。――思い出屋、と申します」
*
なるほど。猫は夜行性だから、彼にとって今は朝らしい。
それがわかったのは、彼――思い出屋と名乗る不可思議な猫を部屋に入れた後のことだ。
「……本当に猫なのか?」
いぶかしむ俺に、彼はんにゃはははと笑って。
「じゃあ貴女は人間なのですかい」
「当然だろ。……いや、どうかな」
「誰だって、本質は解らないものですよ。自分のものが、一番。ね、『お嬢さん』」
意味深に呟く思い出屋。良い感じにはぐらかされた気がして、俺はうなだれる。
「で、要件はなんだい? 不思議な猫さん」
そう尋ねると、彼はその目を薄く開いて俺を――その中に在る『俺』を見るようにして、告げた。
「思い出を、お届けに参りました」
「……思い出?」
「そう、思い出、です」
ますます、わからなかった。そんな曖昧なものを、どうやって届けに来たというのだろう。
そんな疑問を見透かしたかのように、目の前の猫はにゃははと笑う。
「早速、品をお出しいたしましょう」
猫がパチンとその手――手というか前足の肉球というか、わからないけれど――を叩くと。
……いつの間にそこにあったのだろう。床に、風呂敷に包まれた小さいものがあった。
「さ、開けてみてください」
「お、おう」
言われるがままそれを開けてみる。
俺は目を見開いた。
ウォークマンだった。青緑色で、小さくて、確か一番安いやつ。
イヤホンがつながったそれの電源をつけると、見慣れた画面が広がった。
「……これ」
「あなたのもの、でしょう?」
にゃはは、と笑った思い出屋。
どこで手に入れたんだ。どうして手に入れたんだ。どうやって――そこまで聞こうとして。
けれど、どこか年季の入った妙に手になじむそれは、まさしく「俺のもの」だった。
まさしく、俺の前世の遺品だった。
「……本当だ」
少し色あせた筐体。解像度の低い画面に表示される、かつて入れた曲の情報。
疑問も、言葉すら、浮かんでは消える。何も言えなくなっていた。
そっとイヤホンを耳に差し込んだ。すっと消える、周囲の音。ノイズキャンセリング。
ポチポチと操作して、曲を流し始めた。
短いイントロから、一気に広がる音の世界。
Mr.Childrenのアルバム、シフクノオト。一曲目から、聞き入っていた。
これをもらったあの日も、確かこんな感じだった。
*
「ハルカゲ、十四歳おめでと!」
施設。安いケーキに刺さったろうそくを吹き消した、あの日のことだった。
広い大部屋。数人が一緒に寝る寝室で、小さな包みを手渡されたのだ。
「ヨータ……これ、なに?」
その包みを手渡した、一つ下の親友に尋ねると。
「開けてみろよ。きっとびっくりするぜ? な、マコトっ!」
「うん。ヨータくんと、いっしょにえらんだから」
もう一人の友人も、ベッドに腰掛けながら頷く。
何が入ってんのかなぁ。びっくり箱とかだったらやだなぁ。
ドキドキ半分、ワクワク半分。そんな心持ちで開けた包み。そこにはシンプルな箱。
「えぬ、だぶりゅー……ソニー。……これって」
俺は目を輝かせた。
「そう、ウォークマン!」
当時はまだ、毎年新型のウォークマンが発売されている頃だった。
「よく共用のパソコンで検索してたろ?」
ラジカセの前でCDを流しながらぼうっとするのが好きだった俺は、いつか自分専用のオーディオプレイヤーを持つことが夢だった。
そのころ、スマホなんてまだ高価で子供が持つものではなかったので、パソコンでiPodやウォークマンの情報なんて調べて、けれど自分じゃまだ手が出ないと諦めていたのである。
「二人でお金を出し合って、選んだんだ」
「大変だったんだぜ? 結構高かったし、どれ選べば良いかもわかんなくってさ」
口々に話す二人の親友。よく俺とあわせて三バカと呼ばれる彼らにしては、とてもよく吟味したようで。
「……ありがと。ヨータ。マコトも」
目を潤わせながら告げた言葉に、まだ幼い少年であったはずの彼らはニッと笑って。
「いいんだよ、おめでと。ハルカゲ」
そんなことを言っていた。
*
あのあと、パソコンで四苦八苦して取り込んだ初めてのCDが、このシフクノオトだった。
そんなことを思い出しながら、俺はイヤホンから流れてくる音の渦に涙を流していた。
目の前で、猫は優しく笑った。
「お気に召しましたかな?」
そう言っているようで、俺は思わず呟く。
「ありがとう」
最後の曲が終わり、音が鳴り止んだとき。
不意に、肩を叩かれた。
「奉景さん。その小さなものはなんですの?」
振り向くと、少女がいた。
「……ウォークマンだよ、朔月。そこの猫が――」
イヤホンを外し、思い出屋のいる方を指さすが。
「猫なんて居ませんけども」
「あれ?」
気がつくと、彼は居なくなっていた。
煙のように、香りも遺さず、ただ思い出だけを置いて。
「へぇ、音楽を流せるんですの」
「ああ。好きだった曲が……思い出が、たくさん詰まってんだ」
「聞かせてくださいましっ」
気がつけば、朝日が昇っていた。
朝の澄んだ空気に、俺は背筋を伸ばした。
わずかな倦怠感に一つ息を吐いて。
さ、今日も書くか。
イヤホンを耳に、筆を執った。